セルゲイ・プロコフィエフ
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セルゲイ・セルゲイェヴィチ・プロコフィエフ(ロシア語:Сергей Сергеевич Прокофьевスィルギェーイ・スィルギェーイェヴィチュ・プラコーフィイェフ;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeevich Prokofiev、1891年4月23日 - 1953年3月5日)は、ロシアおよびウクライナの作曲家、ピアニスト。
現在のウクライナ、ドネーツィク州(当時はロシア帝国領)ソンツォフカ(Сонцовка)生まれのロシア人。
初期にはロシア未来派としての役割も担ったが、長期の海外生活、ソヴィエト連邦への帰国を経るにつれ、追従者のいない独自の境地へ到った。快活なリズム感、斬新な管弦楽法は、ボリス・ティシチェンコやロディオン・シチェドリンなど後代のロシアの作曲家に影響を与えている。
ピアニストとしての腕前は、残された音源(「ピアノ協奏曲第3番」を含むレコードへの録音全集がNaxosからリリースされている。他に、ピアノロールへは自作のほかにグラズノフなどの作品を吹き込んでいる)を聴く限り、現時点では評価が分かれるものの、自作自演を前提にしたピアノ作品は現在でもピアニストのレパートリーとして人気が高い。
アメリカへ渡る経由地として日本でも演奏旅行を行っていたことがあり、山田耕筰のフォローにもかかわらず、わがままな言動で当時の記者たちを混迷させていた。前妻とのトラブルを乗り越えて作曲された「ロメオとジュリエット」など、バレエ音楽にも力作が多い。
20歳以上離れた共産党員で詩人の後妻ミラ・メンデリソンへの傾倒と前後して、聞きにくい半音階書法から聞きやすい全音階書法へ推移した。この転向はアレクサンドル・モソロフのように当局の圧力でやむを得なく変えたのかどうか、現在でも判然としない。既に帰国直前の「ピアノ協奏曲第5番」では、めまぐるしい転調プラス全音階書法という苦肉の策で共演者のフルトヴェングラーを困らせており、作風が袋小路になっていたことは本人も承知していた。スターリン政権発足後も管弦楽法の冴えが衰えなかったことが、他のソヴィエトの作曲家と袂を別つ点でもある。
シチェドリンが“作曲の極意とは何ですか?”とプロコフィエフに尋ねたところ、こう答えたと言う… “如何に聴衆を驚かすかという事だ”。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 誕生と幼年期(1891-1904)
- 1891年4月23日、農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた父セルゲイ・アレクセエヴィチ・プロコフィエフ(1846-1910)と母マリヤ・グリゴリエヴナ・プロコフィエヴァ(旧姓ジトコヴァ)(1855-1924)の息子として、ウクライナ地方南部のエカテリノスラフ県バフムート郡ソンツォフカ村に生まれた。プロコフィエフ家には、はじめ2人の娘が生まれたが、2人とも幼くして世を去ったので、3番目の子供セルゲイは特別注意を払って育てられた。
- 1896年(5歳)最初の作曲。母親が譜面に起こしたヘ長調のピアノの小曲で「インドのギャロップ」と名づけられた。
- 1898年(7歳)4手ピアノのためのハ長調の行進曲を作曲。
- 1900年(9歳)両親に連れられ、モスクワでオペラ「ファウスト」、「イーゴリ公」、バレエ「眠りの森の美女」を見る。最初のオペラ「巨人」を作曲。
- 1901年(10歳)第2のオペラ「無人島で」の作曲を始めるが序曲と第1幕までしかできなかった。
- 1902年(11歳)父の友人の甥ポメランツェフの尽力で、母と共にタネーエフを訪問。タネーエフの勧めでポメランツェフのレッスンを受けるが退屈きわまりないものであった。ソンツォフカに帰るとタネーエフの紹介でグリエールに師事。夏の終わる頃、ト長調の四楽章の交響曲を作曲。冬に2度目のタネーエフ訪問をし、グリエールと2人で交響曲を連弾するが、和声が単純すぎると評され、いっそう和声の勉強に集中するようになった。
