駒澤野球場
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駒澤野球場 | |
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Komazawa Baseball Stadium | |
施設統計 | |
所在地 | 東京都世田谷区駒沢(現駒沢公園) |
開場 | 1953年9月21日 |
閉場 | 1961年 |
取り壊し | 1962年 |
所有者 | 東京都(東京急行電鉄より施設寄付) |
管理・運用者 | 東京都、東映フライヤーズ野球団 |
グラウンド | 内野:クレー舗装 外野:天然芝 |
照明 | 照明塔:6基 |
設計者 | |
建設者 | 東京急行電鉄 |
使用チーム、大会 | |
東映フライヤーズ(開場~閉場) | |
収容能力 | |
20,000人 | |
規模 | |
グラウンド面積:-m² 両翼:91.5 m、中堅:122 m |
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フェンスの高さ | |
m |
駒澤野球場(こまざわやきゅうじょう)は、かつて東京都世田谷区駒沢にあった野球場。プロ野球・東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)が本拠地として使用していた。施設は東京急行電鉄(東急)が建設し東京都に寄付されたもので、球団の運営会社である東映フライヤーズ野球団が運営管理業務の一部を行っていたが、1962年シーズンを以って廃止・撤去され、跡地は駒沢オリンピック公園となった。
このため駒澤野球場は現存せず、現在同公園内にある駒沢オリンピック公園総合運動場硬式野球場とは異なる。
目次 |
[編集] 歴史
1914年、当時の東京府荏原郡駒沢村(1925年に町制施行)に府内唯一のゴルフ場、駒澤ゴルフ場が開場した。政財界の著名人などの社交場として賑わったが、周辺の地価高騰などにより、駒沢町が東京市に編入し世田谷区域となった1932年、ゴルフ場は埼玉県内へ移転した。跡地は1940年開催の東京オリンピックに合わせ、メイン会場の建設用地となる予定だったが、日中戦争の開戦によりオリンピックは開催中止となり、予定されていた会場の建設も全て中止された。用地はその後日本軍に接収され陸軍駒澤練兵場の一部となった。
1952年からプロ野球はフランチャイズ制を導入したが、関東近県では公式戦を開催できる野球場が少なく、また明治神宮野球場はプロ野球で使用することができなかった。その結果、首都圏を本拠地とするプロ球団の主催試合の多くは後楽園球場で開催されていた。1953年当時、後楽園を本拠地としていたのは読売ジャイアンツ(巨人)、東急フライヤーズ、大映スターズ、毎日オリオンズ、国鉄スワローズの5球団。日によってはトリプルヘッダーを敢行するなど過密日程が常態化していた。
これら後楽園を本拠地としていた球団のうち、東急フライヤーズの親会社である東急は同年、過密化していた後楽園を離れ、且つ自社沿線の誘客策の一環としてプロ野球公式戦を開催するための野球場を設けることを決定。東急玉川線の駒沢駅南側、旧陸軍駒沢練兵場跡地で整備が進められ、同年9月21日、駒澤野球場が竣工した。しかしそれと引き換えに「東急は自軍専用の野球場を所有している」と判断され、後楽園での興行権を剥奪されることとなった。翌1954年、東急は当時傍系企業だった映画会社の東映に球団運営を委託。チーム名は「東映フライヤーズ」に変更され、同年から正式に駒沢球場を本拠地とした。
突貫工事で造られた、内外野とも土盛りのスタンドで照明設備もない野球場。都心からやや離れており、しかも当時の周辺は開発途上で畑が広がっており、風向によっては肥料の悪臭が漂ってくる上に、強風の折には砂塵が舞い上がるという粗悪な立地条件だった。それに加えて当時のフライヤーズはチームが低迷していた事もあいまって、開場当初は観客数が200人ほどという試合もあったほどだった。しかしその後、照明設備が追加設置されると次第に観客動員数は増加。またチーム力も向上し、その自由奔放な気風から「駒沢の暴れん坊」の異名をとった。フライヤーズはこの駒沢球場で、後に迎える黄金期の基礎を築いてゆく。
またこの間も後楽園では日程の過密化が改善されておらず、駒沢球場では東映以外の在京パ球団が主催試合を開催した他、国鉄などセ・リーグの公式戦も行われた。またシーズン終盤には、西鉄ライオンズなど在京以外の球団が日程消化のために使用した例もある。
プロ野球の他、大学野球などアマチュア野球公式戦でも使用され、当時神宮球場を完全に専有できなかった東都大学野球連盟の公式戦も度々行われた。特に東都大学リーグ史上に残る接戦といわれるのが、1958年の秋季リーグ戦。優勝争いはもつれにもつれ、全日程終了時には中大、日大、学習院大の3校が同率で並ぶ三つ巴となり、優勝決定戦を行うことになった。しかし1回目、2回目とも3校揃って1勝1敗で優勝が決まらず、3回目の決定戦は駒沢に場所を移して行われ、学習院大は2勝を挙げて遂に初のリーグ優勝を決めた。当時皇太子が通う大学が優勝したとして、アマチュア野球の話題の枠を外れてAP電で打電され、世界に向けて報じられた。学習院大は2006年現在、これが史上唯一の東都一部リーグ優勝である。
1961年、東映は監督に水原茂を招聘。優勝争いに食い込む躍進を果たしたが、同年、都から駒沢球場の立地を1964年に開催する東京オリンピックの会場整備に充てるため、用地を返還するよう命じられた。東映は都の仲介によって翌1962年から本拠地を神宮球場に移し、駒沢球場は僅か9年でその歴史に幕を下ろすこととなった。同年、東映は球団史上初のリーグ優勝。そして日本シリーズも制して初の日本一に輝いた。
同年秋から駒沢球場の撤去工事が本格的に始まり、その後跡地には駒沢オリンピック公園が整備され、各種競技施設が建設された。かつて駒沢球場があった場所は、駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場から補助競技場にかけての位置にあたる。その後1965年には公園内に、別の場所に硬式野球場が新規に建設された(駒沢オリンピック公園総合運動場硬式野球場の項を参照)。
[編集] 主なエピソード
- 1960年7月19日に開催された、東映フライヤーズ対大毎オリオンズ戦の8回表二死満塁、大毎打者・山内和弘はフルカウントから見逃し三振。ところが、東映捕手・安藤順三がこの投球を後逸。「三振で、大毎の攻撃終了」と判断した東映側はナイン全員がベンチに戻ったのに対し、大毎は「振り逃げが成立する」として満塁の走者がベースを回り、「振り逃げで4得点」という珍記録が生まれた(ルール及び詳細については振り逃げの項を参照)。
[編集] 施設概要
- 両翼:91.5m、中堅:122m
- 収容人員:20,000人(内外野土盛りスタンド)
- 照明施設:照明塔6基
[編集] 当時の交通
[編集] 関連項目
前本拠地: 後楽園球場 1948 - 1953 |
東急フライヤーズ・ 東映フライヤーズの本拠地 1953 - 1961 |
次本拠地: 明治神宮野球場 1962 - 1963 |