ウィリアムズF1
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エントリー名 | AT&T Williams |
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チーム国籍 | イギリス |
チーム本拠地 | 英国オックスフォード州グローヴ |
チーム代表者 | フランク・ウィリアムズ, パトリック・ヘッド |
テクニカルディレクター | サム・マイケル |
ドライバー | 16. ニコ・ロズベルグ 17. アレクサンダー・ヴルツ |
テストドライバー | ナレイン・カーティケヤン 中嶋一貴 |
シャシー | ウィリアムズFW29 |
エンジン | トヨタRVX-07 |
タイヤ | ブリヂストン |
参戦年度 | 1975 - |
出走回数 | 533 |
コンストラクターズタイトル | 9 (1980, 1981, 1986, 1987, 1992, 1993, 1994, 1996, 1997) |
ドライバーズタイトル | 7 (1980, 1982, 1987, 1992, 1993, 1996, 1997) |
優勝回数 | 113 |
通算獲得ポイント | 2500.5 |
表彰台(3位以内)回数 | 293 |
ポールポジション | 125 |
ファステストラップ | 129 |
F1デビュー戦 | 1975年アルゼンチンGP |
初勝利 | 1979年イギリスGP |
2006年順位 | 8位 (11ポイント) |
(記録は2006年第18戦終了時) | |
ウィリアムズF1(ウィリアムズ・エフワン、Williams F1)は、イギリスに本拠地を置くF1のレーシング・チームで、1977年にフランク・ウィリアムズとパトリック・ヘッドにより設立された。正式にはウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング(Williams Grand Prix Engineering)という。
目次 |
[編集] 概要
1970年代に誕生したコンストラクターとしては最も成功を収め、過去にドライバーズタイトル7回、コンストラクターズタイトル9回(2006年時点)を獲得している。フェラーリ、マクラーレン、ルノーと並んでF1の四強と呼ばれている。
チームの特色は「頑固なエンジニア集団」と表現される。車作りは保守的で、ターボエンジンやカーボンファイバーモノコックの導入は遅い部類に入るが、地道な開発で物にするや圧倒的な強さをみせることが多い。1990年代前半にはR&D能力を活かし、アクティブサスペンションなどのハイテク競争をリードした。また、新人ドライバーに技術知識テストを行うのがユニークで、過去最高点者はニコ・ロズベルグ、最低はジェンソン・バトンであった。
「チーム(マシン)が主役、ドライバーは助演者」という理念から、ドライバーはスター選手よりいぶし銀タイプを好む傾向がある(チーム首脳陣はアラン・ジョーンズを理想に挙げている)。コンストラクターズタイトルへの貢献を第一とするが、チーム内に明確な序列を設けず、「チャンピオンは独力で勝ち取れ」という方針を示している。そのため、チームのサポート不足でチャンピオンになれなかったり、契約金の渋さから離脱するドライバーもいた。また、チャンピオンを獲得しても待遇に不満を感じ、カーナンバー1と共に移籍してしまうケースがあった。
チーム運営も頑なで、独立系コンストラクターとしての伝統を守っている。外部からの干渉を嫌うため、エンジン供給メーカーとのパートナーシップが決裂したこともあった。時代の趨勢に抗い自動車メーカーの傘下に収まることを拒んでいるが、その代償に戦力・資金力とも凋落傾向にある。
[編集] チームの歴史
[編集] 設立の経緯
フランク・ウィリアムズは1966年からウィリアムズ・レーシングを設立してモータースポーツ活動を行っており、ブラバムやマーチのシャシーを購入してF1にも参戦していた。デ・トマソからも援助を受けており、時折、健闘ぶりを見せた。しかしチームの予算は限られており、フランク自身も破産寸前にまで追い込まれ、1976年にはウルフに事実上チームを売却した。この直後に、パトリック・ヘッドを引き連れて共同設立したのが現在のウィリアムズである。ただし、現在まで続くFWという型式番号は、旧ウィリアムズ時代の1973年にさかのぼる(この年にFW01が製作された)。
