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レオシュ・ヤナーチェク - Wikipedia

レオシュ・ヤナーチェク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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レオシュ・ヤナーチェクLeoš Janáček, サウンド サウンド! ?, 1854年7月3日 - 1928年8月12日)は、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家

モラヴィア地方の民俗音楽研究から生み出された、チェコ語のリズムや旋律を活かした独自の音楽語法を用い、朗唱風のオペラをはじめ、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に多くの傑作を残した。

20世紀前半では、祖国を除き、まだごく限られたレパートリーのみが知られるマイナーな存在であったが、ピアニストのルドルフ・フィルクスニーや指揮者のチャールズ・マッケラスらの優れた演奏および録音をきっかけに広く知られるようになった。

ヤナーチェク(1928年)
ヤナーチェク(1928年)

目次

[編集] 生涯

[編集] 少年期

1854年7月3日、モラヴィア北部の寒村フクヴァルディ[1] において、学校教師の父イルジーと母アマリアの10番目の子供として誕生した。11歳のときモラヴィアの首都ブルノに連れて行かれ、アウグスティノ会修道院[2]の少年聖歌隊員となった。聖歌隊で彼に音楽教育を施した指揮者、パヴェル・クルジージュコフスキー[3]はチェコ国民楽派の始祖とされるスメタナと同世代にあたり、ブルノ・ベセダというアマチュア音楽家グループの中心人物としてモラヴィアの民俗音楽の豊かさを認識させる運動を行っていた音楽家で、その後のヤナーチェクの音楽に対して影響を及ぼした。

ヤナーチェクは1872年、アウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に、1873年にはスヴァトプルク合唱協会の指揮者に就任した。無伴奏男声合唱のための作品がヤナーチェクの初期作品にいくつか見られるが、それらはこのスヴァトプルク合唱協会のために書かれたものと考えられる。

[編集] 青年期

1874年、ヤナーチェクはオルガン学校で学ぶためにプラハに移り、主に教会音楽を中心とした1年間の課程を「極めて優れている」成績で修了した。プラハ時代にはドヴォルザークとの出会いがあり、ヤナーチェクはその音楽を深く愛するようになっている。

プラハからブルノに戻ったヤナーチェクは、修道院での聖歌隊の指揮やスヴァトプルク合唱協会の指揮に復帰した。さらにブルノ・ベセダの聖歌隊指揮者にも就任したが、多忙となったためスヴァトプルク合唱協会の指揮者を辞任した。

こうして実践的な場で音楽経験を積むにつれ、基本的な音楽技法の不足を感じたヤナーチェクは再び勉強し直すことを決意した。交際していた女性、ズデンカ・シュルゾヴァーの実家の勧めもあり、1879年10月にヤナーチェクはライプツィヒの音楽院に入学した。しかし彼はそこでの教育に満足できず、翌年の2月末にウィーンに向かった。このとき、ヤナーチェク本人はフランスでサン=サーンスに学ぶことを考えたのだが、恋人ズデンカの反対によりウィーンへ行くことにしたのである。

この当時、ウィーン音楽院ではヨゼフ・ヘルメスベルガー、ロベルト・フックスアントン・ブルックナーなどが教師として名を連ねていたが、ヤナーチェクが作曲の指導を受けたのはマーラーの師であったフランツ・クレンであった。しかし彼はウィーンの音楽教育にも飽き足らず、その年のうちにブルノに帰った。クレンといえば、マーラーの伝記では厳格な教師として知られているのだが、ヤナーチェクは彼を理論的ではないと感じ、不満を募らせたのだという。

もっとも、彼が本当に不満を感じたのは音楽教育に対してではなく、辺境出身者として大都会で感じた疎外感ではなかったかとの見方もなされている。ブルノに帰ってから後のヤナーチェクは民族主義運動に共感し、ドイツ語での会話を拒否するようになっている。

結局、この頃の正規の音楽教育への失望が、このあと自国の言語と民俗音楽からその独特の音楽語法を身につける道の選択へとつながるのである。

[編集] 壮年期

ヤナーチェクとズデンカ・シュルゾヴァー(1881年)
ヤナーチェクとズデンカ・シュルゾヴァー(1881年)

ブルノに帰った翌1881年にヤナーチェクは、ズデンカ・シュルゾヴァーと結婚し、岳父エミリアン・シュルツの助けで1882年にオルガン学校を開校した。この学校は、1919年に国立音楽院となった、現在のヤナーチェク音楽院である。また、同じ年にブルノ・ベセダに歌とヴァイオリンの学校も開設している。さらにヤナーチェクはブルノに設立されたチェコ人劇場のための音楽雑誌「フデブニー・リスティ」の創刊者となり、1884年11月にその第1号を発刊した。この頃のヤナーチェクは2つの音楽学校の教師、2つの合唱団の指揮者、音楽雑誌の編集者と多忙を極め、作曲をほとんど行っていない。

