藤村富美男
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藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・プロ野球監督。初代ミスタータイガース。彼の後、ミスタータイガースの称号は村山実、田淵幸一、掛布雅之に引き継がれた。阪神黎明期を支えまた、戦前~昭和20年代のプロ野球創成期を代表するスター選手。
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[編集] 来歴・人物
鶴岡一人と同学年で呉市のすぐ隣の小学校に入学、野球を始める。大正中学2年(5年制)、14歳で早くもエースとなり県内のライバル、鶴岡の広島商業や濃人渉、門前眞佐人、白石勝巳らのいた広陵中学を悉く蹴散らし、春夏の甲子園に6度出場、明石中学の楠本保、京都商業の沢村栄治、中京商業の吉田正男、県立岐阜商業の加藤春雄ら球史に残る名投手と名勝負を繰り広げ甲子園の申し子と言われ、藤村登板の試合では外野スタンドで、空き箱の上に立って試合を見る最後列の観客のために「空箱屋」が大繁盛するほどの人気沸騰ぶりだったという。藤村のワンマンチームと思われがちな大正中学だが、呉港中学に校名変更した1934年夏には、田川豊(グレートリング、南海、大陽、近鉄、大映)、塚本博睦(阪急、西日本他)、橋本正吾(阪神、阪急)、保手浜明(翼)、原一朗(阪神、ライオン他)らを揃え、高い総合力で全国の強豪をまったく寄せ付けず圧勝し全国制覇を果たした。決勝では藤村が熊本工業を2安打完封、川上哲治も3連続三振に捻った。川上は「一人だけ大人が混ざっているようだった」と述懐する。実際当時の写真を見ると、とても10代とは思えないふてぶてしい精悍な面構えであった。深紅の優勝旗を手に凱旋した呉港中ナインを歓迎する呉市民の熱狂ぶりは、連合艦隊入港以上のものだったという。
翌1935年夏には1試合最多奪三振の現在も大会記録して残る19奪三振を記録している(対飯田商業)。藤村が2年生14歳から5年生17歳まで、4年間一人で投げ抜いて奪った三振は甲子園で12試合通算111個である。1936年、藤村が呉港中学を卒業した年は、職業野球連盟が結成された年であった。設立されたばかりの大阪タイガースは、甲子園最大のスター選手であった藤村を熱心に勧誘し、前年末に投手として入団させた。背番号10。
ただし、藤村自身及び学校側は、法政大学進学のつもりでいたのを阪神のスカウトが藤村の父親を口説き、何も知らぬ藤村に判子を渡し、契約書に押させて契約を成立させたと言われる。 藤村の反対にあって契約が不成立となるのを恐れた藤村の父と阪神スカウトの判断でこのような暴挙を行い、藤村は法政大に進学できないのを悔しがったという。 学校側と藤村家の関係は険悪となり、藤村は野球部の出入りを禁じられた。 六大学野球全盛の当時において、創設されたばかりでリーグ戦も開催されていなかったプロ野球の立場は低く、藤村のように有力な旧制中学生がプロ球団と契約・入団する事は、人生を誤るようなものと思われていたためである。
[編集] ミスタータイガース
1936年プロ野球リーグ開幕、タイガース最初の公式戦である4月29日の対名古屋金鯱軍戦に開幕投手として登板、1安打完封勝利をあげるなど、好成績を収める傍ら、内野手不足となったチームの穴を埋めるため、内野手としても出場し、同年秋季には本塁打王に輝いた。1937年からは、本格的に二塁手に転向し、2番打者としてチームの二連覇に貢献したが、当時のタイガースは景浦將、山口政信、松木謙治郎、藤井勇などリーグ屈指の強打者が数多く在籍していたため、藤村の立場は完全に脇役であった。
1939年から1942年までは兵役のため出場できなかったが、復帰後は戦力の落ちた阪神で主軸となり、1944年に四番打者に定着すると、打点王を獲得し、優勝に貢献した。
