通勤形電車
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通勤形電車(つうきんがたでんしゃ)とは、通勤・通学者を主な乗客と想定し、近距離大量輸送に最適化された接客設備と走行性能を有する電車を指す用語。
通常、車内はすべてロングシートで、多数のつり革を設置しており、座席数よりも立席面積の確保を優先してラッシュ輸送に対応している。ドア数は片側3ドアか4ドアが普通だが、5ドア・6ドアの特殊例もあり、いずれも乗降性を重視したものである。
目次 |
[編集] 国鉄における定義
旧国鉄では、1944年に登場した63系以降の片側4ドア形電車を「通勤形電車」として規定しており(例外的に3ドア車もあった)、3ドアでクロスシートを装備した近郊形電車とは、設備・性能とも区別されていたが、JR移行後は両者の区分が曖昧となり、このカテゴリー分けは崩れつつある。広義では普通乗車券のみで利用できる列車のことを指すと思われる。
ちなみに旧国鉄の車両規定によれば「客室に出入り口を有し、縦型座席(いわゆるロングシート)を備え、通勤輸送に適した性能を有する車両形式のもの」とされている。
[編集] 通勤形電車の発達
[編集] 初期の通勤形車両
明治時代中期、鉄道が大衆化すると、長距離の移動のみならず、短距離の通勤・通学にも利用されるようになった。東京などの大都市では特にその傾向は顕著であった。
1895年に京都に初登場した電車は、都市部を中心に各地で運転されるようになるが、徐々に大型化し、1910年頃には15m級のボギー車が出現していた。
当時の鉄道車両は(長距離用鉄道車両は現在でも)、車体の一端1ヶ所、もしくは両端の2ヶ所にドアを設置しているのが普通であった。しかし、これではドア付近に乗客が固まりがちで、混雑時には円滑な乗降に困難を来してしまう。
日本でも明治時代末の大都市では、既に2ドア電車ではラッシュ時の乗客を捌ききれなくなりつつあった。大正時代の初めから国鉄(当時鉄道院)や主要私鉄の電車に、車体中央にもドアを設けた3ドア電車が出現する。東京市(現・東京都交通局)・大阪市の路面電車も、大正中期以降3ドア化が進展した。
そして電車の大型化(最大17m級)が進んだ大正時代末期以降は、ほとんどの私鉄が通勤輸送向けに3ドア電車を用いるようになった。
[編集] 自動ドア
初期の電車のドアは手動式で、駅では駅員がいちいち戸締まりの見回りをしてから発車しなければならなかった。
空気圧で作動する遠隔操作式の自動ドアは、アメリカなどで早くから導入されていたが、日本でも大正時代末からテストが始まり、1926年に国鉄(当時鉄道省が正式採用した。以後大手私鉄にも普及する。
なお、自動ドアは開けっ放しでは電車が走れない仕組みになっており、安全性向上と客扱いの迅速化に寄与した。
[編集] 4ドア電車の登場
初期の電車は木造車体であったが、1923年以降鋼鉄製車体の電車が登場し、電車はより大型化していく。1929年以降、鉄道省や南海鉄道、大阪電気軌道などには20m~21m電車が出現するが、電車の客用ドア数は片側3ドアが最大であった。
ドア数を増やせば、座席は減少するが客扱い能力が高まる。戦時体制下において軍需要員の輸送需要が高まると、ついに4ドア電車が登場した。
太平洋戦争中の1942年に鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)が新潟鉄工所に発注したサハ220形・サハ260形各2両が、日本初の4ドア電車である。この電車は鶴見臨港鉄道が鉄道省に買収された1943年になってから使用開始された。全長17mとそれほど大きくないため、側面はまるでドアばかりであった。
1943年、鉄道省は関西地区で用いられていた20m級2ドア電車のモハ43形を、4ドア化改造して通勤対応型とした。これがモハ64形で、国鉄初の本格的な4ドア電車となった。
鉄道省は更に1944年、徹底して簡素化された設計の戦時形通勤電車63系を開発した。