- 1903年(12歳)グリエールの指導のもとプーシキンによる本格的なオペラ「ペスト流行期の酒宴」を作曲。3度目のタネーエフ訪問。
[編集] 音楽院時代(1904-1914)
- 1904年(13歳)母に連れられペテルブルクのグラズノフを訪問。女流詩人マリーヤ・キルシュテットの勧めにより、ラ・モット=フーケの詩によるオペラ「ウンディーネ(水の精)」の作曲を開始、第1幕を書く。ペテルブルク音楽院に入学。リャードフ(1855-1914)の和声学クラスで学び、ボリス・アサフィエフ(1884-1949)と親交を結ぶ。
- 1905年(14歳)音楽院当局への抗議文に署名。特別ピアノ・クラスに移りヴィンクレル(1865-1935)にピアノを学ぶ。オペラ「ウンディーネ」の第2幕を書く。
- 1906年(15歳)リャードフの対位法クラスとリムスキー=コルサコフの管弦楽法クラスで学ぶ。ニコライ・ミャスコフスキー(1881-1950)と親交。ミャスコフスキーとヴァイオリン・ソナタを共作し、プロコフィエフは第1楽章を書いた。
- 1907年(16歳)オペラ「ウンディーネ」の第3幕と第4幕を書き、オペラを完成させる。
- 1908年(17歳)チェルノフに連れられ、音楽サークル「現代音楽の夕べ」に参加する。ホ短調の3楽章の交響曲を作曲、グラズノフの斡旋でワルリヒ指揮の宮廷オーケストラの非公開リハーサルで演奏される。ヴィートル(1863-1949)に楽式を学ぶ。12月31日に「現代音楽の夕べ」で自作7曲(『伝説』『雪』『思い出』『躍動』『祈り』『絶望』『悪魔的暗示』)で初の公開演奏。
- 1909年(18歳)音楽院の作曲科の課程を修了。ミャスコフスキーらに音楽院をやめずにピアノと指揮のクラスに入るように説得される。ニコライ・チェレプニン(1873-1945)に指揮と作曲を学び、エシポワ夫人にピアノを学ぶ。ピアノ・ソナタ第1番Op.1を作曲。
- 1910年(19歳)父が急死。
- 1912年(21歳)「人民の家」ホールで作曲者のピアノ、サラジェフの指揮でピアノ協奏曲第1番が初演される。
- 1913年(22歳)パーヴロフスクの夏の演奏会で作曲者のピアノ、アスラーノフの指揮でピアノ協奏曲第2番(初版)が初演される。曲はモダニズムに満ちており、賛否両論を巻き起こした。
- 1914年(23歳)ピアノ科と指揮科を終了。音楽院卒業試験でバッハのフーガと自作のピアノ協奏曲第1番を弾き、ルビンシテイン賞を得る。
[編集] 革命前後(1914-1917)
- 1914年(23歳)ヌヴェルと共にロンドン旅行に行き、ヌヴェルが催した招待会でロシア第一の興行家セルゲイ・ディアギレフ(セルゲイ・ヂャギレフ)と会う。ディアギレフにピアノ協奏曲第2番を弾いて聞かせ、その才能に驚嘆したディアギレフから一緒に仕事をしようと提案される。プロコフィエフはドストエフスキーの「賭博者」のオペラ化を申し出るが、オペラは流行遅れだと反対される。話し合った結果、ロシアの昔話をテーマにしたバレエを作ることになり、前衛的詩人ゴロデツキーと協力してスキタイ人の物語を題材にしたバレエ「アラとロリー」の台本を作り上げ、作曲に着手する。その合間に「アラとロリー」とは全く対照的な叙情性あふれる歌曲「みにくいあひるの子」を作曲。
- 1915年(24歳)イタリアでディアギレフと再会する。ディアギレフに「アラとロリー」のスケッチを聞かせるが「筋は作為が多く、音楽はチェレプニン風で面白くない、もう1つ新しいバレエを書くべきだ」と上演を拒まれる。ディアギレフの家でストラヴィンスキーと会い、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を連弾する。ディアギレフが「アラとロリー」に代わる新しい題材をアファナシエフの「ロシア民話集」の中から選び、プロコフィエフに新しいバレエの作曲を注文する。帰国後、早速作曲に着手してバレエ「道化師」を完成させる。「アラとロリー」を改作して「スキタイ組曲」を完成させる。9月、ペトログラード音楽院に再入学してオルガン科に籍をおく。アルバート・コーツにオペラ「賭博者」を書くようにすすめられ、作曲に着手する。
