京急230形電車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
京急230形電車(けいきゅう230がたでんしゃ)は、過去に京浜急行電鉄に在籍していた通勤形電車である。
目次 |
[編集] 概要
京浜電気鉄道(後の京浜急行電鉄)の子会社である湘南電気鉄道の新規開業に備えて製造されたデ1形に始まり、湘南・京浜の両社で同系車が合わせて55両製造された。路面電車スタイルを脱しきれていなかった昭和初期の京浜電鉄のイメージを一新させた軽量高速電車であり、戦前関東私鉄の一時代を築いた名車と評されている。
第二次世界大戦中の「大東急」への合併に伴い、デハ5230形およびデハ5170形に整理統合され、戦後京浜急行電鉄の分離独立時にそれぞれデハ230形およびクハ350形へ改番された。
[編集] 車体
車体長16m・車幅2.5m、窓配置d2D(1)6(1)D3(d:乗務員扉、D:客用扉、(1)戸袋窓。デハ230形およびクハ280形)あるいはd1D(1)3D(1)2(1)D2(クハ280形の一部)の半鋼製車体を備える。この車体規格は設計当時の東京地下鉄道・東京高速鉄道(→帝都高速度交通営団→東京地下鉄銀座線)の車両規格と卑近である。当時京浜電気鉄道の子会社に京浜地下鉄道という会社が存在し、品川より地下線を開削し都心乗り入れを画策していたことの名残である。車体規格と車両の保安装置・サードレール集電靴設置の条件さえ満たせば、軌間が1435mmと同様なので乗り入れが可能であった。
運転台は全室式の片運転台で、座席はロングシートであった。
側窓は高さ1052mm・幅760mm、と当時としては極めて大型であった。窓配置はd2D8D3(d:乗務員扉、D:客用扉)で、前面は丸妻三枚窓である。この窓寸法はデ1形設計時に経済的な定尺鋼板を極力カットせずに腰板に使用することから逆算で定められたものである。また、当初は大きな窓枠の支持・固定に「レニテント・ポスト」と称する極めて特殊かつ複雑な防音・防水機構を採用していたが、これは戦後の更新時に喪われた(保存車の復元に際してもこの機構の復元は省略された)。
[編集] 主要機器
台車はMCB-Rあるいは汽車製造会社2HEと呼ばれるボールドウィンタイプのビルドアップ・イコライザー(組立釣合梁)式台車を装着した。
主電動機は三菱電機製MB-115AF(端子電圧750V時定格出力93.3kW≒125馬力/900rpm)を標準とした。
[編集] 誕生
- 本形式は、以下の各形式を整理・統合したものである。
[編集] 湘南電鉄デ1形
- 1930年に湘南電気鉄道の開業に伴う完全新規設計の新造車として神戸の川崎車両兵庫工場で1~25の計25両が製造された。本形式の基本となった車両であり、当初は扉間に固定式クロスシートが並ぶセミクロスシート車。運転台が車体両端に設けられた両運転台式であるが、運転台は半室構造とされ、車掌台側は乗務員扉が省略されて前頭部までロングシートが設けられていた。京濱電鐵への乗り入れを考慮して、1500/600Vの複電圧仕様として建造されている。なおこのグループは、同時製作の電動貨車を含め、台車の軸受にローラーベアリング(スウェーデンSKF社製の輸入品)を全面採用していた。起動加速度は3.2km/h/sと当時にしてはかなり高かったほか、弱め界磁付き自動加速制御器の採用で、高速性能も良好であった。また、ブレーキは当時としては安全性の高いAMM自動空気ブレーキが採用されている。東京地下鉄道(現・東京地下鉄銀座線)との直通運転に備え、台車には第三軌条用のコレクターシュー(集電靴)の取り付け準備も行われていた。
[編集] 京濱電鐵デ71形
- 1932年に、翌年に控えた京濱・湘南相互乗り入れによる浦賀-品川直通に合わせて汽車製造会社で71~82の計11両が製造された、2扉セミクロスシート両運転台車。京濱初の鉄道線規格車両である。この車両から京濱電鉄は菱形のパンタグラフを採用した。台枠構造の相違から、湘南デ1形より車高が14cmほど高い。このデ71形は京濱電鉄の軌間が1435mmに改修される前に製造され、湘南電気鉄道側の車庫で待機していた。
[編集] 京濱電鐵デ83形