戦後は自らが監督代理をつとめた1946年こそ五番打者であったが、その後は不動の四番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となった。打点王として1947年の優勝に貢献し、同年設立されたベストナインの三塁手に選ばれると、以降6年連続で受賞した。1948年からはゴルフのクラブからヒントを得た(本人いわく笠置シヅ子のショーを観て触発されたとも)といわれる通常の選手のそれよりも長い37~38インチの長尺バットを用いて、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘とともに本塁打を量産した。このバットは「物干し竿」と呼ばれ、3年連続打点王の原動力となった。この年の10月2日、対金星スターズ戦で日本プロ野球史上初のサイクルヒットを記録。1949年には187安打、46本塁打、142打点と主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新するという空前絶後の大活躍をみせたが、惜しくも首位打者は小鶴誠にゆずり、三冠王にはなれなかった。それでも、藤村の活躍は十分に認められ、チームが6位だったにも関わらず、MVPを獲得している。このころから「ミスタータイガース」と呼ばれ、ファンから絶大な支持を受けた。
[編集] プレーイングマネージャー
1949年末から1950年始にかけての2リーグ分立の際には、若林忠志、別当薫、土井垣武等をはじめとする主力選手が次々と毎日オリオンズに引き抜かれたが、藤村はタイガースに残留して弱体化したチームを支えた。1950年、前年藤村の三冠王を阻んだ小鶴が本塁打、打点の二冠を手にすると、藤村は首位打者を獲得し、小鶴の三冠王を阻んだ。この年記録した191安打は、イチローに破られるまで44年間日本記録であった。また、1953年に再び、本塁打、打点の二冠王となるなど、常にタイトル争いに加わり、1955年まで一線でプレーした。しかし、1955年に就任した岸一郎監督は世代交代を目指して、藤村等ベテラン選手より若手選手優先の起用を行った。そのため主力選手の反発を招き、岸監督がシーズン中に更迭されると藤村が兼任監督となった。1956年には兼任監督としての仕事を優先してレギュラーを譲ると、日本球界2人目の代打満塁逆転サヨナラホームランの快挙を達成した(もちろんプレイングマネージャーでは藤村が唯一の達成者である。)。古田敦也に先んじること50年、「代打、ワシ」のコールから起こした夢の大記録だった。このホームランが藤村の現役最後のホームランであった。この年限りで引退して監督に専任することとなった。1958年に監督を辞任して現役復帰したが同年末に引退し、ついに阪神から完全に離れた。その後、1963年に国鉄スワローズのコーチ、1964年~1965年には東映フライヤーズのコーチをつとめ、1966年に評論家に転じた。
大阪タイガース結成時から藤村が付け続けた背番号10は、球団初の永久欠番となっている。1974年野球殿堂入り。1992年5月28日、糖尿病による腎不全のため、75歳で死去した。
[編集] エピソード
- 甲子園のスター選手であった藤村富美男だが、弟・隆男(後にタイガース等で選手・コーチ)、長男・哲也(育英)、次男・雅美(三田学園)、そして哲也の子・一仁と賢(共に三重・海星)、雅美の子・光司(育英、監督は雅美)の孫3人が相次いで甲子園に出場し、話題となった。広島、兵庫、三重の3県4校に股がる、まったく他に類を見ない「親子3代の兄弟出場」となった。まさに藤村は甲子園の主である。
- 「ミスタータイガース」としては、他に村山実、田淵幸一、掛布雅之がそう呼ばれた時期がある。しかし、藤村を別格と見て、ミスタータイガースに初代も二代目も三代目も存在しない。藤村富美男だけがミスタータイガースとするファンもいる。ファンもそうだが、野球関係の書物に同時期活躍した小山正明ら同僚選手、青田昇らライバル選手やマスコミ関係者から同様の意見が多く聞かれる。青田は「ミスタータイガースはあのオッサンしかおらへん。あの2リーグ分裂で、オッサンまで阪神を出て行ったら、今の阪神はないし、いまのプロ野球もないぞ。プロ野球がここまでのびたんは、東の川上、大下、西では藤村が頑張ったからなんや。村山、田淵、掛布がミスタータイガースなどといわれたが、とてもとても藤村のオッサンには及ばんよ。ミスタータイガースは藤村のオッサンだけ」「とにかく阪神と戦って、巨人の選手が9人がかりで、あのオッサンを潰しにいかんとあかんかった」と声を大にして話していた。
- タイガースの記念すべき公式戦、第1戦に開幕投手として1安打完封勝利を挙げた藤村は、第3戦も先発し同点から延長で、センター・平枡敏男のエラーによりサヨナラ負け。阪神の勝利・敗戦とも第1号となった。更にアメリカ遠征から戻った巨人との“伝統の巨人・阪神戦”第1戦に先発・若林をリリーフ。ボークなどで逆転されたが、味方が再逆転し“伝統の一戦”も勝利第1号となっている。
