阿片戦争
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阿片戦争(アヘンせんそう、英:First Opium War, First Anglo-Chinese War)は清とイギリスとの間に1840年から2年間行われた戦争で、南京条約をもって終戦とした。名前の通り、アヘンの密輸入が原因となっておきた戦争である。
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[編集] 戦争に至る状況
[編集] アヘン貿易
当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。逆にイギリスから清へ輸出されるものは、時計や望遠鏡のような一部の富裕層にしか需要されないようなものはあったものの、大量に輸出できるようなものはこれと言って無く、イギリスの大幅な輸入超過であった。イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命による資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは清へ輸出出来る物品として、植民地のインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。
これに対し清は、すでに1796年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していたが、アヘンの密輸入はやまず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。またアヘンの輸入量増加によりイギリスの(銀)出超だったのが、清の(銀)出超になり、清国内の銀保有量が急速に減っていき銀の高騰をまねいた。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭が使用されていた。交換比率は相場と連動しており、銀貨1に対して銅銭1000文であったものが、銀の高騰により銀貨1に対して銅銭2000文という比率になった。銀本位制であるから税金は銀で換算されるため、農民が納める税金は二倍になった計算である。銀が不足し値が上がる事は物価が上がる事と同義であり、地丁銀制が事実上崩壊し、経済にも深刻な影響を及ぼした。
[編集] アヘン取締
ここで官僚の許乃済から「弛禁論」が出た。アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い。と言う論である。この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、今度はアヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う意見が出て、道光帝は林則徐を欽差大臣(特命大臣のこと)に任命し、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。
林則徐は阿片を扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しい阿片取り締まりを行った。1839年(道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後一切アヘンを持ち込まない」と言う誓約書を出す事を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収し、これをまとめて焼却処分した。(実際は、海水<食塩水>と消石灰による化学反応によって、阿片を無害な物質に変えて処分したことから、その時まきあげた化学反応の煙によって、焼却処分したと庶民には伝承されてきた)この時のアヘンの総量は1400tを越えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。
イギリスの監察官のチャールス・エリオットはイギリス商船達を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を出せば貿易を許す」と返した。実際にアメリカ商人は誓約書をすぐに出してライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。それを横目で見ていたトマス・カウツ号というイギリス商船が誓約書を出して商売を再開するようになった。これに続こうとした商船をエリオットは軍艦を出して引き止め、再度禁輸の解除を求める要望書を出したが、林則徐はこれをはねつけた。
[編集] 戦争勃発
1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にはイギリス本国の議会でも、野党であった後の首相ウィリアム・グラッドストンを中心に『こんな恥さらしな戦争はない』などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、イギリス東洋艦隊が清に向けて進発した。
艦隊は広州へは赴かず、いきなり天津沖に姿を現した。北京に近い天津に軍船が現れたことに驚いた北京政府は(政権内の権力闘争も兼ねて)林則徐を解任し、イギリスに対する政策を軟化させた。
1840年11月、イギリス艦隊は清政府に対して香港割譲などの要求を出す。北京はこれを拒否し、翌年1月7日、艦隊は攻撃。虎門の戦いでは関天培らが奮戦するも完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。
[編集] 終戦後の推移
この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認などを余儀なくされた。ただ意外にも戦争の原因となったアヘンについては特には触れられなかった。恥ずべき原因を文書上に残すことをイギリス側が躊躇したためである。
このイギリスと清との不平等条約は、他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリカの望厦条約、フランスの黄埔条約などが結ばれた。
この戦争をイギリスが引き起こした目的は大きく言って二つある。それは、東アジアで支配的であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、著しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせることである。しかし結果として中英間における外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、もう一つの経済的目的-中国人一人 々 にイギリス製の靴下を履かせるという目論見は達成されなかった。中国製の綿製品がイギリス製品の輸入を阻害したからである。これを良しとしなかったイギリスは次の機会をうかがうようになり、これが第二次阿片戦争とも言われるアロー戦争へとつながっていくことになった。
[編集] 戦争の余波
阿片戦争は清朝側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた人々は限られていた。主戦場が広東という北京からは遠く離れた場所であったことや、中華が夷狄に敗れ去ることはまま歴史上に見られたことがその原因である。しかし一部の人々は、イギリスがそれまで史上に度々登場した夷狄とは異なる存在であることを見抜いていた。たとえば林則徐のブレーンであった魏源は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカの情報の委託をされ、それを元に『海国図志』を著した。「夷の長技を師とし以て夷を制す」という有名な一節は、これ以後の中国近代史がたどった西欧諸国の技術・思想を受容して改革を図るというスタイルを端的に言い表したことばである。この書は東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書であった。それまでにも地誌はあったが、西欧諸国については極めて粗略で誤解に満ちたものであったため、詳しい情報を記した魏源の『海国図志』は画期的であったといえよう。
さて阿片戦争における清朝の敗戦は、清の商人によって、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられた。以前より蘭学が発達していた日本では、中国本土よりも早くこの戦争の国際的な意味を理解し、危機感を募らせた。そのため先にあげた魏源の『海国図志』もすぐに日本に伝えられている。幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を、この阿片戦争から生まれた書物が担っていたのである。
[編集] 参考文献
- 『支那外交史とイギリス〈その1〉アヘン戦争と香港』矢野仁一 著 ISBN 4122016894
- 『林則徐―清末の官僚とアヘン戦争』堀川哲男 著 ISBN 412202837X
- 『清代アヘン政策史の研究』井上裕正 著 ISBN 4876985200
- 『林則徐』井上裕正 著 ISBN 4891742291
- 『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会』角山栄 著 ISBN 4121005961
[編集] 小説
- 『阿片戦争』陳舜臣著 ISBN 4061311883・ISBN 4061311891・ISBN 4061311905