- 1936年にデ71形の増備車として汽車製造会社で83~94の計11両が製造された。戦時体制への移行による乗客増に伴い、混雑対策として本形式以降全車がロングシート車として建造された。外寸および形状はデ71形に準ずる。
[編集] 湘南電鉄デ26形
- 1939年にデ1形の増備車として26~3号の計5両が製造された。京濱電鐵デ83形に準じて2扉ロングシートに変更されている。外寸も京濱デ83形に準ずるが、溶接組み立ての使用範囲が拡大して車体からリベットが無くなった。
[編集] 京濱電鉄デ101形
- 1940年に101~108の計8両が建造された。京濱電鉄線内でのみ使用するために設計された600V専用3扉ロングシート車である。外寸はデ83形に準じ、東京地下鉄道1000形とほぼ同形となる。ただし制御装置は従来車が弱め界磁付き自動加速制御器を搭載していたのに対し、本車は京濱の在来車との混用の都合や部品調達難から、旧来のHL式制御器にグレードダウンした他、モーターの定格出力も従来の125馬力から80馬力(60kw)に低下、制動方式はAMMからSME(非常弁付直通空気制動)になるなど、戦争の影響によると思われるいくつかの仕様変更が実施されている。なお、本形式が竣工した頃には、デ1形とデ71形の座席がロングシートに改造されている
[編集] 戦時体制
- 1941年に京浜電鉄・湘南電鉄・湘南半島自動車を併合し、新体制の拡大京浜電鉄が誕生し、同年内に子会社の京浜地下鉄道が東京地下鉄道・東京高速鉄道が合併し帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)が誕生。
- 1942年に五島慶太率いる東京横浜電鉄が京浜電鉄・小田急電鉄(旧・帝都電鉄を含む)・京王電軌(現・京王電鉄)を併合し東京急行電鉄、所謂「大東急」が誕生。京浜電鉄は東急品川営業所所管となる。
- 合併に伴う形式番号の整理・変更により、形態・性能の近似する湘南デ1形・デ26形・京濱デ71形・デ83形はデハ5230形に統合された。これに対し京濱デ101形は600V区間専用車であり、3扉形態であるためデハ5170形として入籍した。
[編集] 戦後
- 1948年に大東急体制の解体により京浜急行電鉄が誕生し、同年内に形式番号が改正されデハ5230形はデハ230形に、東急時代に横浜大空襲によって全車が罹災したデハ5170形はクハ5350形に改番・制御車化されていたためクハ350形となった。また、戦後、このクハ350形は各種整備の上で進駐軍専用車として運行された。
- 1952年にクハ351号~354号を電動車化、休車中の電動貨車、デワ10形の改造名義車を含めてデハ290形に形式変更されている。(ただし、実際のデワ10形は解体された。)
- 1963年からデハ230形に塗装変更、前照灯のシールドビーム化、尾灯の角形化、扉の交換、片運転台化、貫通路の設置、乗務員室の全室化といった大幅な更新修繕が行われ、2両固定編成となった。また、浦賀寄りの車両はパンタグラフが品川寄りから浦賀寄りに移設された。
- 1965年~1966年にかけてクハ140形が全廃され、ペアを組む相手を失ったデハ290形がクハ280形に改造され、一部のデハ230形が固定編成を解除され、クハ280形と編成を組んだ。その後運転台を撤去(貫通路は取り付けず)し、サハ280形となり、デハ230形(片側は貫通路を閉鎖)に挟まれて営業運転に就いたが1976年までに廃車となっている。
- 1972年からはデハ230形の廃車が始まり、1978年に大師線運用を最後に廃車された。
- 廃車後、14両のデハ230形が香川県の高松琴平電気鉄道に譲渡され、30形として使用された。現在では志度線用の2両が走行している。
[編集] 逸話
- 戦時下の大東急時代、車両新製・修繕に手が回らず併合された各線間で車両の転配・入が頻繁に行われた。
- 旧・小田急電鉄に経営委託されていた神中鉄道(現・相模鉄道)は横浜-二俣川間が600V電化していたが、二俣川-厚木間が東急小田原線(現・小田急電鉄)と同じ1500V電化線であったため、電動車不足を補うため複電圧設備を持つデハ5230形2両が台車を1067mmのものに換装の上使用された。
- 京浜急行電鉄の電車 ■Template ■ノート
カテゴリ: 鉄道車両 | 京浜急行電鉄 | 鉄道関連のスタブ項目