- 水島新司の有名漫画、「男どアホウ甲子園」の主人公の名前が、藤村富美男から取った藤村甲子園であることは言うまでも無いが、「ドカベン」岩鬼正美の豪快・奔放なキャラは、藤村のそれが多大に影響を与えているらしい。また「あぶさん」こと景浦安武の名は景浦將からの命名だが、藤村も二度だけ作中に登場した。ルーキー時代のあぶさんに「物干し竿」を使い始めるきっかけを与え、またこれは偶然ではあるが、「二代目物干し竿」のあぶさんが作中で三冠王を獲得した(1991年)のを見届けてから、翌年に他界している。
- 大学卒で鳴り物入りで入団してきた別当薫に異様な闘争心を燃やし、フロに入っていた別当の頭の上をまたいで浴槽に入った。別当が前(3番)で先にポカスカ打つと思い切り機嫌が悪かった。といわれているが、土井垣や本堂などの証言では「別に機嫌が悪くなったとか無かったですよ。よく別当を連れて飯食いに行ってました。」という話もある。並のバッターならチャンスで萎縮するものだが、藤村はチャンスだと嬉しそうに打席に入った。これが打点王を多く獲った理由と思われる。
- 真偽は不明であるが、チームメイトが入った後の汚れきったフロの湯でうがいをし、さらにそれを飲んだという話がある。
- 1939年1月、召集を受け郷里の陸軍広島第五師団に入営。23歳だった。連隊砲(小型の大砲)要員となったが、幹部候補生の試験に落ち最前線に行った。中学時代に教練の時間があり、授業に出て良い点を取っておかないと幹候の試験に落されたらしい。鶴岡一人や川上哲治のように将校となって、内地で多くの部下を率いていたら、のち監督として違った面が出たのでは、といわれる。第五師団は熊本の第六師団と並び、勇猛な師団として知られ中国軍にも鳴り響き、第五師団が移動して、あとに第八師団が駐屯すると、その夜中国軍が夜襲をかけて来た、という逸話が残る。第五師団の進撃と共に藤村も移動。1939年9月、まず1ヶ月で二万人の日本軍の死傷者を出したノモンハンに向かうが、行く途中で停戦になり一度唐津に戻るも本土上陸はせず、そのまま海南島を経て、南寧作戦に向かった。この戦闘以降常に最前線に立ち何度も死にかけている。しかし強運により死ななかった。中国華南では谷に転落、左大腿部に重傷を負い切断が必要と言われたが、イチかバチかの手術で切断は免れた。この後マレー作戦に参加。1941年クアラルンプール近郊のジャングルでの戦闘では、英国軍に至近弾を浴びた。戦友の肉片が顔じゅうにかかったがこれも凌ぎ、シンガポール戦線でも戦友が砲弾の直撃を受け内臓をさらけ出して死んだ。藤村はその戦友の左腕をナイフで切り落し、三角巾で巻いて首から吊るし、戦争が終わったらそれを遺骨にして遺族に送った。この1942年2月14日の戦闘では、英国軍の白旗を最初に発見。「英国降伏の第一報を山下奉文らの司令部に送ったのはワシや」と誇っていたと言う。停戦1分前に撃たれて死んだ者もいた。シンガポール陥落の後、輸送船でジャワ島からニューギニアに向かう途中、バンダ海で潜水艦に撃沈されるという事態に遭遇したが、これもフカがいっぱいの海を半日泳いで助かった。この話を子供や孫達にマッチ箱などを使ってよく自慢して話していたという。
- 1943年2月に内地帰還の命令を受け、スラバヤ~シンガポール~下関ルートを半年がかりで無事帰還。すぐ除隊になり呉の実家に帰った。27歳だった。この時点で既に4年半を兵役に費やし終戦の年、更に半年の兵役。戦後プロ野球再開年には30歳になっていた。当時は30歳を過ぎるとロートルと見られていた。結局プロ野球選手として一番脂の乗り切ったほぼ7年間を兵役と戦時中の混乱に取られた。最初の兵役が終わった1943年、夏のシーズンから復帰するも34試合で2割2分、ホームラン0とブランクはいかんともし難く、プロ入り最悪の成績に終わった。しかし翌、1944年春には打棒が戻り、3割1分5厘でベストテン5位、打点25で打点王を獲得。夏のシーズンから若林忠志監督に本格的にサードへコンバートされた。これは人気選手のホットコーナー定着の先駆けを成すものだった。秋のシーズンは戦局悪化のため中止。このためこの年夏のシーズンは戦後最後のシーズンとなり、これを阪神はプロ野球最後の勝率8割台(8割1分8厘)で優勝を飾った。
