放棄試合
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放棄試合(ほうきじあい)とは競技において何らかのトラブルが発生したために、事態の収拾が付かなくなったり、人数不足になったりした場合に、そのトラブルの元となったチームを敗戦扱いにする制度。試合放棄と呼ばれることも多い。
放棄試合の場合の結果は、野球では9 - 0、サッカーでは3 - 0、バスケットボールでは20 - 0とされる。
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[編集] 野球における没収試合
公認野球規則では没収試合(ぼっしゅうじあい、Forfeited game)と言う。原則として個人記録はそのまま残るが、加害チームが勝利しながらも没収試合の対象で0 - 9の敗戦となった場合、投手の勝利・敗戦・セーブポイントの記録は取り消しとなる。
公認野球規則上、没収試合となるのは以下のケース。
- 球審が試合開始時刻にプレイを宣告してから、一方のチームが5分を経過してもなお競技場に出ないか、あるいは競技場に出ても試合を行うことを拒否した場合。
- 一方のチームが試合を長引かせ、又は短くするために、明らかに策を用いた場合。
- 球審が一時停止又は試合の打ち切りを宣告しないにもかかわらず、試合の続行を拒否した場合。
- 一時停止された試合を再開するために、球審がプレイを宣告してから、1分以内に競技を再開しなかった場合。
- 審判員が警告を発したにもかかわらず、故意に、また執拗に反則行為を繰り返した場合。
- 審判員の命令で試合から除かれたプレーヤーを、そのチームが適宜な時間内に退場させなかった場合。
- ダブルヘッダー第2試合の際、第1試合終了後20分以内に競技場に現れなかった場合(ただし、第1試合の球審が第2試合開始までの時間を延長した場合は除かれる)。(以上公認野球規則4・15)
- ダブルヘッダーの第1試合と第2試合の間、又はグラウンドコンディション不良のために試合が停止されている間、グラウンドをプレイできる状態にするよう球審がグラウンドキーパー及びその助手に命じたにも拘らず、グラウンドキーパー及びその助手がこの従わなかった場合(この場合はビジターチームの勝利となる)。(公認野球規則3・11)
- 球審が試合を一時停止した後、その再開に必要な準備をグラウンドキーパーに命じたにもかかわらず、その命令が履行されなかったために試合再開に支障をきたした場合(この場合はビジターチームの勝利となる。ただし、アマチュア野球には適用されない)。(同4・16)
- 一方のチームが競技場に9人のプレーヤーを位置させることができなくなるか、又はこれを拒否した場合。(同4・17)
[編集] 日本プロ野球
- 日本のプロ野球リーグにおいてはこれまで10試合のケースが該当する。
開催日 | 適用された試合(会場) | 適用理由 |
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1946年5月20日 | パシフィック-セネタース (西宮球場) |
パシフィックの藤本定義監督が、戦前既存球団でプレーしていた白石勝巳(巨人)、藤井勇(阪神)を公式戦登録メンバーに加えさせたことでの調査中にも関わらず、2人を試合に出場させたため、パシフィックは当該4試合を没収試合(0-9での敗戦)とさせられた。 このうち5月26日の試合はパシフィックが7-4で勝ったものの勝敗がひっくり返ってしまい、この1勝がグレートリングの初優勝につながった。 |
1946年5月23日 | パシフィック-近畿グレートリング (西宮球場) |
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1946年5月24日 | パシフィック-阪急軍 (西宮球場) |
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1946年5月26日 | パシフィック-近畿グレートリング (西宮球場) |