- 1916年(25歳)
- 1917年(26歳)
[編集] 亡命と日本滞在(1918)
- 1918年(27歳)交響曲第1番の初演を果たした直後、プロコフィエフは米への亡命を決意し、5月7日、シベリア鉄道にてモスクワを発つ。31日、敦賀港に上陸し、日本に入国。6月1日、東京に到着。米行きの船便を探すが見つからず、しばし日本に滞在することになる。11日までは東京、横浜周辺に滞在。12〜18日、京都市に滞在し、琵琶湖疎水、祇園などを散策。13日には大阪市を訪れている。19〜28日、奈良市に滞在し、奈良ホテルに宿泊。奈良公園周辺を散策している。29日に東京に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19〜21日には軽井沢を、28日には箱根を訪れている。更に7月6日、7日には東京で9日には横浜で自作を含むピアノリサイタルを開催した。8月2日、離日。このプロコフィエフの日本滞在は、ヨーロッパの大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家大田黒元雄などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。逆にプロコフィエフが日本から受けた影響として、ピアノ協奏曲第3番の主題として越後獅子を用いたことを挙げることができる。プロコフィエフは米に上陸し、9月にはニューヨークへ到達した。
[編集] 遍歴:アメリカとパリ(1918-1932)
[編集] 帰国(1933-1941)
[編集] 第二次世界大戦(1941-1945)
- 1945年(54歳)1月13日、交響曲第5番初演(この演奏が作曲者の最後の指揮)。1月末、階段から墜落して後頭部を強打し、意識不明のまま病院にかつぎ込まれる。6月、イギリスのロイヤル・フィルハーモニー協会から金メダルを授与される。
[編集] 戦争終了後の3年間(1945-1947)
- 1945年(54歳)9月、「戦争終結によせる賛歌」が完成。11月、交響曲第5番がクーセヴィツキーの指揮でアメリカ初演。バレエ「シンデレラ」がモスクワ・ボリショイ劇場で初演。
- 1946年(55歳)病気が重くなったため、ニコーリナに移る。ヴァイオリン・ソナタ第1番初演。交響曲第5番、ピアノ・ソナタ第8番、「イワン雷帝」第1部、バレエ「シンデレラ」にスターリン賞が贈られる。
- 1947年(56歳)交響曲第6番完成、ムラヴィンスキーの指揮で初演される。ヴァイオリン・ソナタ第1番にスターリン賞が贈られる。
[編集] 晩年(1948-1953)
- 1948年(57歳)ジダーノフ批判の対象となる。2月17日、プロコフィエフの作品を批判対象とする作曲家集会が開かれ、作品数曲が演奏され、その席上で芸術委員会議長と作曲家同盟書記長にあてたプロコフィエフの手紙が発表される。
- 1949年(58歳)病状が悪化、医師から1日1時間しか作曲を許されなくなる。夏には部分的な言語障害まで起こし、作曲の時間は1日30分にまで減らされた。そんな厳しい状態の中、驚異的な速さでバレエ「石の花」を完成させる。直後、親友アサフィエフが1月に死亡していたことを知りショックをうける。
- 1950年(59歳)組曲「冬のかがり火」を完成させるが、病状を悪化させ再入院、モスクワ郊外のバルビハ療養所に入る。8月に親友ミャスコフスキーが死亡。親友2人のあいつぐ死はプロコフィエフをひどく落胆させた。それでも仕事を続け、歌劇「戦争と平和」を一夜で上演可能な形に大改訂し、オラトリオ「平和の守り」を完成させる。
- 1951年(60歳)組曲「冬のかがり火」とオラトリオ「平和の守り」が、1950年度スターリン賞第2席を得る。作曲家同盟主催によるプロコフィエフ60歳誕生日祝賀会がモスクワ作曲家会館で開かれ、同会場でピアノ・ソナタ第9番がリヒテルによって初演される。バレエ「石の花」から3つの組曲(「結婚組曲」、「ジプシー幻想曲」、「ウラル狂詩曲」)を編曲。13年前に作曲したチェロ協奏曲第1番の主題を使用してチェロ協奏曲第2番を作曲。