- 1945年初頭の正月大会に出場。第3戦の5回に警戒警報が出て中止。この後再び広島の連隊に再召集された。同年4月、連隊は福岡県折尾(現・北九州市八幡西区)に移動。ここで本土決戦に備え塹壕掘りなどに従事。この為8月6日の広島原爆投下には遭わなかった。敗戦後は呉の実家に帰っていたが、進駐軍の雑役に駆り出され、人間魚雷「回天」の解体作業をやっていた。11月、球団から「スグカエレ」の電報が。再び野球をやれる喜びで体が震えた、という。
- 当初は2番を打つなど、打撃面では脇役だった藤村が、ホームランバッターになった理由は、戦中・戦後に地方遠征などで試合前に余興で行われたホームラン競争がきっかけと言われる。戦力の落ちたチームで、別当のあと声がかかりホームラン競争をやってるうちにコツを覚えたらしい。
- 赤バットの川上哲治、青バットの大下弘に対抗して物干し竿を使ったが、藤村に言わせれば色を塗るだけなら誰でも出来る、自分は他人の真似の出来無いバットを使おうと考えた。ゴルフのドライバーをヒントに運動具店に長尺バットを作らせた。このバットを振り切る為、当時はバーベルなんて無いので、漬物石を持ち上げ腕力を鍛え、女房の鏡台をストライクゾーンに見立てバットを振った。「これならボール球もホームランに出来るわい」とほくそ笑んだ。ONの時代まで、選手たちはバッグの中に七つ道具として、バスタオルに包んで軍手、牛骨、厚いガラス片を持っていた。バットのささくれや木目が裂けるのを防ぐ為、ロッカールームで軍手を着用し牛骨で擦って脂肪分を浸み込ませ、ガラス片で握り部分を削り微調整した。またバットはアンモニアで乾燥させるといいというので、いつも自宅の便所に10本近くぶら下げていた。当時は汲み取り式でアンモニア臭いっぱいだった。その浸み込んだバットでホームランを量産した。このバットの更に左手の小指を外して握り、外角高めの少々ボール気味の球でも手を出した。うかうかウエストも出来無かったらしい。
- 見せる野球、ショウマンシップに目覚めたのは『東京ブギウギ』の笠置シヅ子のレヴューを見てからとよく知られるところだが、お客さんを喜ばそうと、試合前の練習から曲芸のような捕球や打ち方をやって見せた。試合が公式戦でも紅白戦のようなオープン戦であろうとも手を抜くことはなく、土井垣らと内野のボール廻しを途中からボールを使わず、いかにも続けているかのように見せるシャドゥプレイでお客さんを沸かしたり、ホームランを打って両手を振ってダイヤモンド一周をしたり、砂煙を上げる猛烈スライディングをわざとしたり、内角のキツいところを突かれると大仰にひっくり返ったり、そういったサービス精神旺盛な姿勢が、球界初のレコード吹き込み『涙の乾杯』やテレビ出演に繋がった。また打撃だけではなく強肩を生かした華麗な三塁守備でも知られた。「V9巨人」の三塁手である長嶋茂雄も「藤村に憧れて三塁手になった」と公言している。つまりこの魅せる野球という姿勢が長嶋茂雄へ引き継がれ、プロ野球人気を今日まで永きに渡り持続するものにしたとも言えるだろう(長嶋が三塁手になった理由は実際には成長痛による遊撃手からのコンバートであり、ある場所では尊敬する選手は鶴岡一人とも答えており低迷時代の「西の阪神」へのリップサービスの可能性も有りうる。2006年、讀賣新聞に連載された「時代の証言者 長嶋茂雄」では、後楽園球場で見た藤村さんに憧れてサードになった、と長嶋自身がはっきり述べている。いずれにしても藤村を含めた数々の先人の影響が彼を生んだことは紛れも無い事実である)。
- 甲子園で「阿修羅の藤村」と表現されたように、赤鬼のような顔で審判にも文句を言いしばしストライクがボールになったらしい。更に1948年の対巨人戦で本塁に突入し、捕手・武宮敏明を体当たりして脳震盪させたプレーは、捕手への体当たり第1号といわれる。それまでは捕手が先にミットを構えたら走者は止まってアウトになっていた。
- どのポジションを守っても平均以上の守備をみせ、捕手以外の全ポジションを経験した。特に、投手、二塁手、右翼手、三塁手、一塁手では、1シーズン以上にわたりレギュラーを務めた。
- 1946年、復員後早々監督を兼任。クリーンアップに座り、打率.323をマークする傍ら、戦後の投手不足のため投手として登板。試合の後半、ピッチャーが四球を連発したりすると、じっとして守れなくなり、負け試合でもサードからウォーミングアップもろくにせずリリーフ登板。この年リリーフだけなら8勝0敗、トータル13勝2敗の成績を残している。また股の間から二塁走者を伺う奇抜な牽制で笑わせたり、実際に股の間から一塁へ牽制球を投げた。