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1946年9月27日 | セネタース-ゴールドスター (西宮球場) |
球場周辺が晴天にもかかわらず、セネタースの宿舎付近が雨天だったので中止と思い込んで球場に行かなかったため。 |
1947年6月6日 | 阪急ブレーブス-南海ホークス (後楽園球場) |
球場周辺が晴天にもかかわらず、阪急の宿舎付近が雨天だったので中止と思い込んで球場に行かなかったため。 |
1950年8月14日 | 南海ホークス-大映スターズ (富山球場) |
試合中のプレーをめぐって鶴岡一人監督が抗議し、その後試合放棄。 |
1954年7月25日 | 大阪タイガース-中日ドラゴンズ (大阪球場) |
10回、真田重男選手のプレーに対して一度審判に対する暴言で退場処分を食らったはずの藤村富美男選手が再び打席に立ち、充分な説明がなされてなかったことを理由にファンが抗議。収拾が付かなくなったことから主催者の阪神球団に責任があるとして同チームへ没収試合とさせられた。この一件で藤村選手は出場停止20日と制裁金(罰金)5万円、松木謙治郎監督は出場停止5日と制裁金3万円を科された。当時の公式記録はその回の表・裏両方の攻撃が完了して初めて成立する制度(コールドゲームの項に掲載したルールの詳細参照)だったので10回表に一旦記録された杉山悟選手のホームランは無効扱いとなった。なお、この責任を取る形で松木監督はシーズン終了後に辞任した。 |
1967年9月23日 | 阪神タイガース-大洋ホエールズ (甲子園球場) |
1回表の大洋・森中千香良選手のプレーについての捕球を巡って藤本定義監督が大谷泰司審判に抗議。その際胸を突き退場。その後阪神が試合の続行を拒否したため放棄試合となる。なお、この試合はセ・リーグ最後の没収試合となっている。 |
1971年7月13日 | 阪急ブレーブス-ロッテオリオンズ (西宮球場) |
7回表のロッテ・江藤愼一選手の三振の判定を巡って矢頭高雄コーチが抗議。砂川恵玄審判に暴行し退場。また濃人渉監督らが抗議を続けるが受け入れられず。その後ロッテサイドが試合続行を拒否したため(これには試合続行拒否の中村長芳オーナーの鶴の一声もあった)放棄試合が宣告された。1968年に放棄・没収試合は厳禁という規制が出来たためこの試合が現状で新しいものであり、ロッテは阪急球団に制裁金・賠償金500万円近くを払うことになった。なお、この責任を取らされ濃人監督は二軍監督に降格された。パ・リーグおよび日本プロ野球最後の没収試合となっている。 |
[編集] 日本社会人野球
- クラブチームでは本職を持ちながらプレーする選手が多いことから、大会開催日に選手が9人集まらなかったり、また雨天順延等で本来土曜日や日曜日に組まれていたゲームが平日に繰り延べられた結果、選手が集まらずに試合放棄となるケースがまま見られる。
- 2006年3月25日に行われた第41回福岡県野球連盟会長杯争奪春季大会1回戦、福岡美咲ブラッサムズ対沖データ・コンピュータ教育学院戦の4回裏、福岡美咲ブラッサムズ側が競技者登録を行っていない元プロ野球選手・市場孝之を代打に送ったのを沖データ側が指摘、その時点で沖データは8-1でリードしていたが、規定により没収試合となり、沖データが9-0で勝利となった。
- 2006年5月9日に行われた第60回JABA九州大会2回戦、セガサミー対沖データ・コンピュータ教育学院戦の8回表、沖データが未登録の選手を代打に送ったところ、セガサミー側の指摘により(佐々木誠コーチ(元南海・福岡ダイエー、西武)が気づいた(セガサミー硬式野球部HPより))、それまで2-0でセガサミーがリードしていたが、9-0でセガサミーの勝利となった。沖データ・コンピュータ教育学院は約1ヵ月半の間に没収試合の勝者と敗者になったことになる。なお、沖データ・コンピュータ教育学院はホームページの試合結果情報に当該試合を掲載していない([1])。