この形式は工作・材質は粗悪であったが、単純化された20m車体に片側4ドアを採用し、ラッシュ時の客扱い能力に卓越した性能を示した。結局太平洋戦争終結後も量産され、1951年までに700両近くが就役した。
[編集] 4ドア電車の普及と運輸省規格形電車
太平洋戦争終結時点で、国鉄・私鉄を問わず戦災被害によって喪失した電車は膨大な両数に達した。
また残存した車両も、戦後の混乱した情勢下での恒常的ラッシュ輸送に酷使され、十分な保守を受けられない状態で消耗、多数が使用不能に陥った。この結果、全国の国鉄・私鉄が車両不足に悩むことになった。だが、慢性的な資材不足の情勢では新車投入もままならなかったのが実情であった。
このような危機的情勢下、国鉄は前述の63系電車を大量生産して急場を凌ぎ、また一部の大手私鉄も63系を緊急導入して輸送力確保に当たった。この結果4ドア電車の輸送能力が認識され、のちにおいて広く踏襲される根元となった(詳細は国鉄63系の項を参照)。
しかし63系は非常に大型であり、線路規格の低い鉄道では使用不可能であった。また、63系の性能が条件に合わないという路線も少なくなかった。
そこで運輸省は1947年、電車の標準規格を制定し、この基準に沿った電車について優先的に新規製造を許可するという方針を採った。この結果製作された電車は「運輸省規格型電車」と呼ばれている。その中でも大量に製作された例としては、東京急行電鉄デハ3700形、名古屋鉄道3800系、近畿日本鉄道600系などが挙げられる。他にも主要私鉄では京成電鉄、京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄および京阪電気鉄道)、山陽電気鉄道、西日本鉄道などが導入しており、また地方の中小私鉄でも導入例がある。
運輸省規格型電車は、鉄道会社のニーズに合わせて複数の規格が制定され、製作された。部材の規格化・電装部品や台車の標準化などが図られたものの、実際には各鉄道会社の在来規格に合わせるよう個別に修正のうえ製作されており、規格統一はあまり実現できなかったと言われる。
この系統に属する電車は1950年頃まで大量に製造され、輸送力確保の役割を果たした。
[編集] 高性能通勤電車の登場
国鉄の高性能通勤電車は、101系から始まった。101系は全電動車方式で高加・減速、高速走行を目指したが、金銭的、技術的な問題から6M4Tの編成を組まざるを得なくなり、挫折。その後はモーター出力を上げ、MT比1:1を基準とする103系に移行し、この形式が国鉄の標準車両となってゆく。
乗客の乗り心地の向上についても考えられるようになり、101系では車内に扇風機が標準装備され、クハ79後期型にあった乗務員室への通風装置も取り付けられた。多段制御や空気バネ台車も試験され、前者は103系1000番台で、後者は301系で実用化されている。301系は、地下鉄乗り入れ専用の車両で、アルミ車体、シールドビーム窓下2灯、ユニット窓等、当時の国鉄通勤型では初の試みばかりの意欲的な車両だったが、製造コストが高かったため、製造は56両のみで終わり、その後の新造は103系に変更されている。但し、103系でも中期車以降は窓上ではあるが、シールドビームが採用され、ユニット窓も取り入れられている。また、踏切事故対策として運転台の高さを高くした先頭車も出現している。
103系の構造は通勤用車両としては上出来な物で、私鉄各社も全電動車方式からMT1:1方式へ転換を進め、その後の主流となっていった。車体も101・103系と同じ様な構造の物へ転換していった。但し、一部の路線では「駅間が極端に短い」や「ダイヤが過密すぎる」等の理由で加速に重点を置いた全電動車方式の車両を造り続けた。これは、T車を連結しても十分な加速力を発揮できるモーターが開発される1980年代頃まで存在したが、現在では京阪800系電車 (2代)、阪神5500系電車、南海2000系電車等少数が残るのみとなっている。
また、この時期長野電鉄もOSカー(Officemen&Students Car)という通勤電車を造っている。中小私鉄で通勤型電車を新製する例は現在でも少なく、当時のこの車両がいかに画期的な存在であるかが分かる。