1886年、ヤナーチェクは民俗音楽を研究していた民俗学者フランティシェク・バルトシュと親交を深め、協力して民俗音楽と民俗舞踊の収集・分析作業を行うことにした。ヤナーチェクはこの作業に没頭したが、これがモラヴィアの音楽をその血肉とする最後の仕上げとなった。ヤナーチェクは1889年の「ラシュスコ舞曲」において、初めて民俗音楽をはっきりと意識した作品を発表した。民俗音楽の直截な引用は1891年のオペラ「物語の始まり」で頂点に達し、その後はほとんど見られなくなる。こうして独自の音楽語法を手にしたヤナーチェクが1894年から1903年の9年間をかけて完成させたのが、彼の代表作の一つであるオペラ「イェヌーファ」であった。

一方で、彼の民族主義運動への共感は深まっていた。1905年10月1日、ブルノでチェコ人のための大学創立を要求するデモと軍隊が衝突し一人の労働者が死亡する事件が起こるが、この事件に怒ったヤナーチェクはピアノソナタ「1905年10月1日 街頭にて」を作曲した。また1915-1918年には、コサック首領の物語に祖国独立の想いを仮託した管弦楽曲の代表作、交響的狂詩曲「タラス・ブーリバ」を作曲し、チェコスロヴァキア共和国軍に捧げている。

私生活では、ズデンカ・シュルゾヴァーとの結婚生活は当初から不安定な状態が続き、妻の実家であるシュルツ家との関係も悪化した。ヤナーチェクは結婚の前後から、民族主義的な傾向を強めドイツ語の使用を避けるようになっており、それが当時の上流階級の常としてドイツ語でドイツの習慣に従って生活していたシュルツ家の人々との距離を離れさせる一因であった。1890年に長男が亡くなった後は、ヤナーチェクの死まで結婚関係こそ解消されなかったものの、結婚生活は事実上崩壊していた。

1903年には、ヤナーチェクは娘オルガも亡くした。この頃にはピアノ曲集「草陰の小径」や「霧の中で」といった内省的な作品が書かれている。

[編集] 晩年

1917年、63歳になったヤナーチェクは、運命の女性カミラ・シュテスロヴァーと出会った。この出会いが彼の創作意欲に刺激を与えたのか、1917年から1919年に歌曲集「消えた男の日記」、1919年から1921年にオペラ「カーチャ・カバノヴァー」、次いで1921年から1923年にかけてオペラ「利口な女狐の物語」、1923年には弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」、1924年に木管六重奏のための「青春」、1926年に「シンフォニエッタ」、「グラゴル・ミサ」、1927年から1928年に最後のオペラ「死者の家から」、1928年に弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」と、それぞれの分野での代表作となる傑作を立て続けに書き上げていった。

1928年7月30日、ヤナーチェクは、カミラとその夫デイヴィッド、そして11歳になるカミラの息子の三人を招待して、故郷フクヴァルディに出かけた。カミラの夫デイヴィッドは商用のため数日で帰宅したため、ヤナーチェクはカミラとその息子の三人で休暇を過ごしていたが、この滞在中ヤナーチェクは死に至る肺炎に罹ってしまった。原因はカミラの息子が帰らないのを心配して雨の中を森に探しに出かけせいとも、ハイキングで雨に降られたせいとも言われる。

8月12日、ヤナーチェクは肺炎によりオストラヴァで息を引き取った。彼自身の指示で、妻ズデンカへの連絡は亡くなるまで行われなかった。棺はブルノの聖アウグスティヌ修道院の聖堂に安置され、葬儀は8月15日にブルノ劇場で行われた。

葬儀では作曲家の生前の希望通りオペラ「利口な女狐の物語」から森番のエピローグが演奏された。オペラの中でヤナーチェク自身が台本を書き起こした部分で演奏される曲は、流れてゆく時間の中で循環し繰り返される生命・大いなる自然の営みへの感動と敬意を歌う楽曲であり、自身の死を前にしたヤナーチェクの死生観を示している。

[編集] ヤナーチェクの音楽史に占める位置

[編集] 民俗音楽のインパクト

ヤナーチェクは、スメタナ、ドヴォルザークに次ぐ、時代的にも知名度でもチェコ第三の作曲家であり、チェコ国民楽派の重要な一人に数えられる。

ヤナーチェクが先行二者との間に違いをなす点は、その音楽語法にある。先行二者が民俗音楽の旋律リズムを素材として扱い、それを既存の古典的な音楽語法に合わせて和声や構成を換骨奪胎していったのに対し、ヤナーチェクは旋律を引用したり、形だけのリズムを切り取ったりはせず、民俗音楽の語法を自らの語り口にした。チェコ国外で彼の知名度は高いとは言い難いのはこのためである。