- 左足のケガのため代打出場となった試合で本塁打を放ち、片足(いわゆるケンケン)でダイアモンドを一周した。
- 187安打、46本塁打、142打点と、打撃の主要三部門のシーズン日本記録を一気に更新した1949年には、川上哲治の有名な言葉(小鶴誠説あり)「ボールが止まって見えた」に対抗して「わしゃぁ、レフトスタンドがそこに見えたぞ」と吹いた。
- 1954年7月25日、審判に退場を宣告されたが、そのことを理解していなかった藤村が再び打席に立とうとしたため、乱闘が起こり、タイガースの没収試合となった。このため、藤村は出場停止となり、連続試合出場の記録が1014試合で途絶えた。
- 1955年4月7日、沼津球場での対大洋ホエールズ戦、7回二死の場面で四球を選び出塁すると、岸一郎監督は代走を告げた。しかし、藤村はこれに反発し、交代を拒否しようとした。この事件が岸監督更迭に大きく影響した。
- 1956年6月24日の対広島カープ戦、1点ビハインドの9回裏二死満塁で、兼任監督として三塁コーチャーズボックスに立っていた藤村は、審判に「代打わし」と告げて打席に入ると、長谷川良平から代打満塁逆転サヨナラ本塁打を放った。これが現役最後の本塁打となった。
- 1946年と1955年途中~1956年の兼任監督時代は打てる投手の時に「代打わし」と告げ逆に打てない投手の時に出ないというケースがあり同僚選手が高打率をマークすると「今に見ておれ!!」という態度をとっていた。それまでも数々のスタンドプレーを快く思わない選手も多く、打撃練習も一人長々やる、などの蓄積が、ナイン全体の反感を買い1957年に専任監督に棚上げされるという事態を招いてしまった。これが有名な藤村排斥事件である。
- 藤村排斥事件をスクープしたのはデイリースポーツだが、藤村は自身を排撃したデイリースポーツを終生憎んでいたといい実際引退してからデイリーの評論家にならなかった。
- こういった排斥運動などのイメージで監督としては無能だった、という評価が定着しているが、監督4シーズンで勝率5割8分3厘と決して悪いものではない。特に1957年は首位巨人と1.0ゲーム差、流感による主力選手の離脱がなければ優勝できたとも言われた。
- 監督を解任され、42歳で平選手にされた1958年は、先発は1試合のみ、7番ファーストで途中交代。結局26打数3安打、シングルヒットが3本の打率1割1分5厘で、生涯打率3割を保つため出場をやめた。引退の記者会見は、甲子園球場の食堂で行われた。阪神一筋の大選手に対する処遇としてはあまりに冷たいものだった。口が重い、怒りっぽい、むくれると、腫物を扱うように関係者・新聞記者達からも嫌われ、この後の評論家・解説者もうまくいかず。水原茂、浜崎真二ら他チームの大監督からは請われて、東映打撃コーチ時代は、大杉勝男の入団を促すなどの成果は挙げたものの1968年、野球界からは完全に離れ、藤村ファンという社長の経営する水道工事の会社に勤務した。この事について藤村自身は「野球だけしか出来ない人間と思われたくないから、野球界から完全に離れた」と言っていたが本心ではなかったと思われる。終生のライバルだった川上や鶴岡が、指導者としても大きな名声を得たのと比べると淋しい引退後だった。
- 田宮謙次郎は「巨人と違ってOBを大事にしないのも阪神の悪しき伝統。藤村さんあたりが球場に顔を出してもみな知らんぷりだったよ」と発言している。
- 東映打撃コーチ時代は、猛者揃いの東映選手も恐ろしい人が来る、と戦々恐々だったが、旅館で「ビールでもどうですか」と言ったら「ビールはいらん、それよりあんパンくれ」と言って回りを驚かせた。こういった事が糖尿病を悪化させ死期を早めたのでは、といわれる。
- 「巨人の星」に東映の二軍監督として出演(もちろん、声は本人ではない)、星飛雄馬の球質の軽さを見抜いてみせ、試合後にそれを知った星一徹を震え上がらせた。
- 豪放なイメージとは逆に、酒はまったく弱かった。監督としては選手との意志の疎通をしくじることが多かったが、「酒の飲める人だったら違っていたはずだ」の評もある。また大柄な親父というイメージがあるが、身長は173cmと決して大きくはなかった。ただいつも敵を目がけて飛びかかるように見えて、小山のように大きく見える人であった。