それまで通勤電車の冷房化は扉数が多いこと、扉開閉頻度の高さから効果が疑問視され、名鉄5500系電車など、前述の条件がある程度緩い、なおかつ優等列車での使用が中心だった車両に限られていた。しかし、1960年代末期になると、京王5000系電車に端を発したロングシート通勤車両の冷房化が首都圏・関西圏の大手私鉄から順次開始され、103系も中期以降になると冷房化されるようになり、室内環境はさらに改善が進むことになる。
[編集] 新性能第二世代
国鉄では、車種統一という観点から103系を造り続けていたが、アコモデーションの陳腐化や、環境への影響(103系は抵抗制御で走行時に大量の熱を発し、エネルギー効率も悪い)が懸念され、それらを解決した201系が造られる事になる。201系は電機子チョッパ制御が採用され、車内も座席に着席区分が設けられたり、内装を緑系からクリーム系の化粧板にするなど一新された。側面ドアは子供が挟まれるのを防ぐために小型化され、103系高運転台車ではしまりの無かった前面は窓、ライト周りを黒色ジンカート処理にし、窓配置も工夫するなど、外観のイメージアップも図られた車両だった。この車両は好評で、地下鉄千代田線乗り入れ向けの派生型も作られる事となり、車体をアルミ製に変え、戸袋窓を廃止した203系となって常磐線各駅停車の103系を置き換えた。
省エネ電車として登場し、中央線快速電車、常磐線各駅停車、さらには京阪神地区東海道・山陽線緩行においてフラッグシップとなった201・203系だったが、当時チョッパ制御は高価で、国鉄の財政上、101・103系を全て置き換える事が出来なかった。
また、同時期には地下鉄乗り入れ車両として筑肥線に投入された103系1500番台や、いわゆる旧型国電の代替とした福塩線・可部線・小野田線・和歌山線・桜井線などに投入された105系では駅間が東京・大阪の電車区間に比して長く、また輸送量も比較的少ないことから閑散線区とされ、チョッパ制御を採用するには省エネ対費用効果が薄いとされ、抵抗制御を採用している。なお、後者については、制御電動車を1両と制御車1両を基本し、片側3扉としているなど従来の車両とは異なる車内設計を採用している。
根本的な解決をするために、低コストで経済的な界磁添加励磁制御を採用した205系を作り出し、山手線への大量配置を始めた。
205系の設計は201系を基本としているが、車体はステンレス製、台車はボルスタレス台車、側窓は第5編成以降は一段下降式となるなど、全く別の車両である。
国鉄では、イニシャルコストの高さから長年ステンレス車両の量産をしなかったが、この車両が登場する頃になるとステンレスの価格も下がっており、軽量化、無塗装化による維持費低減を狙う方が、スチール車よりも長期的には有利であると判断されたため、大量増備が可能となった。JR化後も主にJR東日本で、側扉部の窓の拡大、前面への種別表示幕設置等のマイナーチェンジを行った車が増備され、一部では前面デザインを根本的に見直したニュータイプも登場している。
[編集] 新たな通勤電車と世代交代
国鉄が解体し、JRとなって再出発すると、国鉄にあった全国統一という概念が無くなったため、会社ごとに違った方向性を持って線区ごとの事情に合わせた車両を投入出来るようになった。
真っ先に動きを見せたのはJR西日本で、1990年から207系を作り出している。207という数字を冠した車両は国鉄時代に207系900番台(10両編成1本・205系の設計をインバータ制御に変更したもの)が製造されていたが、JR西日本の207系は完全に脱・国鉄を念頭に置いた車両で、各部分に斬新な設備が取り入れられている。簡単に紹介すると、まず、車体はラッシュ対策として広幅にされ、同社発注の205系1000番台の思想を受け継ぎ、低運転台、大型窓で明るい照明と共に明るい車内を演出し、前面展望も良くしている。また、座席も良い材質の物を使用し、編成は時と場合に応じて2両以上が自由に組めるようにされる(現在では試作編成を除いて3両と4両のみ)など、並走する私鉄への対抗も考えられている。