パトリック・ヘッドの加入とともに、ウィリアムズはそれまでのテールエンダーから上位チームへと変貌を遂げる。1978年に登場させたFW06は、当時トレンドとなり始めていたグランドエフェクトカーではなくコンサバティブなデザインとしたが、多くのチームがグランドエフェクトカーの調整に苦しむ中で上位を走っていった。そして翌年に、グランドエフェクト理論をしっかり理解した上で開発されたFW07で、ウィリアムズは黄金期を迎える。運営面でもサウジアラビア航空というスポンサーを獲得し、長年の資金難から脱した。フランクは営業活動でサウジアラビアの王室へマシンを運び込み、「このマシンにあなた方の企業名が付いて走ります」と口説いたという。
[編集] 第1次黄金期
1979年第9戦イギリスGPでクレイ・レガッツォーニがチーム初勝利を挙げ、FW07はシーズン後半戦の最速マシンとなった。そして、1980年には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともに、アラン・ジョーンズを世界チャンピオンへと導いた。
また、翌1981年にはジョーンズとカルロス・ロイテマンにより2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、ブラバムのネルソン・ピケに最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。
1982年は、ターボエンジン全盛時代において出力的に劣るノン・ターボエンジンの搭載を継続したが、熟成されたマシンはバランスの良さから快走。堅実にポイントを積み重ねたケケ・ロズベルグをわずか1勝で年間チャンピオンに押し上げた。このマシンは、もともとはリヤを4輪にした6輪車として設計されテストもされたが、レギュレーション変更による6輪車の禁止により、4輪に再設計した。このため結果的にホイールベースが短くなり、コーナリング性能に優れたマシンになったのがチャンピオン獲得の原動力となったといえる。
1983年終わりにはそれまでスピリットが搭載していたホンダエンジンを獲得する。ウィリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。1985年にはホンダが全面的に設計を見直した新エンジンを投入したが、それにより逆にマシンのサスペンションジオメトリーのアンバランスさが表面化し、一発の速さはあるもののタイヤがすぐに磨耗してしまうため決勝では苦戦を強いられる。しかしシーズン終盤にはサスペンションを改善したマシンを投入し、シーズン最後に3連勝を飾った。
[編集] 第2次黄金期
最強エンジンに仕上がったホンダエンジンを武器に、1986年、1987年に計18勝を挙げ、連続してコンストラクターズタイトルを獲得する。しかし、1986年の交通事故によりフランク・ウィリアムズが半身不随となってしまい、チームを離脱している間にネルソン・ピケ派とナイジェル・マンセル派の諍いが生じてしまった(技術面で貢献するピケをホンダが支持し、自国ドライバーのマンセルをチームが支持したと言われる)。両ドライバーの確執の為、1986年はマクラーレンのアラン・プロストにドライバーズチャンピオンを奪われ、1987年はピケがチャンピオンを獲得するがこのシーズン限りでロータスに移籍してしまう。また、ホンダも運営に不満を持ち、翌年以降マクラーレンと契約を結んで去っていった。コース上では最速を誇ったものの、短期間に多くのものが失われる幕切れとなった。
[編集] 第3次黄金期
翌1988年は、前年までのパートナーだったホンダがマクラーレンへエンジン供給契約を結んだ結果、ジャッドエンジンを搭載したが「ウィリアムズがジャッドエンジンを使用するにあたってホンダがジャッドとウィリアムズへ資金援助をしているのではないか」と噂になった。ホンダはこれを否定したが、後に「エンジン供給契約を打切った見返りとしてジャッドエンジン供給にあたり資金援助をした」と公式に認めた。
ただしジャッドエンジンそのものに大きな戦闘力が無く、前年末から投入したアクティブサスペンションもチームが期待したほどの成果を挙げる事が出来ず、シーズン中盤のイギリスGPでは突貫工事でノーマルサスペンションへ変更せざるを得なかった。優勝は無く、表彰台に上がったのもイギリスとスペインの2レースでマンセルが2位になった2回だけであった。シーズン途中には1989年からルノーエンジンを獲得を発表した。しかしオイルスポンサーであったモービル社との契約がシーズン終了まで残っていた関係でルノー指定のエルフ社のオイルとガソリンをレギュラーシーズン中はテストであっても使用出来ずにいた。