- 「新・必殺仕置人」の元締・虎役でも知られた。仕置をしくじった仕置人を物干し竿を一振りして折檻するシーンが、現役時代のフィルムとともに放送された。やや棒読みっぽい語り口であったが、劇中での堂々とした立ち居振る舞いは本職の役者にもなかなか出せない強烈な存在感を放っていた。
- 大阪タイガース創設と同時に入団したためタイガースの背番号10は藤村しか着用したことがない。
- 1950年の2リーグ分立によってタイガースの主力が大量に毎日オリオンズに引き抜かれた中で、「わしゃぁタイガースの藤村じゃ」という名言を残し、ひとりだけタイガースに残った。「出てったもんと、残ったもんと、どっちが勝つかはっきりさせようやないかい」という言葉も残るが、当人は日本シリーズに出場することはなく、この遺恨カードは2005年の日本シリーズで千葉ロッテマリーンズ戦としてようやく実現した。結果はタイガースの0勝4敗に終わった。ただし、オーナー企業としてみるならば厳密にはロッテは毎日の直系ではなく、大映ユニオンズの系譜である(毎日との合併時にオリオンズの愛称を引き継ぎ、ロッテも長くオリオンズの愛称を残したので毎日の系譜として扱われる)。
- 藤村が阪神引退時に進呈された西宮市の家は、1995年の阪神大震災により修復不可能となって現在は更地に。未亡人も仮設住宅に長く暮らされた。また入団時の契約金で建て直した呉の実家も、2001年の芸予地震で倒壊してしまった。
[編集] 略歴
- 1931年大正中学(後に呉港中学に改称)入学
- 1935年末、大阪タイガース入団
- 1946年監督代理を兼任。同年限りで監督代理を辞任
- 1950年兼任コーチに就任
- 1954年兼任助監督に就任
- 1955年途中から兼任監督に就任
- 1956年現役引退
- 1957年監督を辞任
- 1958年現役復帰。同年限りで現役引退
- 1963年国鉄スワローズコーチ就任。同年辞任
- 1964年東映フライヤーズコーチ就任
- 1965年コーチ辞任
- 1967年東映フライヤーズコーチ就任
- 1968年コーチ辞任
[編集] 受賞タイトル、表彰、記録
- 首位打者(1950)
- 本塁打王 3回(1936秋、1949、1953)
- 打点王 5回(1944、1947~1949、1953)
- 最多安打 2回(1949、1950)
- 最高殊勲選手(1949)
- ベストナイン三塁手 6回(1947~1952)
- サイクルヒット 2回(1948.10.2、1950.5.25)
- 連続試合満塁本塁打 2(1953.4.28~1953.4.29)日本記録
- 三塁手シーズン刺殺 209(1950)日本記録
- 三塁手シーズン補殺 484(1950)セ・リーグ記録
- 三塁手シーズン併殺 60(1950)セ・リーグ記録
- 三塁手シーズン守備機会 728(1950)日本記録
[編集] 年度別打撃成績
年度 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 | 長打率 | 所属 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1936(昭和11)年春 | 13 | 37 | 11 | 0 | 15 | 5 | 1 | 4 | 0 | 2 | .297 | .405 | 大阪 |
1936(昭和11)年秋 | 25 | 52 | 18 | 2 | 27 | 13 | 3 | 7 | 1 | 4 | .346 | .519 | |
1937(昭和12)年春 | 40 | 105 | 25 | 0 | 39 | 15 | 1 | 17 | 1 | 13 | .238 | .371 | |
1937(昭和12)年秋 | 40 | 126 | 40 | 0 | 56 | 16 | 1 | 8 | 2 | 7 | .317 | .444 | |
1938(昭和13)年春 | 35 | 146 | 44 | 0 | 63 | 20 | 4 | 15 | 1 | 4 | .301 | .432 | |
1938(昭和13)年秋 | 40 | 164 | 43 | 1 | 63 | 34 | 4 | 19 | 2 | 11 | .262 | .384 | |
