葛西清重
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時代 | 平安時代末期から鎌倉時代前期 | |||
生誕 | 応保元年(1161年)? | |||
死没 | 暦仁元年9月14日(1238年10月23日)? | |||
別名 | 三郎。壱岐入道定蓮(通称) | |||
官位 | 従五位下、右兵衛尉。左衛門尉、壱岐守 | |||
氏族 | 葛西氏 | |||
父母 | 父:豊島清元(清光)、母:秩父重弘の娘 | |||
妻 | 正室:畠山重能の娘 | |||
子 | 葛西清宗 |
葛西 清重(かさい きよしげ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士。葛西氏の初代当主。
[編集] 生涯
父の豊島清元は平姓秩父氏一族の豊島氏の当主で武蔵国に広い所領を有し、下総国葛西御厨(東京都葛飾区)も所領としていた。三男の清重は葛西御厨を相続し、葛西三郎と称した。
治承4年(1180年)8月、源頼朝は平氏打倒の挙兵をするが石橋山の戦いで大庭景親に敗れて安房国へ逃れた。9月3日、頼朝は小山朝政、庄司行平そして清元・清重父子に書状を送り、特に清重に対しては「忠節の者である」として海路ででも直ちに参じるよう求めている。この時は合流できなかったが、頼朝が千葉氏、上総氏の軍勢を加えて隅田川まで進軍してくると、10月3日に清元とともにこれに参じた。
豊島氏・葛西氏と同じ平姓秩父氏一族の江戸重長は石橋山の戦いで大庭景親に味方しており、頼朝の参陣の要求にも形成を観望してなかなか応じなかった。このため頼朝は清重に命じて重長を誘殺しようとまで図っている。
結局、同じ平姓秩父氏一族の畠山重忠、河越重頼も参陣したことで、江戸重長も伏そうとするが、頼朝の怒りは収まらず重長の所領を没収して清重に与えることに決めた。ところが、清重は「所領を得ようと望むのは一族を養うためです。一族の重長の所領を賜うのは私の意志ではありません。宜しく他者に賜りますよう」と拒絶してしまった。頼朝は激怒して清重の所領も没収すると脅すが、清重は「士は高潔を尊びます。受けるべきものでないものを受けるのは義にあらず」と断固として拒絶し、頼朝もこれに感じ入り、重長を許すことにした。
10月6日に頼朝は鎌倉に入り、同月16日に富士川の戦いで平維盛の遠征軍を敗走せしめた。11月、頼朝は自ら兵を率いて常陸国の佐竹秀義を討った。その帰路に頼朝は清重の館に立ち寄り、清重は栄光のこととして丁重なもてなしをし、妻女を頼朝の御膳に侍らせた(夜伽をさせた)。頼朝は大変に満足して清重に武蔵国丸子荘(神奈川県川崎市)を与えた。清重は頼朝に信任され側近く仕えることになる。
元暦元年(1184年)5月、源義高(源義仲の嫡男で頼朝に殺された)の遺臣の捜索に参加。同年8月、源範頼の平氏討伐の遠征に従軍。兵糧の調達に難渋して遠征軍は苦戦したが、九州に渡って平氏の背後の遮断に成功し、元暦2年(1185年)3月11日、清重は北条義時、小山朝政らとともに頼朝から特に慇懃の御書を賜り大功を賞されている。同月25日、平氏は壇ノ浦の戦いで滅亡した。
文治5年(1189年)清元・清重父子は奥州藤原氏討伐に従軍(奥州合戦)。同年8月の阿津賀志山の戦いで清重は三浦義村、工藤行光ら7騎で陣を抜け出し山を登って抜け駆けの先陣を果たし、奮戦して武門の誉れと讃えられた。
奥州藤原氏滅亡後の9月、頼朝は論功行賞を発表し、清重は勲功抜群として伊澤郡、磐井郡、牡鹿郡など数か所に所領を賜り、更に奥州総奉行に任じられ、陸奥国の御家人統率を任されるようになる。平泉保内に検非違所という政庁を築くことも許されるなど、事実上の奥州の国主としての政治権力を頼朝から委任される形で与えられた。このとき清重は、藤原氏滅亡後の陸奥の内政に尽力したと言われている。奥州の仕置きを行っている清重に対して、頼朝は病床にあった清重の老母の様子を使者を送って伝えてやるほど気を遣っている。
文治6年(1190年)正月に起きた奥州藤原氏遺臣による大河兼任の乱でも千葉胤正とともに平定に尽し、「殊なる勇士なり」と讃えられた。
建久元年(1190年)11月に頼朝は上洛。朝廷に勲功ある御家人10人への官位を推挙し、清重は右兵衛尉に任じられる。
頼朝没後は北条氏に接近し、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱で北条方として参戦し、武功を挙げた。建暦3年(1213年)の和田合戦でも北条方として武功を挙げている。 清重は北条氏からの信任も特に厚い宿老として鎌倉幕府の初期政治に参加した。
清重の没年には1238年9月14日、1237年12月5日など諸説があり、詳しくはわかっていない。清重の孫・葛西清貞は南朝の武将として南北朝時代に活躍した。
陸奥に多くの所領を持った葛西氏は陸奥の大族となり、安土桃山時代に豊臣秀吉に滅ぼされるまで長く勢力を持ち続けることになる。
[編集] 参考文献
- 杉山博『豊嶋氏の研究』(名著出版、1974年) ISBN B000J9DKGI
- 難波江進『豊島氏千年の憂鬱』(風早書林、2005年)ISBN 4990264307