しかし1886年以降に彼が行った、民謡の生まれた現場へ出かけてそれを採集して、自らの音楽語法として取り込む民俗学的なフィールド・ワークの手法は、その20年後にバルトークコダーイハンガリールーマニアで、さらにその15年後にポーランドシマノフスキが始め、中東欧諸国の音楽史に偉大な足跡を残した活動の先駆けとなるものである。

ひるがえってその背景をみると、ヤナーチェクの登場した19世紀後半、後期ロマン派の音楽は爛熟を極め、その和声の錯綜はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に至り出口のない袋小路に行き詰まっていた。繊細のあまり活力を失った音楽を再生させるために、東洋の音楽や各地の民謡などのいわば土俗の活力は魅力的だった。

この頃、中東欧を支配してきた強大な帝国の求心力は急速に低下し、それまで中央の政府に抑圧され、演奏が禁じられすらしていた自らの言葉を自らの旋律に乗せて歌う民謡が、祖国独立を訴える民族運動のたかまりと共に見直されつつあった。この動きに連動し、民謡を自らの音楽に取り入れ健全化しようと考える音楽家が現れるのは自然なことである。帝国支配が行き渡ることにより街道の交通網が整備され、音楽家がその現場を訪れ直接耳にする機会が増えたことも、このような手法が登場する要因の一つとして評価すべきではあるが、しかしそれは、地域交流により土地固有の民謡が損なわれる危機をも意味していた(すでにバルトークはこれを嘆いている)。そうした危ういタイミングで民謡採集のフィールド・ワークは行われたのであり、その先鞭をつけたヤナーチェクの功績は現在の彼に対する一般的な評価ではまだ不足しているほどである。

[編集] モラヴィア音楽の特徴とヤナーチェク

現在のチェコは大きく分けて、ボヘミア(西部)とモラヴィア(東部)という歴史的地域から成り立っているが、両者はその文化、民俗音楽にも違いがある。ヤナーチェクの音楽においては、モラヴィア音楽の特徴を抜きに論ずることはできない。

モラヴィアの音楽は、ボヘミアの音楽が強拍で始まる1、2小節あるいはその組み合わせからなるリズムパターンを反復する舞踏的な構成であるのに対し、基本的にはリズムの反復構造を持たず言葉の抑揚に任せ朗唱風になだらかなリズム、メロディで推移してゆくもので、イスラム教徒によるコーランの朗唱や、東洋の民族音楽に多くみられるメリスマ唱法を連想させる特性を持っている。

ヤナーチェクは、こうした特徴にはモラヴィア地方の方言が関与していると推測した。モラヴィアの言葉はアクセントがマイルドになるという特徴があり、ヤナーチェク自身、自分の名前の「ナ」のアクセントをうまく発音できず、長音が詰まってしまって「ヤナチェク」と発音していたと言われるが、彼はこの特徴を音楽の特徴と結びつけて考え、モラヴィアの民謡の旋律は「話し言葉の抑揚から生まれた」との結論に達した。彼は、これを「発話旋律」あるいは「旋律曲線」と呼んでいる。このアイディアは真に現代音楽への道を開くものであり、スティーブ・ライヒのオペラやクリストフ・デルツの「トランスコンポジション」と呼ばれる作曲技法に多大な影響を与えた。

こうした考えを抱いたヤナーチェクは、人の話した言葉や動物の鳴き声などあらゆるものを採譜しメモしていった(娘オルガが臨終の床でついたため息までも採譜されている)。ヤナーチェクのオペラで今日比較的上演回数の多い「イェヌーファ」「カーチャ・カヴァノヴァー」「利口な女狐の物語」「マクロプロス事件」「死者の家から」のいずれもが台本を作曲者自身が書き上げており、そうでないオペラの影が薄いことは、言葉と旋律が極めて密接に互いを引き立て合っていることを物語る証左であろう。

また、モラヴィア民謡では旋律を三度や六度で重ねることがある。ヤナーチェクは部分的にこの手法を用いることで輝かしい効果を上げている。これはボヘミア民謡にも共通の特徴であり、ヤナーチェクに先行するスメタナやドヴォルザークもしばしば用いているものである。