この車両は、機器類は何度かマイナーチェンジをされているものの、車体は2004年までほとんど同じ物が490両造られ、後継の321系もこれを踏襲したデザインを採用するなど、JR西日本では通勤形の完成系車両と位置づけられている車両になった。また、この車両は旧式の103系淘汰も目的としたが、状態のいい車両は積極的に延命・リニューアル改造を進め、新車並みの装備に更新された車両も登場した結果、今のところ京都線・神戸線・学研都市線からの撤退のみとなっている。
一方、関東地区では人口増加に伴う輸送力の増強が急務となっていた。この頃になると、大半の線区で車両・ダイヤ共に限界の状況にあったため、以前とは異なる方法が取り入れられる事になる。
まず、「扉の増加」である。元々は、京阪電鉄の5000系で採用されたが、山手線の車両増結計画に際して持ち上がった構想で、この場合は「片面6扉、ラッシュ時には座席を収納して全て立席とする」というものであった。この効果は絶大で、「サハ204形」と命名された同車両は山手線の全編成に連結され、次いで横浜線、京浜東北線、中央・総武線各駅停車、埼京線、さらには京王、営団、東武、東急も採用している。
次に、「扉の大型化」である。こちらは、扉の数はそのままで開口幅を一般的な1.3~1.4m程度から1.6~1.8m程度と広くし、乗降をスムーズにしようとしたものである。まず、営団が多扉の03系との比較の意味もあり、05系で導入。小田急がこれに続き、関西でも阪急電鉄が採用している。しかし、こちらは想定したほどの効果は得られなかったため、小田急にて3000形の初期車迄採用していたのを最後に、その後は採用されていない。小田急では1000形の一部で開口幅2mという極端な大型扉を採用したものの、着席定員が少なすぎるため、後日1.6m幅に改造している。
以上2つの方法はあくまでもラッシュ対策であったため、平行して通常の車両も導入しなければならなかった。その際、JR東日本では、それまで常識とされてきたのとは全く異なる車両の導入を始めた。京浜東北線に投入され、後に209系として量産される事になる901系は、車体寿命を10年程度とし、同時に各部の構造も簡素化している。従来、電車は20~30年程度の耐用年数を有していたが、JR東日本では発想を変えて、「寿命を短く、リサイクルしやすい車両を作ることで、常に最新の設備と機能を持った車両を追い求める事が出来る」として、「寿命半分、価格半分、コスト半分」をコンセプトに開発された。なお、「コスト減少」という点では自社開発の車両製造・大規模修理を行える設備として新津車両製作所の本格的な稼働もこの時期からである。
座席もソファ式の長椅子から、S字型の特殊な形状の、一人分ずつに成型されたバケットシートが採用された。これは、着席マナーの向上を狙ったものとされている。また座席の間にポールを立て、座席間の仕切りとして強制的に定員着席をさせるとともに、子供や老人の安全を図っている。
1994年には京浜東北線を209系で統一し、南武線、川越線川越駅以西・八高線八王子駅~高麗川駅間、中央・総武線各駅停車にもこの車種を導入した。但し、「寿命半分、価格半分、コスト半分」の内、「寿命半分」については導入当初に誤解されていた「10年で廃車」ではなく、「解体修繕周期の長期化や部品寿命の適正化など信頼性の向上」とされている。
209系以降、JR東日本では通勤形電車と近郊形電車との隔たりを少なくする事も進めた。近郊形電車の座席をロングシートにする発想は国鉄時代からあり、各地で行われていたが、首都圏の殺人的なラッシュ時における混雑緩和を計る必要に迫られていたJR東日本は「片側4扉、一部を除きロングシート」という形態の車両を計画し、E501系、E217系となって実現させた。なお、前者は常磐線東京近郊区間での運用を前提とした「交直両用電車として初の通勤形電車」とされ、純粋な近郊形電車としては後者とされる。
