ミカ・ハッキネン
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F1での経歴 | |
国籍 | フィンランド |
活動年数 | 1991 - 2001 |
所属チーム | ロータス, マクラーレン |
出走回数 | 161 |
タイトル | 2(1998,1999) |
優勝回数 | 20 |
通算獲得ポイント | 420 |
表彰台(3位以内)回数 | 51 |
ポールポジション | 26 |
ファステストラップ | 25 |
F1デビュー戦 | 1991年アメリカGP |
初勝利 | 1997年ヨーロッパGP |
最終勝利 | 2001年アメリカGP |
最終戦 | 2001年日本GP |
ミカ・パウリ・ハッキネン(Mika Pauli Häkkinen, 1968年9月28日 - )はフィンランド出身のレーシング・ドライバーで、2度F1のドライバーズタイトルを獲得しており、歴代のフィンランド人トップドライバー同様、「フライング・フィン」と形容されている。
非常に日本人受けするタイプの金髪碧眼のハンサムで、日本では「北欧の貴公子」、「白夜の国の王子様」などの美称でも呼ばれた。また、当時のロータスが日本企業との関係を深めていたこともあり、デビュー当時からインタビューなどの形で日本で取り上げられることも多く、その走りとナイスガイな人柄は多くの男性ファンにも愛され、F1雑誌『AS+F』の人気投票で1992年から引退する2001年まで10年連続で1位を獲得したほどの人気がある。
また非常に恐妻家としても知られており、マクラーレン在籍時にピットでモニターをにらむ妻・イリヤの姿はF1名物として有名であったほか、欧州で放送されるメルセデス・ベンツのテレビCMでも「イリヤの尻に敷かれるハッキネン」という設定のものがよく見られた。
目次 |
[編集] プロフィール
フィンランドのヴァンター(Vantaa)に生まれ、多くのチャンピオンたちがそうであったように、5歳からカートレースを始める。カートの国内チャンピオン等のタイトルを獲得し、フォーミュラレースに転向。
[編集] F1デビュー前
1990年には同じ町内の生まれで幼い頃からのライバルであるミカ・サロとの熾烈なタイトル争い(これはミカ・ミカ対決と呼ばれた)の末にイギリスF3チャンピオンとなった。その年、F3の世界王者決定戦ともいえるマカオGPに参戦。第1レグでは圧倒的なタイム差で勝利。しかし続く第2レグでは、ドイツF3チャンピオン、ミハエル・シューマッハにわずかながら先行される。この周回で付かず離れずの2位を維持すれば総合優勝であるにもかかわらず、最終ラップでトップを走るM・シューマッハを抜きにかかり、両者接触してしまってリタイアとなった。一方のM・シューマッハは優勝し、両者明暗を分けた。翌週に日本(富士)で行われた「インターナショナルF3レース」でもM・シューマッハが優勝してハッキネンはリタイアでF3のレースを終えた。
[編集] F1デビュー
同郷で1982年のF1チャンピオンであるケケ・ロズベルグのマネージメントで翌1991年、ロータスからF1デビューを果たす。デビュー戦アメリカGPは走行中にステアリングホイールが外れるトラブルに見舞われるが、第3戦サンマリノGPでは見事5位入賞を果たす。しかし、当時のロータスチームは前年までのタイトルスポンサーのキャメルを失うなど資金難の為、基本設計が3年前から変わっていないマシンで参戦していた。この為、ハッキネンは奮闘していたが、それが精一杯の結果であった。
1992年はレギュラードライバーとなったジョニー・ハーバートをチームメイトとして迎える。このコンビは公私ともによい関係で、お互い良い成績を収めることができた。この年のマシン「ロータス107」はクリス・マーフィーがデザインしたもので、セミ・アクティブ・サスペンションを搭載し(実際にはアクティブサスのスイッチは切っていることが多かったが)、ハンドリングが良好であった。この年の活躍でハッキネンに名門マクラーレンからオファーが入る。
[編集] 名門チーム移籍も苦戦の日々
1993年は既にマイケル・アンドレッティがマクラーレンのドライバーに決定していたが、アイルトン・セナが残留するかどうかは不確定であった。ハッキネンはセナがチームを去ると賭け、マクラーレンと契約する。しかし、結果的にセナは残留し、ハッキネンはテストドライバーとしてシーズンを過ごすこととなる。その憂さを晴らすようにF1の前座レースとして開催されていたポルシェカップに参戦し、格の違う速さで勝利を重ねた。そして、レギュラードライバーのアンドレッティが、成績不振及びレース環境の違いに馴染めなかったことからアメリカに帰国することとなった為、代役として第14戦ポルトガルGPから実戦復帰した。復帰初戦にいきなりエースのセナを予選で上回り、強烈な印象を与えた。そして次戦日本GPでは3位に入り、初の表彰台に立つ。