1989年と1990年はチャンピオン争いに加わる事が無かったが、ルノーと良好な関係を築き、マシンとエンジンの共同開発路線を整えた。地味なドライバーコンビも健闘し、ティエリー・ブーツェンが1989年カナダGPで遅咲きの初優勝を達成。1990年にはリカルド・パトレーゼがサンマリノGPで久々の優勝をし、ブーツェンもハンガリーGPでポール・トゥ・ウィンを果たした。また、チームは1990年の途中でレイトンハウスから鬼才エイドリアン・ニューウェイを迎え入れた。前衛的な空力設計者ニューウェイと、堅実なヘッドというデザイナーの異なる個性が融合した「ウィリアムズFW14」は、翌年から王者マクラーレンの牙城を脅かし始める。
1991年は信頼性不足や不運などで惜しくもタイトルを逃すが、翌1992年はアクティブサスペンション(商標の関係から当時チームでは「リアクティブサスペンション」と称していた)を搭載した改良型「ウィリアムズFW14B」が10勝を挙げ、無冠の帝王と呼ばれていたマンセルとともにダブルタイトルを獲得する。しかし、マンセルとは契約金について合意に達することができなかっただけでなく、既にウィリアムズ入りが決定していた不仲のプロストとの待遇の差もあり、交渉は決裂。マンセルはシーズン中に記者会見を開きチーム離脱を宣言。イギリス国内からの非難に慌てたウィリアムズ側が引き留めにかかったが、時既に遅く、マンセルは翌年インディ参戦の為渡米してしまう。
そこで1993年は、プロストのチームメイトにテストドライバーであったデイモン・ヒルを抜擢する。前年チャンピオン不在のためカーナンバーは「0」と「2」となるが、プロストは無能を意味する「0」を嫌がり「2」を選ぶ。既にプロストはキャリアの下り坂に差し掛かっていたこともあり、精彩を欠いたレースをすることもあったが、当時最強のハイテクマシン「ウィリアムズFW15C」の助けもあり、2年連続のダブルタイトルを獲得する。この年のマシンはあまりの高度ハイテク装備から一部メディアから「実物大ラジコンカー」とまで言われた。
1994年は引退したプロストの代わりに、当時最強のドライバーであったアイルトン・セナを迎える。そして前年までのキヤノンに代わりロスマンズをメインスポンサーとし、カラーリングも一新する。最強のドライバーと最強のマシンの組み合わせであり、シーズン開幕前からチャンピオンは決定してしまっていると言われた。この年ハイテクが禁止されたため、パッシブカーとしてデザインされた「ウィリアムズFW16」はリアサスペンションをカバーで覆うという、空力的に洗練された意欲作であった。なお、キヤノンのメインスポンサー撤退については、スポンサー料の大幅な増額を要求した為とも、相談も無くメインスポンサーを変更した為とも聞かれるが、いずれにしてもスポンサー継続の意向があった同社に対してウィリアムズ側が怒りを買ったことが原因とみられる。
開幕戦ブラジルGP、第2戦パシフィックGPと立て続けにセナがポールポジションを獲得するが、過敏なマシンにより1戦目はスピン、2戦目はアクシデントに巻き込まれてしまう。迎えた第3戦もポールポジションを獲得する。
このチームの最も暗い時間は、おそらくこの年のイモラでのサンマリノGPのあった週末である。スタート直後の事故によりセーフティカーが入るが、再スタート明けのタンブレロ・コーナーでセナのマシンはコーナーを直進しコンクリートウォールに激突してしまう。レースは赤旗中断となり、チーム関係者などが沈痛な表情を見せる中、セナはヘリコプターで病院まで搬送されるが帰らぬ人となってしまう。この事故以降、ウィリアムズのマシンにはセナのSマークが刻まれている。
期せずしてナンバーワンに昇格したヒルのチームメイトには、テストドライバーのデビッド・クルサードを昇格させた。シーズン当初はベネトンのミハエル・シューマッハに独走を許すが、彼が失格や出場停止となったレースで確実に勝利を収め、ドライバーズタイトル決定は最終戦オーストラリアGPにもつれ込む。コーナーを飛び出しふらついていたシューマッハをヒルは抜きにかかるが、強引なブロックにより両者接触リタイヤし、タイトルはシューマッハのものとなる。しかし、CARTの日程と重複しない、フランスGP・ヨーロッパGP・日本GP・オーストラリアGPに参戦したマンセルの働きもありコンストラクターズタイトルを死守する。