- 1952年(61歳)チェロ協奏曲第2番がロストロポーヴィチの独奏とリヒテルの指揮によってモスクワで初演される(初演後さらに改訂を加え、『チェロと管弦楽のための協奏交響曲』に題名を変更した)。最後の交響曲である交響曲第7番を完成、10月11日の初演に出席(これが最後の演奏会出席となった)。チェロのためのコンチェルティーノ(小協奏曲)の作曲に着手。
- 1953年(62歳)「ソヴィエト音楽」誌 第1号に最後の文章となる「創作プラン」を発表。2月、作曲家同盟第6回総会で、交響曲第7番がソヴィエト交響曲の新しい達成だと認められる。3月5日午後6時、突然脳出血による呼吸困難に陥り死去。3月7日、カバレフスキーを委員長としてモスクワ作曲家中央会館にて葬儀。ノヴォ・デーヴィチー寺院のアサフィエフとミャスコフスキーの墓のそばに葬られた。偶然の一致だが、プロコフィエフの死はスターリンの死と同じ日であった。
[編集] 代表作
[編集] 劇場音楽
[編集] 歌劇
- 「マッダレーナ」 Op.13 (1911年)
- 「賭博者]]」 Op.24 (1916年)
- 「三つのオレンジへの恋」 Op.33 (1919年)
- 「焔の天使」 Op.37 (1927年)
- 「セミョーン・カトコ」 Op.81 (1939年)
- 「修道院での結婚(ドゥエニャ)」 Op.86 (1940年)
- 「戦争と平和」 Op.91 (第1版:1943年、第2版:1946年、第3版:1947年、第4版:1950年、第5版:1952年)
- 「真実の人間の物語」 Op.117 (1948年)
- 「遠い海」 (1948年、未完)
[編集] バレエ音楽
- 「道化師」(「七人の道化師をだました一人の道化師の物語」) Op.21 (1920年)
- 「鋼鉄の歩み」Op.41 (1925年)
- 「放蕩息子」Op.46 (1928年)
- 「ボリステーヌの岸辺で」Op.51 (1930年)
- 「ロメオとジュリエット」Op.64 (1936年)
- このうち第1幕第2場第13曲「騎士たちの踊り」(組曲第2番の1「モンタギュー家とキャピュレット家」の大部分)は、ドラマ「のだめカンタービレ」およびソフトバンクモバイルCMのBGMに使われるなど、メディアで使用される機会が多くポピュラーな曲である。
- 「シンデレラ」Op.87 (1944年)
- 「石の花」Op.118 (1949年)
[編集] 劇音楽
[編集] 映画音楽
- 「キージェ中尉」 (1933年)
- 後に交響組曲に改作する
- 「スペードの女王」Op.70 (1936年)
- 「アレクサンドル・ネフスキー」(監督:エイゼンシュテイン) (1938年)
- 後にカンタータに改作する
- 「レールモントフ」 (1941年)
- 「コトフスキー」 (1942年)
- 「ウクライナ草原のパルチザンたち」 (1942年)
- 「トーニャ」 (1942年)
- 「イワン雷帝」(第1部、第2部) Op.116(監督:エイゼンシュテイン) (1945年)
[編集] 管弦楽曲
[編集] 劇場音楽からの組曲
- スキタイ組曲(「アラとロリー」) Op.20 (1914年)
- バレエ組曲「道化師」 Op.21bis (1922年)
- 「三つのオレンジへの恋」組曲 Op.33bis (1924年)
- 「鋼鉄の歩み」組曲 Op.41bis (1926年)
- 「放蕩息子」組曲 Op.46bis (1929年)
- 歌劇「賭博者」からの四つのポートレートおよび終結部 Op.49 (1931年)
- 「ドニェプルのほとりで」組曲 Op.51bis(1933年)
- 交響組曲「キージェ中尉」 Op.60 (1934年)
- 組曲「エジプトの夜」 Op.61 (1934年)
- 「ロメオとジュリエット」第1組曲 Op.64bis (1936年)
- 「ロメオとジュリエット」第2組曲 Op.64ter (1936年)
- 「セミョーン・コトコ」組曲 Op.81bis (1941年-1943年)
- 「ロメオとジュリエット」第3組曲 Op.101 (1944年)