1943(昭和18)年 | 34 | 124 | 25 | 0 | 31 | 11 | 2 | 14 | 0 | 8 | .202 | .250 | |
1944(昭和19)年 | 35 | 130 | 41 | 0 | 49 | 25 | 2 | 19 | 1 | 3 | .315 | .377 | |
1946(昭和21)年 | 96 | 375 | 121 | 5 | 191 | 69 | 11 | 48 | 1 | 22 | .323 | .509 | |
1947(昭和22)年 | 119 | 481 | 132 | 2 | 186 | 71 | 10 | 34 | 5 | 14 | .274 | .387 | |
1948(昭和23)年 | 140 | 572 | 166 | 13 | 269 | 108 | 15 | 31 | 4 | 28 | .290 | .470 | |
1949(昭和24)年 | 137 | 563 | 187 | 46 | 366 | 142 | 12 | 47 | 4 | 44 | .332 | .650 | |
1950(昭和25)年 | 140 | 527 | 191 | 39 | 355 | 146 | 21 | 100 | 1 | 36 | .362 | .674 | |
1951(昭和26)年 | 113 | 420 | 131 | 23 | 233 | 97 | 7 | 69 | 5 | 24 | .320 | .568 | |
1952(昭和27)年 | 120 | 475 | 149 | 20 | 240 | 95 | 5 | 59 | 3 | 44 | .314 | .505 | |
1953(昭和28)年 | 130 | 459 | 135 | 27 | 244 | 98 | 1 | 60 | 4 | 51 | .294 | .532 | |
1954(昭和29)年 | 114 | 422 | 115 | 21 | 193 | 78 | 2 | 32 | 4 | 43 | .273 | .457 | |
1955(昭和30)年 | 112 | 349 | 94 | 21 | 169 | 63 | 1 | 35 | 8 | 51 | .269 | .484 | |
1956(昭和31)年 | 51 | 105 | 23 | 4 | 39 | 19 | 0 | 9 | 2 | 9 | .219 | .371 | |
1958(昭和33)年 | 24 | 26 | 3 | 0 | 3 | 1 | 0 | 4 | 0 | 6 | .115 | .115 | |
通算 | 1558 | 5648 | 1694 | 224 | 2831 | 1126 | 103 | 631 | 49 | 424 | .300 | .501 |
[編集] 通算投手成績
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
1946年 | 昭和21年 | 3位 | 105 | 59 | 46 | 0 | .562 | 7.0 | 28 | .288 | 3.23 | 30歳 | 大阪 |
1955年 | 昭和30年 | 3位 | 130 | 71 | 57 | 2 | .555 | 20.5 | 51 | .251 | 2.49 | 39歳 | |
1956年 | 昭和31年 | 2位 | 130 | 79 | 50 | 1 | .612 | 4.5 | 54 | .224 | 1.77 | 40歳 | |
1957年 | 昭和32年 | 2位 | 130 | 73 | 54 | 3 | .573 | 1.0 | 68 | .240 | 2.38 | 41歳 | |
通算 | 462 | 266 | 190 | 6 | .583 |
※1955年は5月21日からシーズン終了まで指揮をとった。5月21日以前の試合結果については、1955年の成績には含め、通算成績には含めない。
[編集] 著作・参考文献
- 真虎伝(1996年12月20日 南萬満著 新評論)
- 猛虎の群像 そして星野(2003年3月18日 政岡基則 デイリースポーツ社)
[編集] 背番号
[編集] 関連項目
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- ※カッコ内は監督在任期間。