[編集] ヤナーチェクの受容史

ヤナーチェクの受容史を考える上でオペラ「イェヌーファ」は大変興味深い作品である。

この作品はヤナーチェクがモラヴィアの民俗音楽の語法を身につけた後9年の歳月をかけて完成させた、この時点での会心作であった。しかし、ヤナーチェクは「イェヌーファ」の初演をボヘミアの首都プラハで行うことを希望していたのだが、プラハの国民劇場からは「成功するとは思えない」という理由で拒絶されてしまった。これはヤナーチェクと国民劇場の主席指揮者だったカレル・コヴァルジョヴィッツとの個人的な確執が拒絶の原因といわれるが、そもそも先に述べたようにボヘミアとモラヴィアでは音楽に大きな違いがあり、それゆえに「イェヌーファ」完成当時のプラハでは、ヤナーチェクが人気のある作曲家ではなかったことを示唆している。

1900年前後のチェコの人気作曲家といえば、ドヴォルザークとズデニェク・フィビヒであり、次の世代のヨゼフ・スークであった。1904年のブルノでの「イェヌーファ」初演は成功だったとはいえ、この時点でヤナーチェクは、民俗学かぶれの田舎の作曲家にすぎなかったのである(彼のこうした焦燥感がピアノ曲の名作「霧の中で」を生む)。

結局、プラハで「イェヌーファ」の公演が行われたのは、ブルノでの初演から12年も経った1916年のことで、これは大成功であった。この成功でヤナーチェクの名はヨーロッパで知られるようになった。1918年のウィーン、ケルンをはじめ、その後数年のうちにフランクフルトベルリンバーゼルでも公演された。そして1924年にはニューヨークメトロポリタン歌劇場公演がなされた。1917年のカミラとの出会いをきっかけに始まった晩年の旺盛な創作活動の陰には、こうした成功も影響している。

しかし、ヤナーチェクは死後次第に忘れられ、比較的長く名声が保たれたドイツ語圏でも第二次世界大戦により忘れ去られることになった。その後は、チェコのローカルな作曲家として、フィルクスニーやラファエル・クーベリックヴァーツラフ・ノイマンらが演奏する極めて限られた作品が聴かれるにすぎなくなった。しかし、マッケラスのオペラ録音を機に再発見がなされ、演奏される曲目も増え、その評価は次第に高まりつつあるのが現在の状況である。

[編集] ヤナーチェクのテーマ

ヤナーチェクのテーマは「拘束からの解放」という点で首尾一貫している。それはモラヴィア北部の山村フクバルディの豊かな自然から切り離され入れられた修道院の厳しい規則の中で生まれ、ライプツィヒやウィーンで辺境者として味わった疎外感によって育まれたものであると考えられる。ヤナーチェクのチェコ語を重んじる音楽が郷土愛から愛国主義へ、そしてこのテーマと結びつき民族運動へと発展するのは極めて自然な成り行きであった。タラス・ブーリバ (1915-18年)やピアノ・ソナタ (1905年)はその代表作である。

1917年に出会った「運命の女性」カミラは何よりも大きな影響をヤナーチェクに与えた。人妻であったカミラ自身はヤナーチェクに対して終始年長の友人として接しており、両者の関係は彼女の結婚生活になんの問題も与えなかったが、ヤナーチェクにとっては、彼女が人妻であるという事実、自分にも(形だけとはいえ)妻がいるという事実、ひいては婚姻それ自体が耐え難い拘束と感じられたのであろう。1918年チェコスロヴァキアが独立を果たすと、彼の音楽は旧弊な婚姻制度の抑圧、あるいはその犠牲にされている女性をテーマとするようになる。婚家で冷たくあしらわれ不倫の末に自殺に追い込まれる女性を描いたオペラ「カーチャ・カバノヴァー」(1919-21年)、次のオペラ「利口な女狐の物語」(1921-23年)では主人公の狐が雌鶏に対して「雄鶏の圧政に抵抗して新しい世界を作るんだ」と演説し、翌1924年の弦楽四重奏曲第1番は嫉妬深い夫に殺されてしまう女性の悲劇を題材にしている。

ヤナーチェクの「拘束からの解放」はこの2点にのみとどまるものではない。1894-1903年のオペラ「イェヌーファ」では血縁関係で縛られた田舎の秩序が生んだ悲劇を描き、最後のオペラ「死者の家から」(1927-28年)は文字通り監獄から出て行く話である。さらにはカミラに出会って以後最初の作品である連作歌曲集「消えた男の手紙」(1917-19年)は、男がジプシー女のために両親や家といったしがらみを捨てる物語であったし、オペラ「マクロプロス事件」(1923-25年)の主題は永遠に繰り返される「生」という拘束からの解放と読み取ることが可能である。