ハッキネンがエースドライバーとなった後のマクラーレンは、3シーズンの間勝利から見放されるなど、選手権では中位の成績に甘んじており、ハッキネン自身も1995年オーストラリアGP予選では瀕死の重傷を負うクラッシュに見舞われるなど、苦境に陥ったこともあった。このクラッシュで入院中に献身的に看病をしてくれた同郷の恋人のイリヤ・ホンカネンと1998年に結婚をする。
マクラーレンは、1995年よりメルセデスエンジンを搭載し、またウィリアムズをチャンピオンに導いた功労者であるエイドリアン・ニューウェイをチームに迎えるなど、着々とチーム強化を果たしていた。
その努力が実を結びだした1997年、ハッキネンはルクセンブルクGPでF1参戦97戦目で初ポールポジションを獲得するも、同僚のデビッド・クルサード共々トップ快走中、その年に度々泣かされ続けて来たメルセデスエンジンのトラブルでリタイアし、ファンを嘆かせた。しかし、最終戦ヨーロッパGPではファイナルラップで99戦目にしての悲願の初優勝を果たした。
[編集] そしてチャンピオンへ
そして1998年、ハッキネンの才能が一気に開花することとなる。開幕戦オーストラリアGPと第2戦ブラジルGPではチームメイトのデビッド・クルサードと共に、他チームのマシンに圧倒的な差をつける力強い走りを披露して開幕2連勝を果たした。特にオーストラリアGPでは、クルサードと2人で3位以下の全てのマシンを周回遅れにするほどの圧勝であった。その後、シーズンが進むにつれて、宿敵ミハエル・シューマッハの執拗な追い上げを受けることとなるが、第15戦ルクセンブルクGP、第16戦日本GPと鬼神の如き走りを見せ、見事に初のワールドチャンピオンを獲得した。尚、このタイトル獲得にはこの年よりマクラーレンが装着していたブリヂストンタイヤの戦闘力も大きく寄与していた。
翌1999年には、マシンの信頼性不足やチームメイトとの同士討ち、そして何よりミハエル・シューマッハがイギリスGPでクラッシュして欠場したことの影響もあったか、前年に比べやや勢いを欠いた戦いとなった。しかし、最終的にはフェラーリのエディ・アーバインを振り切り、2年連続でドライバーズタイトルを獲得した。
2000年には、シーズン中盤までにミハエル・シューマッハに最大24ポイント差をつけられたが、シューマッハの中盤戦での連続リタイアもあり、終盤戦を迎えるまでに一旦は逆転を果たすという熾烈な争いを繰り広げた。しかし、ポイントリードで迎えた第15戦アメリカGPで痛恨のエンジントラブルが起きるなど、惜しくもファン・マヌエル・ファンジオ以来の3年連続のチャンピオン獲得はならなかった。
[編集] 早すぎる引退劇へ
2001年は、開幕オーストラリアGPでのクラッシュ(後にハッキネンがF1引退を考えるきっかけとなったと告白)や、第5戦スペインGPでトップを快走中に突然ファイナルラップにストップしたり、度重なるマシントラブルや不運により、第2戦ブラジルGPと第6戦オーストリアGPと第10戦フランスGPではまともに走れずにリタイアをしてしまうなど、精彩を欠いたシーズンとなってしまう。それでもイギリスGPやアメリカGPの様に「ツボ」にはまった時には手のつけられない速さを見せた。
こうした苦戦の連続や、何よりレースとプロモーションに追われる生活に疲れを感じたことから、ハッキネン自身は引退の意思を固めていたといわれるが、ロン・デニスの説得もあり、イタリアGP開催期間中に、翌2002年シーズンを休養することを発表。同郷のキミ・ライコネンにシートを譲ることとなった。
しかし、1年をすごした後、F1復帰の意思がないことを確認したハッキネンは、結局同年ドイツGPにて正式にF1引退を発表することとなった。
なお、2005年シーズンについては、ウィリアムズチームのフランク・ウイリアムズからF1復帰のオファーがあったといわれるが、熟考の結果、メルセデスチームからDTMに参戦することとなった。早くも第3戦スパ・フランコルシャンにて初ポール・初優勝を果たした。2006年11月30日にはバルセロナ合同テストで2001年以来にF1マシンを走行した。
[編集] 人物考
F1での実績から、ハッキネンはM・シューマッハに劣ると見られる場合があるが、F1においてはマシンの差をドライバーの手腕だけで克服することは困難であることも多く、単純には比較できない。
精神的な芯の強さがM・シューマッハより多少劣ると言われるが、『勝つ為なら手段を選ばない』と度々批判の対象になるM・シューマッハとは逆に、「クリーン・ファイター」であるハッキネンの人間性に魅了される者も少なくない。M・シューマッハとの関係も、アイルトン・セナとアラン・プロストの例のような険悪な関係にならず、極めてスポーツマンシップあふれるフェアな関係であった事も特筆すべきだろう。ハッキネンに負けたときのM・シューマッハは常に「今日のミカは本当に速かった」と素直にコメントしており、他ドライバーの評価する事を滅多にしないM・シューマッハでもミカの事を「マシンがキマった時は悪魔のように速い。」と賞賛し、自身の最大のライバルには真っ先にハッキネンの名を挙げている。