翌1995年はウィリアムズとして初めてのハイノーズマシン「ウィリアムズFW17」と投入する。しかし、ライバルであるベネトンが同じルノーエンジンを搭載したこともあり、改良型「ウィリアムズFW17B」を投入するが両タイトルを奪われてしまう。予選の速さにおいてはベネトンを上回っていたが、チームの戦略ミスと両ドライバーのミス、シーズン序盤のマシンの信頼性などでことごとくチャンスを潰してしまった事が敗因。
1996年はマクラーレンに移籍したクルサードに代わりインディ・チャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴをアメリカから呼び寄せる。前年からテストを十分行ってきたこともあり、ヴィルヌーヴはデビュー戦からポールポジションを獲得する。レースもリードするがギアボックスのトラブルにより2位に甘んじる。この年は前年のチャンピオンであるシューマッハが当時低迷していたフェラーリに移籍したため、ウィリアムズの二人のドライバーがタイトルを争う。ヒルは先輩格の意地を見せ、日本グランプリで念願のチャンピオンを獲得する。しかし、チームはチャンピオンを獲得したヒルに対し、翌年は契約しないことを通告。その代わりにザウバーよりハインツ=ハラルト・フレンツェンが加入することとなった。
迎えた1997年シーズンは、ヴィルヌーヴとフェラーリのシューマッハの激しいチャンピオン争いとなり、最終戦ヨーロッパGPまでもつれこんだが、シューマッハが追い越しをかけたヴィルヌーヴと接触しリタイアという意外な結果により、ヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得する。このシーズン末をもってルノーエンジンはF1から撤退し、9年間に渡る蜜月関係にピリオドが打たれた。
1998年と1999年はスポンサーがロスマンズからウインフィールドブランドになり、同チームでは珍しい赤いマシンカラーとなった。ルノーのカスタマー仕様エンジン(それぞれメカクローム・スーパーテックと呼ばれた)を使用し、1999年に加入したラルフ・シューマッハが健闘したもののスーパーテックエンジンの戦闘力不足もあり、優勝戦線からは遠ざかった。
[編集] BMW時代
2000年シーズンからは、F1に復帰したBMWとエンジン使用と技術協力の長期の契約(2009年まで)を結び、登録名はBMWウィリアムズF1(BMW WilliamsF1)となる。2001年には同じく復帰したミシュランタイヤと組み、率先してタバコスポンサー離れを宣言するなど独自の活動を進めた。2004年にかけてはフェラーリの黄金時代と重なったためタイトルは獲得できなかったが、公称1000馬力のBMWパワーで10勝(ファン・パブロ・モントーヤ4勝、ラルフ6勝)を挙げる。2003年にはミシュランとのマッチングで快走し、フェラーリとシューマッハをあと一歩まで追い込んだ。
しかし、2004年は一転して特異なハイノーズ(通称「セイウチノーズ」)が失敗し、1勝に止まった。2005年シーズンはモントーヤがマクラーレン、ラルフがトヨタへ移籍したことを受け、ジャガーよりマーク・ウェバー、ジョーダンよりニック・ハイドフェルドがレギュラードライバーとして加入することとなったが、前年から続いてのシャシー設計(特に空力部門)の失敗とBMWとの不和から成績が低迷し、ついに2000年シーズン以来の未勝利、1999年以来のコンストラクターズ順位トップ4からの陥落(5位)という不本意なシーズンを送ることとなった。
また、この2年に渡りB・A・Rとの間で争われたジェンソン・バトンの契約問題(通称「バトン・ゲート」)は、元所属ドライバーが復帰を拒むという結末になり、名門ウィリアムズの地位低下が浮き彫りになった。
[編集] 再びプライベーターへ
成績の低迷とシャシーを含めたフルメーカー参戦したいBMWの意向などからBMWとの間に確執が生まれ、BMWはザウバーチームを買収してコンストラクターとして参戦することを決意。結果としてウィリアムズとの長期契約は2005年限りで打ち切りとなった。
BMWエンジンを失ったウィリアムズは代替のエンジンを求め、トヨタやホンダとの交渉が噂されていたが、どれも実現には至らなかった。V8・2400ccエンジンへ変更となる2006年については結局、コスワースからエンジンが供給されることになり、昨今の自動車メーカのワークス化というF1界の潮流に逆らうように、「プライベーター」として参戦することとなった。また、タイヤについてもミシュランからブリヂストンへ変更されることになった。