[編集] 主な作品

[編集] 管弦楽曲

交響的狂詩曲「タラス・ブーリバ」(1915 - 1918)3楽章
【1. アンドリの死/2. オスタップの死/3. タラス・ブーリバの予言と死】1921年10月9日ブルノにおいてフランティシェク・ノイマンの指揮の国立歌劇場管弦楽団によって初演された。
ポーランドに対抗するコサックの首領タラス・ブーリバを描いたロシアの作家、ゴーゴリの同名の小説による。第1楽章で描かれるアンドリは、タラスの息子。ポーランド貴族の恋人のために父を裏切りポーランド軍に加わるが、父親に見つかり処刑されてしまう。第2楽章で描かれるもう一人の息子オスタップはポーランド軍に捕まり残酷な拷問の末、公開処刑で殺される。第3楽章でタラスも捕虜となり火刑に処されるがその直前コサックの勝利を予言する。
シンフォニエッタ(1926)5楽章。
【1. ファンファーレ / 2. 城 / 3. 王妃の僧院 / 4. 街頭 / 5. 市役所】1926年6月26日プラハにおいてヴァーツラフ・ターリヒ指揮のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団によって初演された。
公園でカミラと公開演奏会を聴いている時に想を得た作品。ヤナーチェクはその時、幸福感に陶酔したという。これに、ソーコル体育協会体育祭のためのファンファーレの依頼があり、この大規模な管弦楽作品として結実した。

[編集] 協奏曲

 ヴァイオリン協奏曲『魂のさすらい』(1927~1928 未完。)単一楽章
ヴァイオリンの巨匠であるヨーゼフ・ヨアヒムの姪の娘のアディラ・アラーニ・ファッキーニの演奏に触発されて、作曲された。ロンドン街頭デモで命を落とした運転手を追悼する曲という説もある。副題の『魂のさすらい』はドストエフスキーの著書である『悪霊』との関連も指摘されている。この作品は『グラゴル・ミサ』などの作曲にかなり忙しかったため、未完成に終わった。その後1988年に、ファルトゥスとシチェドロンが共同で補筆したものがブルノで初演された。

[編集] 室内楽曲

コンチェルティーノ(1925)pfと2vn, va, cl, hr, fgのための。4楽章。
1926年2月16日ブルノにおいてクルゾヴァー=シュティエパーノヴァーのピアノ独奏によって初演された。
この曲はヤン・ヘルジュマンの「消えた男の日記」の伴奏に感動し、着想された。初演こそ別のピアニストにより行われたが、献呈はヘルジュマンになされた。後にヤナーチェクが雑誌に書いた論文によると、この作品のために彼はまず動物たちの物語の台本を用意し、ピアノにそのまとめ役を割り当てたという。
カプリッチョ (1926年) pf (左手)、fl (ピッコロ持ち替え)、2tp、3tb、テノール・チューバのための。4楽章。
1928年3月2日プラハにて、ヤロスラフ・リードキの指揮、オタカル・ホルマンのピアノ、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーにより初演された。
オタカル・ホルマンは、第一次世界大戦で右手を負傷し、左手のみでしか演奏できなくなったピアニスト。この作品ではピアノは中心的な役割を担っておらず、金管楽器のアンサンブルに装飾的な楽句を添えている。ラヴェルプロコフィエフ左手の協奏曲に比べ、成功しているとは言い難い。時に「反逆」という標題付きで呼ばれる。
木管六重奏のための組曲「青春」(1924)4楽章。
楽器編成は、フルートまたはピッコロ、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット、バス・クラリネット。1924年10月21日ブルノで音楽院の教授たちによって初演された。技巧的で快活な作品である。
弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」(1923)4楽章。
1924年10月17日プラハでボヘミア四重奏団によって初演された。
トルストイの小説「クロイツェル・ソナタ」で描かれた、嫉妬で逆上した夫に殺害される女性を描いた。この小説を読み、憤慨して書かれたといわれる作品。ベートーヴェンヴァイオリンソナタ第9番「クロイツェル」と同名であるが、直接の関係はない。
弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」(1928)4楽章。
1928年9月11日ブルノでモラヴィア四重奏団によって初演された。
「ないしょの手紙」とは10年の間にヤナーチェクがカミラに送った手紙のことを指している。彼は最初この曲に「恋文」という標題をつけようと考えていた。その標題が示すとおりあまりにあからさまな愛の表現であった。
ヴァイオリンソナタ(1913 - 1921)4楽章。
最終稿の初演は1922年ブルノで、(vn)フランティシェク・クドラーチェク、(pf)ヨロスラフ・クヴァピルによって演奏された。
時に第3番と呼ばれるが先行する2曲は破棄または紛失しており、事実上ヤナーチェク唯一のヴァイオリン・ソナタである。楽章の順序を入れ替えたり、内容に手を入れたりという改作を数回繰り返され完成には7年を要した。
チェロとピアノのための「おとぎ話」(1910/1923 改訂)3楽章。
改訂版の初演は1923年2月21日プラハで(vc)ユリウス・ユネク、(pf)ルージェナ・ネブシュコヴァーによる。
この曲は、ロシアの作家ヴァシーリー・ジュコーフスキーの妖精物語によっている。物語はベレンディ皇帝が心ならずも冥界の王カスチェイに王子イワンを差し出す約束をしてしまう。やがて成長した皇子はカスチェイに会いに行き、カスチェイの娘マリアと恋をしてさまざまな試練の末に結ばれるという筋。ただし、作曲者本人はこの曲は標題音楽ではないと主張している。