この流れは最終的に一般形電車と称されるE231系に辿り着く事になる。この系列は、試作編成こそ「209系950番台」として東中野衝突事故及びそれ以降経年劣化が進んでいた103系の代替として中央・総武線各駅停車に導入されたが、首都圏の各路線に少しずつ形態を変えながら配備を続けている。なお、「座り心地が悪い」と言われて来た独特の構造の座席も、増備の途中で改良された他、交直流対応のE531系も登場している。
また、私鉄(および公営交通)各者も車種統一という観点から、このE231系に倣った車両を大量に導入している。相鉄、東急、東京都交通局などがこれにあたり、営団、東武、西武、京成、小田急、京王などの会社も、車両メーカー提唱の標準化された車体構造(後述)を採用しているものの、内装にE231系同様の物を取り入れ、旧形車の置き換えを進めている。
[編集] 地方都市圏での導入
東京・大阪の大都市圏で新たな通勤形車両が登場している傍ら、それまで通勤形電車とは無縁だったJR北海道もロングシート車両の導入を始めた。
1990年代になると、札幌都市圏では、通勤ラッシュによる遅れが毎日のように発生していた。元々、電化区間が札幌を中心とした函館本線小樽~旭川間及び千歳線・室蘭本線室蘭~沼ノ端間と限定されており、使用電車も近郊形電車である711系・721系が使用されていた。しかし、亜寒帯気候に属する北海道という極寒冷地での車内保温の制約から前者は2扉、デッキ付、デッキ付近を除きクロスシートであった。当初は711系の3扉への改修も行われたが、経年に伴う車両交代もあり、新車での置き換えを進める事になった。オールロングシート車を導入するあたり、711系のうちの1編成(S112編成)のうちの1両を試験的に改造して乗客の反応を見たのち、北海道初のオールロングシート車731系を投入した。単に721系の派生形としなかったのは、小樽駅以西の函館本線や学園都市線という非電化路線での使用を前提にキハ201系というディーゼルカーが平行して開発されており、それと協調運転をするために新設計の車両にせざるを得なかったためである。両者の外観は帯の色とパンタグラフの有無以外は同一にされ、内装も統一化が図られた。また、これらの車両は日本初の完全協調運転可能車両である。
JR東日本では、従来急行形電車及び客車列車を使用して地域輸送を行ってきた東北・関東北部・甲信越地区にも近郊形電車に近い性能を有するがロングシートを採用した107系・701系・E127系が導入されている。
JR九州でも103系の後継車である303系が導入されているが、これは乗り入れ先の福岡市地下鉄空港線との兼ね合いが大きく、その他の線区は3扉を新造している。
なお、JR東海やJR四国には通勤形電車が存在しない。共に、線路容量が新型車両などにより増加したことにより混雑が緩和されたことが一因とされる。
JR東海の場合、国鉄末期に中央西線名古屋駅~中津川駅間での混雑緩和のために103系が導入されたが、同車の置き換えに共に近郊形車両であるが、3扉ロングシートの211系、及び3扉転換クロスシートの313系が使用されている。これは、名古屋都市圏での高速化・高規格ダイヤ化に伴うものであるが、103系の引退に伴い、JR東海では現在営業車両として正式な「通勤形車両」(4ドアロングシート車)というのは存在しない。
JR四国については電化区間が予讃線高松~伊予市間及び土讃線多度津~琴平間と想定される都市圏としては高松都市圏及び松山都市圏で、電車化による速達化・フリークエンシー化に伴う混雑緩和を行っているが、4扉、ロングシートの車両は存在しない。
例外的なものとしてはJR西日本の場合、広島シティネットワークを中心とした山陽地方及び和歌山県の地域輸送で近郊形電車に伍して使用される場面もある。また、播但線や加古川線の様に103系を改修して使用するなど新製車両としては通勤形車両を導入しない事例もある。
これらのように、分割民営化された現在では通勤形電車に対する考えは会社毎に異なり、それぞれが最良と判断した対策を採るようになっている。そのため、造られる車両も様々であり、今後は103系の様な車両は現れないだろうと考えられる。
[編集] その他
[編集] 東西の違い