ドライバーについては、マーク・ウェバーが残留し、そのパートナーには、ニック・ハイドフェルドが新生BMWチームへ移籍した為、11月3日にかつてウィリアムズでチャンピオンを獲得したケケ・ロズベルグの息子である、ニコ・ロズベルグの起用を発表した。また、3rdドライバーとして、前マクラーレンのアレクサンダー・ヴルツを起用することとなった。
しかし、ワークスエンジンを搭載していた他のチームには遠く及ばず、コスワースエンジンも全くの不振で、結局コンストラクターズランキング8位という、チームが現体制になって以来最悪のシーズンとなった。
2007年はチーム名の「F1」の部分を外すことになり、トヨタと2009年までのエンジン供給の契約を、AT&Tとメインスポンサー契約を交わした。更にドライバーラインナップも発表され、ニコ・ロズベルグが残留。パートナーは3rdドライバーのヴルツがレースドライバーに昇格、テストドライバーにはナレイン・カーティケヤンが残留し、さらに中嶋悟の息子である中嶋一貴が起用されることになった。ヴルツは2000年以来のレースドライバーとなる。なお、ウィリアムズは3rdドライバーは起用しない方針を明らかにしている。
[編集] 新人の登竜門
技術的には保守的といわれているウィリアムズだが、ドライバーに関しては、ミナルディやジョーダンほどではないが、新人ドライバーを起用することがある。この傾向は新人を自分のチームでF1デビューさせることはめったにないフェラーリ、マクラーレンとは大きく異なる。1990年代以降でこのチームからデビューしたドライバーとして上げられるのは、一番有名なのはデビュー戦の1996年の開幕戦でいきなりポールをとったCART(現・チャンプカー)出身のジャック・ヴィルヌーヴがあげられる。その他にも、ヴィルヌーヴと同じCART出身のファン・パブロ・モントーヤ、デビット・クルサード、ジェンソン・バトン、そして2006年にこのチームでF1デビューしたニコ・ロズベルグがいる。
また、アイルトン・セナにおいては、イギリスF3参戦中の1983年にテストをさせており、早くからセナの才能に目をつけていた(実際にドライバー契約を結んだのは、それから11年もの後のこと)。
[編集] ウィリアムズでドライバーズタイトルを獲得したドライバー
- アラン・ジョーンズ(1980年)- 翌年もチームに残留。
- ケケ・ロズベルグ(1982年)- 翌年もチームに残留。
- ネルソン・ピケ(1987年)- 翌年はロータスに移籍。
- ナイジェル・マンセル(1992年) - その年をもってF1から引退(後に一時的に復帰)。
- アラン・プロスト(1993年)- その年をもってF1から引退。
- デイモン・ヒル(1996年) - 翌年はアロウズに移籍。
- ジャック・ヴィルヌーヴ(1997年)- 翌年もチームに残留。
チャンピオンと言えどもドライバーの確保には執着しないため、ドライバーズタイトルを獲得したドライバーの内、過半数をその年限りで失っている。また、年俸の交渉などで揉めることがあるとすぐに放出することでもF1ファンの間で有名である。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
2007年のF1世界選手権を戦うチームと出走ドライバー | |||||||||||||
マクラーレン | ルノー | フェラーリ | ホンダ | BMWザウバー | トヨタ | ||||||||
1 | アロンソ | 3 | フィジケラ | 5 | マッサ | 7 | バトン | 9 | ハイドフェルト | 11 | シューマッハ | ||
2 | ハミルトン | 4 | コヴァライネン | 6 | ライコネン | 8 | バリチェロ | 10 | クビサ | 12 | トゥルーリ | ||
レッドブル | ウィリアムズ | トロ・ロッソ | スパイカー | スーパーアグリ | |||||||||
14 | クルサード | 16 | ロズベルグ | 18 | リウッツィ | 20 | スーティル | 22 | 佐藤 | ||||
15 | ウェバー | 17 | ヴルツ | 19 | スピード | 21 | アルバース | 23 | デビッドソン |