[編集] ピアノ曲

ピアノソナタ「1905年10月1日 街頭にて」(1905)2楽章。
【1. 予感/2. 悲歌】 1906年1月27日ブルノでルドミラ・トゥチコヴァーによって初演された。
作曲の動機は既述のとおり。初演の直前に第三楽章を破棄し、初演後には残りの楽譜も川に投げ捨てられたが、初演者が予め写譜しておいたため、初演時の形で現存している。
草陰の小径第1集(1901 - 1908)10曲。
【1. われらの夕べ/2. 散りゆく木の葉/3. 一緒においで/4. フリーデクの聖母アリア/5. 彼女らはツバメのようにしゃべり立てた/6. 言葉もなく/7. おやすみ/8. こんなにひどくおびえて/9. 涙ながらに/10. ふくろうは飛び去らなかった】
第1集の第1, 2, 4, 7, 10曲の5曲はハルモニウム用の曲集として1901-1902年に作曲された。その後、残る5曲を加えてピアノ曲集として1908年に出版する計画があり、標題もこの時につけられたが、結局出版されたのはさらに3年後の1911年になってからだった。
この曲集には1902年に病の床につき1903年に21歳で亡くなった娘オルガへの想いが色濃く残されている。標題の「草陰の小径」がティエシーン地方の結婚式で花嫁が歌う詩からとられたのも暗示的である。
いくつかの楽章が、ミラン・クンデラ小説存在の耐えられない軽さ』にもとづく同名の映画に転用されている。
草陰の小径第2集(1901 - 1911)5曲。
第2集の第3, 5曲の2曲はやはりハルモニウム用の曲として第1集の5曲と同じ時期に作曲された。残る3曲は1911年に作曲され、作曲者の死後10年以上経った1942年になって「草陰の小径第2集」としてまとめられたものである。こうした経緯からか第1集に比べ軽視される傾向にあるが、作品個々の完成度は第1集に劣るものではない。
霧の中で(1912)4曲。
1914年1月24日ブルノでマリー・ドヴォルジャーコヴァーにより初演された。
この作品が創作された頃、ヤナーチェクは焦燥感に襲われていたようだ。「イェヌーファ」がプラハの劇場から拒絶されたことに起因するモラヴィア以外では受け入れられないのではないかという不安、崩壊してしまった家庭生活、容赦のない老いの気配。こうしたものがこの不安で慰めのない音楽を形作っている。