私鉄各社では、戦後の混乱期が終わる頃から次第に各社ごとに違った車両を作り出してきた。その際、少しづつではあるが、関東地方と関西地方では傾向に差が生まれる様になっていった。
違いの例として、以下の点が上げられる。
- 関東では車体規格が20m4扉が主流になっていったのに対し、関西では18m3扉のままの会社が多かった。
- これは、関東各社が混雑緩和と施策的に地下鉄への乗り入れを視野に入れていた会社が多かったことが挙げられる(戦後、関東の大手私鉄各社は、自社での山手線内への延長を計画していた社が多かったが、地下鉄へ乗り入れる形に変更した経緯があった)。しかし、裏を返せば都心~郊外間の通勤需要が大きいが故に、都心部への直通を意図した計画を進めざるを得なかった(そうしないと今度は都心部での交通混雑が激しくなる)と言う事情もある。例えば初期(昭和30年代)の都営地下鉄1号線や営団地下鉄日比谷線は乗り入れ規格を設定する際には会社の規格が18m(前者は京成電鉄・京浜急行電鉄ともそれを使用していたためであるが、後者は低い規格であった東急東横線の方に合わせる形となった)であったが、すでに20m車両を採用していた中央線・総武線へのバイパスを意図した営団地下鉄東西線や東武東上線と高島平団地、又は(新規路線としての)東急田園都市線を結ぶ意図で計画された都営地下鉄6号線以降は、20mクラス車両を前提に入線する路線の建設を進めざるを得なかったとも言える。
- しかし、大阪を中心とした関西では、大阪市が長らく市営モンロー主義を採り、既存私鉄の都心部への乗り入れを規制していたことや、大阪市営地下鉄自体も旧軌道法の「特許」による建設であり、大阪市電の地下化・高速化と言う法律的・技術的な側面もあり、乗り入れに際しては、千里ニュータウンへの輸送手段の一つである阪急千里線に接続する意図で建設された大阪市営地下鉄堺筋線を除けば、北大阪急行線や近鉄けいはんな線の様に「地下鉄の郊外延長」と言った形をとらざるを得なかったことや、近鉄難波線や阪神西大阪線の様に自社で都心に延長する形を取らざるを得なかった(又は、それを支援する方法が手っ取り早かった)という事情がある。また、山間部や在来市街地での急カーブを設置せざるを得なかった事情から、すでに戦前(昭和初期)から20mクラスの車両を運行していた近鉄(大阪線・南大阪線)や南海(現在では南海高野線の橋本駅以南を除く)を除き、物理的にも20m車の導入が難しかったという事が原因となっている。
- 関東では東京急行電鉄・京王帝都電鉄→京王電鉄に代表されるようにステンレス車体、関西では阪神電気鉄道・阪急電鉄・京阪電気鉄道に代表されるように鋼鉄・アルミ車体を採用する傾向にある。しかし、車体については京浜急行電鉄や営団地下鉄(現:東京地下鉄=東京メトロ)ではアルミニウム車体(日立製作所で造られた車両が多い)を使用したり、関西では南海電気鉄道・大阪市営地下鉄等のようにステンレス車体を用いる会社もあり、一概に言い切れない。
- 関東ではJRに倣った車両やメーカー標準設計を基にした車両の導入が盛んだが、関西では自社開発が主流である。
- しかし、これは2000年代に入り関東各社が経年劣化した車両(主に1970年前後=昭和40年代に製作された車両)の交代期にあたることや、1992年のJR東日本の209系車両の登場をきっかけとした国土交通省・経済産業省の主導もあり、車両製作会社が大量生産を可能にして1両あたりの製作コストの削減を目指した施策でもあり、必ずしも鉄道事業者各社が自社開発を放棄したわけではない。また、相互乗り入れや保守等の理由から、同規格の車両を導入せざるを得ないという場合も多い。
- 関西でも経年劣化した車両が首都圏よりも多く存在するが、鉄道事業者の経営事情が厳しいこともあり、そのまま継続して車両を使うことがある。また車両の更新をして、寿命を延ばすことを行っている。
- アルミ製車両の場合、関西では全体を塗装することが多い一方、関東では銀または白に1~3色の帯を巻く事が多い。但し例外として京浜急行電鉄のように全体塗装を行っている。
- 関東では制御車、ユニットM車が多く、関西では制御電動車、単独M車が多い。