- 「シンデレラ」第1組曲 Op.107 (1946年)
- 「シンデレラ」第2組曲 Op.108 (1946年)
- 「シンデレラ」第3組曲 Op.109 (1946年)
- 管弦楽のための組曲「ワルツ集」 Op.110(1946年)
- プーシキン・ワルツ Op.120 (1949年)
- 交響組曲「夏の夜」 Op.123 (1950年、歌劇「修道院での婚約」による)
- 結婚組曲 Op.126 (1951年、バレエ音楽「石の花」による)
- ジプシー幻想曲 Op.127 (1951年、バレエ音楽「石の花」による)
- ウラル狂詩曲 Op.128 (1951年、バレエ音楽「石の花」による)
[編集] 交響曲
- 交響曲 ホ短調 (1908年)
- 古典交響曲 ニ長調(交響曲第1番) Op.25 (1917年)
- 交響曲第2番 ニ短調 Op.40 (1925年、Op.136として改訂の予定であった)
- 交響曲第3番 ハ短調 Op.44 (1928年)
- 交響曲第4番 ハ長調 Op.47 (第1版:1930年) 、Op.112 (第2版:1947年)
- 交響曲第5番 変ロ長調 Op.100 (1944年)
- 交響曲第6番 変ホ短調 Op.111 (1947年)
- 交響曲第7番 嬰ハ短調(「青春」) Op.131 (1952年)
- シンフォニエッタ イ長調 Op.5 (第1版:1909年、第2版:1914年) 、Op.48 (第3版:1929年)
[編集] その他の管弦楽曲
- 交響的絵画「夢」 Op.6 (1910年)
- 交響的スケッチ「秋」 Op.8 (1910年)
- ヘブライの主題による序曲 ハ長調 Op.34bis (1934年)
- Op.34(室内楽版)の編曲
- 室内管弦楽のための序曲 変ロ長調 Op.42 (1926年)
- ディヴェルティメント Op.43 (1929年)
- 交響的な歌 Op.57 (1933年)
- 小管弦楽のための子供の組曲「夏の一日」 Op.65bis (1941年)
- 子供の音楽 Op.65 からの管弦楽編曲(全7曲)
- 交響的物語「ピーターと狼」 Op.67 (1936年)
- ロシア序曲 Op.72 (第1版:1936年、第2版:1937年)
- 交響組曲「1941年」 Op.90 (1941年)
- 行進曲 変ロ長調 Op.99 (1944年) [吹奏楽]
- 組曲「冬のかがり火」(朗読、児童合唱およびオーケストラのための) Op.122 (1949年-1950年)
- 祝典詩曲「ヴォルガとドンの邂逅」 Op.130 (1951年)
[編集] 協奏曲
[編集] ピアノ協奏曲
- ピアノ協奏曲第1番 変ニ長調 Op.10 (1912年)
- ピアノ協奏曲第2番 ト短調 Op.16 (1913年)
- ロシア革命時に紛失、1923年に改作。
- ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op.26 (1921年)
- ピアノ協奏曲第4番 変ロ長調(左手のための) Op.53 (1931年)
- パウル・ウィトゲンシュタインのために作曲したが演奏を拒否された(初演は1956年)。
- ピアノ協奏曲第5番 ト長調 Op.55 (1932年)
[編集] ヴァイオリン協奏曲
[編集] チェロ協奏曲
- チェロ協奏曲第1番ホ短調 Op.58 (1938年)
- チェロと管弦楽のための協奏交響曲ホ短調(チェロ協奏曲第2番)Op.125 (1951年)
- 第1番の改作。
- チェロと管弦楽のための小協奏曲(コンチェルティーノ)ト短調 Op.132 (1952年着手、未完)
[編集] 室内楽曲
[編集] 弦楽四重奏曲
[編集] ヴァイオリンソナタ
- ヴァイオリンソナタ第1番 ヘ短調 Op.80 (1946年)
- ヴァイオリンソナタ第2番 ニ長調 Op.94bis (1944年)
- フルートソナタ op.94 の編曲。
- 2つのヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 Op.56 (1932年)