[編集] 日本大学野球
- 地方の大学連盟の最下層リーグでは選手が足りずに没収試合となることがまま見られる。
- 2006年9月7日に行われた京滋大学野球リーグの京都学園大学対花園大学3回戦で、京都学園大学の選手が登録と異なる背番号を付けて出場したため、規定により没収試合となり、対戦成績2勝1敗とした花園大学が一度は勝ち点を得た。しかし、原因が京都学園大学の女子マネージャーのメンバー表への記入ミスだったことから、教育的配慮から連盟は再試合を決定。9月29日に行われた再試合では、京都学園大学が9回裏逆転サヨナラ勝利を挙げ、当初の結果とは逆に京都学園大学が勝ち点を得ることとなった。
- 2006年10月9日に行われた北東北大学野球秋季リーグの1,2部入れ替え戦、八戸工業大学(1部)対青森中央学院大学(2部)の第2戦で、青森中央学院大学側がメンバー表に選手の名前を誤って記入し、当該選手が登板して1球投じたところで相手が抗議。規定により没収試合となった。入れ替え戦は2戦先勝方式で、前日行われた第1戦では青森中央学院大学が勝利していたが、没収試合となった第2戦の直後に行われた第3戦も八戸工業大学が勝利、対戦成績が青森中央学院大学の1勝2敗となり、1部昇格を逃す結果となってしまった。
- 2006年10月22日に行われた九州大学野球選手権大会(明治神宮野球大会大学の部への出場を懸け、九州の3連盟上位チームにより行われる大会)の予選トーナメント決勝、九州共立大学対日本文理大学戦で、九共大の特別コーチ(元プロ野球選手)が試合中にベンチ及びブルペンで直接選手に指導していたとして、全九州大学野球協会がこの試合を没収試合にすると発表。試合は4-1で九共大が勝っていたが、この措置により日本文理大が決勝トーナメントに進出。大学野球においては、元プロ野球選手は条件つきで練習時に学生を指導することができるが、試合中の指導は認められていない。
[編集] 日本高校野球
- 高校野球では全国大会では選抜・選手権共放棄試合(没収試合)に至ったケースはないが選手権では地方大会で放棄試合(没収試合)になったケースが過去2試合存在するがすべて現在の49代表(東京都・北海道2校ずつ、45府県1校)が定着する以前である。
開催日 | 当該大会・回戦 | 適用された試合(会場) | 適用理由 |
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1959年7月26日 | 第41回選手権 西中国大会 島根県予選準決勝 |
大田高校対大社高校 (大田市民球場) |
前日に行われた同カードが日没コールドにより引分、大会本部は午後1時再試合開始としていたが前日判定トラブルがあったためか、大社高校側が 1. 審判の交代 2. 大田高校の監督を今後出場させない 3. 主催者の謝罪要求 の三条件をつけたため紛糾。4時間後の午後5時に試合開始を強行するが、三条件に拘る大社高校側が納得せず守備につかなかったため、大社高校に没収試合が宣せられた。 |
1969年7月25日 | 第51回選手権 長野大会 本選1回戦 |
長野高校対丸子実高 (上田市営球場) |
4対4のスコアで延長戦に突入。11回の表2死1・2塁先攻の長野高校の打者が三塁線に安打し2点獲って均衡を破ったが、三塁ベンチの丸子実高側が「ファウルだ!!」と審判団に抗議。スタンドから数人のファンが乱入して、約20分間中断した。結局判定は覆らず、6対4で長野高校リード。このスコアで2死無塁で再開されたが、今度は丸子実高側が日没再試合狙いの遅延行為に出た。これによって午後6時45分、丸子実高に没収試合が宣せられたが、これが場内放送で伝えられるや、丸子実高のファンが激昂して暴徒化。スタンドに放火、球場設備を壊すなどの暴挙に出たため、長野県警の警官隊130人が出動。逮捕者2名を出して午後9時30分頃に収束するという、高校野球史上最悪の不祥事にまで発展した。没収試合が暴動にまで発展した事から、当時『天皇』と恐れられた佐伯達夫高野連会長(当時)の逆鱗に触れ、丸子実高には2年間の対外試合停止処分が課される(実際は11ヶ月)事となり、後援会は暴動の責任をとり解散した。以来、日本高校野球では没収試合は発生しておらず、当該試合が最後となっている。 |
