アルノルト・ロゼ
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アルノルト・ヨーゼフ・ロゼ(Arnold Josef Rosé, 1863年10月24日:ヤシ- 1946年8月25日:ロンドン)はルーマニア出身でオーストリアで活躍したユダヤ系ヴァイオリニストで、アルマ・ロゼ Alma Rosé の父。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを57年に渡って務め(65歳で定年となる現在ではこの記録が破られることはない)、ロゼ四重奏団を主宰した。日本ではしばしば「ロゼー」と表記される。
[編集] 生涯
モルダヴィアのヤシにローゼンブルーム Rosenblum として生まれる。7歳の頃から音楽教育を受ける。その才能がウィーンの名教師であったカール・ハイスラーの目に留まり、10歳の時にウィーン国立音楽院への入学を許される。
1881年にはウィーン宮廷歌劇場のコンサートマスターに就任、同時にウィーン・フィルのコンサートマスターも兼ね、また弦楽四重奏団を組織した。1890年11月11日には、四重奏団でブラームスの弦楽五重奏曲第2番を初演した。1902年3月11日(10日とする資料もある)にマーラーの妹・ユスティーネと結婚。1909年から1924年まではウィーン音楽アカデミーの教授も勤めた。
しかし、ナチの台頭とオーストリア併合はロゼの立場を一気に激変させた。オーストリア併合後、ロゼは直ちにコンサートマスターの地位を追われ国外追放処分を受け、ロンドンに逃れた。娘のアルマはゲシュタポに逮捕され、アウシュビッツで悲劇的な死を遂げた。ロゼはナチ第三帝国の崩壊をロンドンで見届け亡くなった。
ウジェーヌ・イザイ曰く、「ロゼがソリストとして躍進を遂げなかった事は、他の全てのヴァイオリニストにとっては幸運であった」とあるように、ロゼはコンサートマスターとしての力量もさることながら、ソリストとして独り立ちしていたならば、世界有数のヴァイオリニストになっていた可能性もある。しかし、実際にはソリストとしての道もありながら、最終的にはソリストとしての可能性を自ら捨て、世界最高峰のオーケストラと四重奏団のトップとしてその座に君臨し続けた(ただし歴史に翻弄されて、生涯その地位を全うすることは叶わなかった)。
[編集] 演奏スタイル、録音etc
ロゼはレコード技術が十分発達しない時期としては、小品ばかりそれなりのレコードの枚数を録音している。しかし、それらのレコードは音質等の面でロゼの芸術を正しく伝えているとは言えない(レコードの中には、録音技師の声が混入しているものもある)。従って、残されている録音からロゼの演奏スタイルを論じるのはやや無謀である。なお、ロゼの録音はソロとロゼ四重奏団でのものがほとんどだが、他にウィーン・フィルを指揮したレコードが残されている(1934年、ベートーヴェンの「アテネの廃墟」序曲)。
ロゼの演奏スタイルは、ヴィブラートを抑制しつつ絹のように繊細な音色と高度なボーイング技術によって、まさに高潔といえる演奏を成し遂げている。ヴィブラートの使用に関しては、同じウィーンの大ヴァイオリニストであるフリッツ・クライスラーとは対極にあり、音色を汚さないため多用することを避けている(これは当時のウィーン・フィルの弦楽器群の特色でもある)。ウィーン・フィルの楽団長だったオットー・シュトラッサーは入団試験の際、ある曲でヴィブラートをたっぷりかけて歌わせた時、「そんなにヴァイオリンを啼かせるものではない」と審査員のロゼに言われたという。
ロゼはブラームスからワインガルトナー、トスカニーニまでの指揮を経験し、コンサートマスターとしてのエピソードも事欠かないが、一番大きなものはウィーン・フィルの入団試験にやってきたフリッツ・クライスラーを「音楽的に粗野」「初見演奏が不得手」という理由で落としたことであろう。