- 無伴奏ヴァイオリンソナタ ニ長調 Op.115 (1947年) [ヴァイオリンのユニゾンまたはソロ]
[編集] その他の室内楽曲
- ヘブライの主題による序曲 ハ短調 Op.34 (1919年) [クラリネット、弦楽四重奏、ピアノ]
- 1934年に管弦楽編曲(Op.34bis)
- ヴァイオリンとピアノのための5つのメロディー Op.35bis (1925年)
- 5つの歌詞のない歌 Op.35の編曲。
- 五重奏曲 ト長調 Op.39 (1924年) [オーボエ、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス]
- フルート・ソナタ ニ長調 Op.94 (1943年)
- チェロ・ソナタ ハ長調 Op.119 (1949年)
[編集] ピアノ曲
[編集] ピアノ・ソナタ
- ピアノ・ソナタ第1番 ヘ短調 Op.1 (1909年)
- ピアノ・ソナタ第2番 ニ短調 Op.14 (1912年)
- ピアノ・ソナタ第3番 イ短調 Op.28「古い手帳から」 (1917年)
- ピアノ・ソナタ第4番 ハ短調 Op.29「古い手帳から」 (1917年)
- ピアノ・ソナタ第5番 ハ長調 Op.38 (第1版:1923年) 、Op.135 (第2版:1953年)
- ピアノ・ソナタ第6番 イ長調「戦争ソナタ」 Op.82 (1940年)
- ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調「戦争ソナタ」 Op.83 (1942年)
- ピアノ・ソナタ第8番 変ロ長調「戦争ソナタ」 Op.84 (1944年)
- ピアノ・ソナタ第9番 ハ長調 Op.103 (1947年)
[編集] その他のピアノ曲
- 4つの小品 Op.4 (全4曲) (1908年)
- 思い出
- 躍動
- 失望
- 悪魔的暗示
- 4つの練習曲 op.2 (1909年)
- ニ短調 / op.2-1
- ホ短調 / op.2-2
- ハ短調 / op.2-3
- ハ短調 / op.2-4
- トッカータ ニ短調 Op.11 (1912年)
- サルカズム (風刺) Op.17 (全5曲) (1914年)
- 束の間の幻影 Op.22 (全20曲) (1917年)
- 年とった祖母の物語 Op.31 (全4曲) (1918年)
- わたくしごと Op.45 (全2曲) (1928年)
- 3つの小品 Op.59 (1933年-1934年)
- 散歩
- 風景
- 田園風ソナチネ
- 思考 Op.62 (1933年-1934年)
- アダージョ・ペンシエローソとモデラート
- レント
- アンダンテ
- 子供の音楽 Op.65 (全12曲) (1935年)
- バレエ「ロメオとジュリエット」からの10の小品 Op.75 (1937年)
[編集] 合唱曲
- カンタータ「彼らは7人」 Op.30 (1917年-1918年)
- 十月革命20周年のためのカンタータ Op.74 (1936年-1937年)
- カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」 Op.78 (1939年)
- 十月革命30周年のためのカンタータ「栄えよ、力強き国土」 Op.114 (1947年)
- オラトリオ「平和の守り」 Op.124 (1950年)
[編集] 歌曲
- 「みにくいあひるの子」 Op.18 (1914年)
- 5つの詩 Op.23 (1915年)
- 屋根の下で
- 灰色の服
- 信じて
- 私の庭で
- 魔法使い
- 5つの詩 Op.27 (1916年)
- 太陽は私の部屋にいっぱい
- 真の愛情
- 太陽の思い出に
- おはよう
- 灰色の目の王様
- 5つの歌詞のない歌 Op.35 (1920年)
- 後にヴァイオリンとピアノのための5つのメロディー Op.35bisに編曲
- 5つの詩 Op.36 (1921年)
- 火と水の呪い
- 鳥の声
- 蝶々
- 私をおもえ
- 御影石
[編集] 著書
- 『プロコフィエフ自伝・評論』(園部四郎、西牟田久雄共訳/音楽之友社/1964)