[編集] アメリカ大リーグ
大リーグでの最後の没収試合は1995年8月10日のロサンゼルス・ドジャース - セントルイス・カージナルスである。このときのドジャースの先発は野茂英雄で、この試合の一塁審判は誤審で話題の多いボブ・デービッドソンであった(「ボブ・デービッドソンが放棄試合を宣告した審判」と日本のマスコミにおいてもよく誤解されるが、実際に没収試合を宣告したのは責任審判のジム・クイック球審である)。ちょうどこの日は大リーグでよく見られる「ギブアウェイ・デイ(来場者全員または来場者のうち先着一定数の観客に球団グッズなどをプレゼントする日)」で、運悪くドジャースのロゴ入りボールが相当数の観客にプレゼントされていた。トミー・ラソーダ監督が審判団に抗議し、審判から退場処分を受けたことに怒った観客はこのボールをグラウンドに投げ入れ、まともな試合運営ができないと判断した審判団は、主催者のドジャース側にこの行為をやめさせるよう指示したが、ドジャース側はこれを拒否、グラウンドボーイも投げ入れられたボールを回収しようともしなかったため、審判団は公認野球規則4・16を適用して、この試合を放棄試合とした。この措置は全米で物議を醸した。
[編集] サッカーにおける没収試合
原則として3-0(女子は2-0)のスコアとなるが、既に獲得された得失点差の方が大きい場合は、それを有効とする。また、個人記録は基本的に無効となる。
以下のケースが起こった場合、没収試合となることがある。
- チームまたは選手が試合継続を拒否し、または試合を放棄する場合。
- 試合中または試合終了後の、競技場内における騒乱。
- チームによる著しい違反行為。
- ドーピング違反行為。
- 出場選手が規定人数以下となった場合。(協会、連盟などによって規定人数は異なる。日本協会は7人以下)
[編集] 事例
- 記憶に新しいのは、2005年4月12日のUEFAチャンピオンズリーグ 2004-05準々決勝第2戦、ミラノ・ジュゼッペ・メアッツァサッカー場で開いたインテル・ミラノvsACミラン(ミラノダービーマッチ)。後半26分、インテルのカンビアッソがシュートを決めたが、ファウルによりノーゴール。納得が行かないカンビアッソは抗議するも逆にイエローカードを受けた。その直後にインテルサポーターが試合中に発炎筒を投げ、その内の一つがミランのGKヂーダに直撃したため試合は一時中断。20分後に再開されたが、再び発炎筒が投げ込まれ暴動は収まらなかったため、1-0でミランリードの後半30分にマルクス・メルク主審は試合中止を宣告。15日にはUEFAよりこの試合を没収試合扱い(0-3でミランの勝ち)とされ、インテルは30万スイスフランとUEFA主催の国際試合(CL、UEFA杯を含む)のホームゲームについて、3年間(2006-2007年シーズンまで)の条件付き4試合の無観客試合とする制裁を課された。
- 1995年にカタールで行われたワールドユースのオランダ対ホンジュラス戦。ホンジュラスの選手4人が退場処分となり、さらに負傷退場者も出て6人となったため没収試合となった。ちなみにこの試合の主審を担当したのは日本の岡田正義氏だった。
[編集] バスケットボールにおける没収試合
2005年12月18日に輪島市一本松体育館で行われた日本リーグ第6戦の石川ブルースパークスvs豊田通商ファイティングイーグルス戦。石川優勢で試合が進んでいたが、豊田通商側は試合を通じて「判定が石川寄りだ」と審判に抗議していた。96-70で迎えた第4クオーター残り2分46秒で、豊田通商は選手及びコーチ全員が退場し、体育館を後にしたため、没収試合扱い(20-0で石川の勝ち)となった。
[編集] 関連項目
カテゴリ: スポーツ用語 | スポーツのエピソード