[編集] オペラ

イェヌーファ(1894 - 1903)
ガブリエラ・プライソヴァーの戯曲による。三幕。1904年1月21日ブルノにてシリル・フラズディラの指揮により初演。ヤナーチェクの3作目のオペラ。チェコとスロヴァキアでは原作のタイトル「彼女の養女」と呼ばれている。
イェヌーファは継母コステルニチカと住んでいる若い女性。彼女は父方の従兄弟シュテヴァの子供を身ごもるが、シュテヴァは自堕落な性格でイェヌーファと結婚しようという気はまったくない。シュテヴァの義理の兄(継母の連れ子)ラツァはまじめな性格でイェヌーファに恋している。イェヌーファの妊娠を知ったコステルニチカはスキャンダルを避けるため彼女を家に閉じこめ村の人々には内緒で密かに出産させる。ラツァがコステルニチカのところに来てイェヌーファを妻にほしいと申し出る。コステルニチカは出産の秘密を打ち明ける。ラツァは義理の弟の子をイェヌーファが出産したと聞き動揺する。それを見たコステルニチカはラツァに断られては大変と思い、子供は死んだと嘘をつく。コステルニチカは本当に子供を凍った川に浸けて殺し、イェヌーファに子供は死んだと告げる。春になりイェヌーファとラツァの結婚の日、川の水が溶け出し子供の死体が川に浮かんだのを村人が発見する。イェヌーファは死体の服を見て自分の子だと告げる。村人たちはイェヌーファが殺したのだと思い詰め寄るがラツァはそれを必死でかばう。コステルニチカがすべての罪を告白し村人たちに連れられてゆく。残されたラツァとイェヌーファは改めて互いの愛を誓い合う。
カーチャ・カバノヴァー(1919 - 1921)
アレクサンドル・オストロフスキーの戯曲「嵐」による。三幕。1921年11月23日、フランティシェク・ノイマンの指揮でブルノで初演された。ヤナーチェク6作目のオペラ。
舞台はヴォルガ川の岸部の町。裕福な商人ディコイの家に居候している甥のボリスは商家カバノフ家の人妻カーチャに恋している。カーチャは姑カバニハの嫁いびりに嫌気がさしてる。夫ティホンはこの母親に頭が上がらず商用で出張してしまう。カーチャには別に好きな男がいることを知り、同情したカバノフ家の養女ヴァルヴァラは、ひそかに入手していた庭の鍵をカーチャに渡す。カーチャは一旦は鍵を捨てようとするが、結局ボリスに会う決心をする。その夜、良心に責められながらもカーチャはボリスと結ばれる。川岸の廃屋でヴァルヴァラがボリスにティホンが帰ってきてカーチャが取り乱していることを話しているところへ半狂乱のカーチャが走ってくる。追いかけてきたカバニハとティホンにヒステリー状態の彼女は不貞の事実を話してしまう。再び逃げ出した彼女はボリスに会うが、不貞のことがディコイの耳に入りボリスはシベリアに行かされることになったことを告げる。ボリスが去った後カーチャは川に身を投げる。引き上げられたカーチャの死体を抱きながらティホンは母親をなじる。
利口な女狐の物語(1921 - 1923)
ルドルフ・ティエスノフリーデクの物語による。三幕。1924年11月6日、ブルノでフランティシェク・ノイマンの指揮で初演された。ヤナーチェク7作目のオペラ。
おとぎ話のような設定のストーリーだが、その中に生命の循環や自然の再生といった哲学的命題を担ったヤナーチェクの代表作である。
マクロプロス事件(1923 - 1925)
カレル・チャペクの喜劇による。三幕。1926年12月18日、フランティシェク・ノイマンの指揮によりブルノで初演された。ヤナーチェク8作目のオペラ。
時代設定は1922年。100年も係争を続けてきたヨゼフ・ブルス男爵の遺産相続問題を抱える弁護士事務所にエミリア・マルティというオペラ歌手がやってくる。事情のあらましを聞いたマルティはプルスの遺言状の場所を教える。マルティの教えた場所に遺言状は確かにあり、相続人はフェルディナンド・グレゴルと判明する。マルティの演奏会の後もう一方の係争者ヤロスラフ・プルスが楽屋にやってきて遺言状と一緒に別の封筒を見つけたと言う。マルティはそれを買いたいと申し出るがプルスははっきりとした返事をしない。マルティはプルスを色仕掛けで誘惑し、ついに封筒を手に入れる。そこへ弁護士がやってきてと遺言状と一緒に見つかったフェルディナンドの母親E.M.の手紙とマルティのサインの筆跡が一致することを告げ、擬装ではないのかと問いつめる。マルティはついに真相を語り出す。マルティの父親はプラハに宮廷を構えた皇帝ルドルフ2世の命令で不老不死の薬を作り、娘を実験台にして薬を飲ませた。その娘が自分で、本名はエリナ・マクロプロス、1575年生まれの337歳。フェルディナンドは間違いなくヨゼフと自分の子供である。もうすぐ薬が切れるため処方箋の入った封筒が必要になりプルスから無理矢理取り上げたのだが、長生きしても意味はないと悟ったと語り、プルスから受け取った封筒を燃やすと同時に息絶える。(年齢の計算が合っていないが、設定自体が混乱しており、1585年生まれと言っている箇所もあり、327歳といっている箇所もある。ヤナーチェクは書簡の中で337歳と繰り返し述べている。)
死者の家から(1927 - 1928)
ドストエフスキーの小説「死の家の記録」による。三幕。1930年4月12日、ブルジェティスラフ・バカラの指揮によりブルノで初演された。ヤナーチェク9作目最後のオペラ。序曲には、当時作曲中だったヴァイオリン協奏曲(未完)を転用した。
シベリアの監獄。アレクサンドルが連れてこられるが、政治犯だとわかると鞭打ち百回を宣言し再び連れ出す。アレクサンドルの悲鳴が響く中、囚人の一人が翼にケガをした鷲を捕まえてくる。囚人たちは自由にしてやろうというのだが鷲はケガで飛び立てない。囚人たちは作業をしながら身の上話をする。ルカは軽い刑で牢に入れられた時に威張り散らす看守を刺してシベリア送りになったと語る。アレクサンドルはアリエイヤという若い囚人と仲良くなり読み書きを教えてやる。祝日になり囚人たちの芝居が行われることになった。芝居とパントマイムは大喝采で終わるが、部屋に戻る時ある囚人がアリエイヤに襲いかかりケガをさせる。アリエイヤをアレクサンドルが世話をする。同じ部屋に咳の発作に苦しむルカやシシュコフという囚人もいる。シシュコフは自分が結婚した女が実は結婚前からフィルカという質の悪い男とつきあっていて、その男を誰よりも愛しているというので嫉妬のあまり殺したのだと語る。シシュコフがフィルカというたびにルカは怯え、ついに息絶える。ルカをのぞき込んだシシュコフは、彼こそがフィルカであることに気づく。アレクサンドルは釈放されることになった。彼はアリエイヤたちに別れを告げる。囚人たちはこれを機会にペットにしていた鷲を放してやることにした。かごから出された鷲は空へ飛び立ってゆく。鷲を見上げながら囚人たちは「自由だ!復活だ!森の皇帝!愛する自由!」と叫ぶ。