- これは関東と関西の鉄道の発展の経緯の違いに起因している。関西の場合、短編成で登場したものを増結で現在の長さにしたケースも少なくなく、また、分割・併合運用がある場合も多かった為に制御電動車、単独M車が不可欠だったのである。
[編集] 標準設計への移行
通勤・近郊用車両では、2000年頃からの動向としては、JR東日本の209系車両の後継車種であるE231系車両か、車両メーカーの標準設計を基にした車両を導入するケースが増えている。大都市周辺の主要鉄道会社での基となる設計を大きく分けると次のようになる。
- E231系などJR東日本の設計を基にした会社
- 相模鉄道
- 東京急行電鉄
- 都営新宿線
- 小田急電鉄(4000形)
- 車両メーカーの標準設計を基にした会社
- 完全な独自設計(車両メーカーや同業他社車両の設計を基にしていない)
- 京浜急行電鉄
- 京阪電気鉄道
- 阪神電気鉄道
- 南海電気鉄道
- 近畿日本鉄道
- 各地の公営地下鉄(東京・横浜の一部除く)
- 北海道旅客鉄道(JR北海道)
- 東海旅客鉄道(JR東海)
- 西日本旅客鉄道(JR西日本)
- 四国旅客鉄道(JR四国)
他
[編集] 旧型車の運命
毎日のように酷使され、人々の足となっている通勤形電車だが、新型車が登場するとあっけなく廃車になって行くものも多く、72系の様に改造車を含めて1000両以上が存在しながら、1両も保存されていないケースさえある。このような状況で、リニューアル改造や他社譲渡などにより、生きながらえている車両も少なからず存在する。
例えば、東急では5000系や7000系を始め、多くの電車を地方鉄道会社に譲渡しているし、京王の5000系や3000系も廃車後に多くの車両が中小私鉄で使用されている。最近では東京都が6000形をインドネシア国鉄に無償譲渡したり、名古屋鉄道が廃線になった三河線に在籍していた気動車をミャンマー国鉄へ売却したりなど、日本国外への譲渡も増えている。国鉄・JRでも国鉄101系を秩父鉄道へ譲渡するなど数例があり、2003年にはJR東日本も103系武蔵野車4連4本をインドネシア国鉄へ無償譲渡している。103系で廃車後に譲渡された初の例である。通勤形ではないが、JR西日本のキハ58系も廃車後にタイ国鉄・ミャンマーへ譲渡されている。また、地下鉄車両では、営団500形、名古屋市交通局300形、同1200形がアルゼンチン・ブエノスアイレス地下鉄(メトロビアスS.A.)に売却されている。
リニューアルの例としては、前述したJR西日本の103系へのリニューアル改造が挙げられる。これは、陳腐化した同形式の根本的な延命を図ったもので、屋根の張上げ、一部外板のステンレス化、窓の半1枚化と窓枠の取替えを行った他、座席モケットを207系の物に交換したり、冷房ダクトや貫通扉も新品にされている。JR東日本でも仙石線用の車両に、窓枠の交換や座席のバケットシート化などの工事を行った。こちらは一度2004年7月に205系へ置き換えられて営業運転を終了したが、多賀城駅付近の連続立体交差化工事により予備車が不足する恐れがあることから、営業運転終了後も約2年間保管されていた4連1編成が新たにトイレ設置・シングルアームパンタグラフへの交換など205系と設備レベルを同等にする工事を行ったうえで、2007年3月19日より営業運転に復帰している。
私鉄では、阪急5000系や阪神8000系などが挙げられる他、関東でも東武の8000系や京成の3500形が大規模リニューアルを受けている(後者は途中で中止)。また、特殊な例としては東急が7000系を、JR東日本が205系の一部をインバータ制御に改造した事例がある。東急7000系が7700系にインバータ制御化改造された当時、車体は新製時と比べほとんど劣化しておらず、ステンレス車の有効性を世に知らしめた。しかし、駆動装置を更新する例は日本では少なく(他には旧営団で千代田線6000系や有楽町線7000系のインバータ制御化改造がある程度)、東急でも8000系は廃車の道を辿っている(一部は伊豆急行へ譲渡)。