[編集] 声楽曲

歌曲集「消えた男の日記(1917 - 1919)22曲。
テノールコントラルト、三人の女声合唱とピアノによる作品。1921年4月18日 (T)カレル・ザヴルジェル、(A)ルドミラ・クヴァピロヴァー、(pf)ブルジェティスラフ・バカラによりブルノで初演された。
ある若者がジプシーの女ゼフカに絶望的な恋をし、彼女と共に放浪するため家族や家を捨てる物語を歌う連作歌曲集である。ヤナーチェク自身カミラ・シュテスロヴァ宛に「あなたはゼフカなのです」と書いていることからも作曲中の心境がうかがえる。
グラゴル・ミサ(1926)
【序奏 / キリエ / グロリア / クレド / サンクトゥス / アニュス・デイ /オルガン独奏 / イントラーダ】1927年12月5日ヤロスラフ・クピヴァルの指揮、ブルノ国立歌劇場管弦楽団の演奏によりブルノで初演された。
テキストはラテン語ではなく古代教会スラヴ語のミサ典礼文によっている。これは、民族のアイデンティティーである言語を固定するための文字(グラゴール文字)を伝えた聖人(キュリロスメトディオス)への感謝と敬意を示すものである。従来の固定されたテキストや様式によるのではなく(フーガは決して用いない、と宣言している)、より自由でよりスラヴ的なものを追求する態度が貫かれており、キリスト信仰よりもさらに古くよりプリミティヴな大地や自然への賛歌のようにも思われる。ある批評家が「ヤナーチェクも年をとって信仰者になった」と評した時「老人でもなければ信仰者でもない」と一蹴している。ヤナーチェクの創作活動の頂点を示す作品である。

[編集] 脚注

  1. ^ Hukvaldy / ドイツ語 Hochwald; ホーホヴァルト : 現在のチェコ共和国北東部にあたり、当時はオーストリア帝国領であった。フクヴァルディの村がある丘の麓に位置する隣村プシーボルは、心理学者ジークムント・フロイトの出身地である。フロイトが生まれたのは、ヤナーチェクが生まれたわずか2年後の1856年のことであった。
  2. ^ ブルノのアウグスティノ修道院でヤナーチェクが生活していたころ、同じ修道院の修道士にモラヴィア出身のグレゴール・ヨハン・メンデルがいた。彼が後世メンデルの法則として知られることになる論文を発表したのはヤナーチェクの滞在中で、彼がやってきた翌年の1866年であるが、その論文が注目されるのはかなり後のことである。現在ではこの修道院は遺伝の法則を発見したメンデルの修道院として有名であり、一部は現在メンデル博物館となっている。
  3. ^ パヴェル・クルジージュコフスキーは貧しい女性を母とする私生児という境遇ながら大学まで進学して司祭となった経歴をもつが、そのきっかけは教師をしていたレオシュの父イルジーによって音楽の才能を期待されて教育を受け、聖歌隊養成学校に奨学金付きで入学できるよう援助を与えられたことにあった。パヴェルはイルジーの恩に報いるためレオシュを我が子のように慈しみ、厳しい音楽教育を行ったという。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • イーアン・ホースブルグ 著 和田旦 加藤弘和 共訳『ヤナーチェク 人と作品』1985年 ISBN 4884705114

[編集] 外部リンク

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