マクラーレンがトップレベルの競争力を発揮した時、ハッキネンはチームメイトのデビッド・クルサードを上回る成績をあげたことからも、チャンピオンを獲得するだけの実力を有していたことは間違いない。また、エンジニアとコンピューターが「これ以上速く走ることは出来ない」とはじき出したタイムを、ハッキネンはしばしば上回るらしく、エンジニアが「何と言って良いのか……ものすごく繊細なアクセル操作をしているのだろう……」と言葉を失ってしまったエピソードも印象的である。
[編集] F1での成績
[編集] 年度別成績
年 | 所属 | エンジン | 出走 | 予選通過 | PP | 優勝 | FL | ポイント | 年間順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991 | ロータス | ジャッド | 16 | 15 | 0 | 0 | 0 | 2 | 15位 |
1992 | フォード | 16 | 15 | 0 | 0 | 0 | 11 | 8位 | |
1993 | マクラーレン | フォード | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 4 | 15位 |
1994 | プジョー | 15 | 15 | 0 | 0 | 0 | 26 | 4位 | |
1995 | メルセデス | 16 | 15 | 0 | 0 | 0 | 17 | 7位 | |
1996 | 16 | 16 | 0 | 0 | 0 | 31 | 5位 | ||
1997 | 17 | 17 | 1 | 1 | 1 | 27 | 6位 | ||
1998 | 16 | 16 | 9 | 8 | 6 | 100 | 世界チャンピオン | ||
1999 | 16 | 16 | 11 | 5 | 6 | 76 | 世界チャンピオン | ||
2000 | 17 | 17 | 5 | 4 | 9 | 89 | 2位 | ||
2001 | 16 | 16 | 0 | 2 | 3 | 37 | 5位 | ||
合計 | 164 | 161 | 26 | 20 | 25 | 420 |
[編集] F1での優勝
年 | グランプリ | サーキット | シャシー | エンジン |
---|---|---|---|---|
1997 | ヨーロッパ | ヘレス | マクラーレンMP4-12 | メルセデス |
1998 | オーストラリア | メルボルン | マクラーレンMP4-13 | |
ブラジル | インテルラゴス | |||
スペイン | カタルニア | |||
モナコ | モンテカルロ | |||
オーストリア | A1リンク | |||
ドイツ | ホッケンハイム | |||
ルクセンブルク | ニュルブルクリンク | |||
日本 | 鈴鹿 | |||
1999 | ブラジル | インテルラゴス | マクラーレンMP4-14 | |
スペイン | カタルニア | |||
カナダ | モントリオール | |||
ハンガリー | ハンガロリンク | |||
日本 | 鈴鹿 | |||
2000 | スペイン | カタルニア | マクラーレンMP4-15 | |
オーストリア | A1リンク | |||
ハンガリー | ハンガロリンク | |||
ベルギー | スパ・フランコルシャン | |||
2001 | イギリス | シルバーストーン | マクラーレンMP4-16 | |
アメリカ | インディアナポリス |
[編集] DTMでの成績
2005年 30ポイント(総合5位)
決勝日 | サーキット | 予選 | スーパー・ポール | グリッド | 決勝 | FL | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 4月17日 | ホッケンハイム | 15位 | - | 15位 | 8位 | |
2 | 5月1日 | ユーロスピードウェイ | 2位 | 3位 | 3位 | 3位 | * |
3 | 5月15日 | スパ・フランコルシャン | 8位 | 1位 | 1位 | 1位 | * |
4 | 6月5日 | ブルノ | 8位 | 5位 | 5位 | 13位 | |
5 | 6月26日 | オッシャースレーベン | 20位 | - | 20位 | リタイア | |
6 | 7月17日 | ノリスリンク | 5位 | 7位 | 7位 | リタイア | |
7 | 8月7日 | ニュルブルクリンク | 10位 | 2位 | 2位 | 4位 | |
8 | 8月28日 | ザントフォールト | 11位 | - | 11位 | 12位 | |
9 | 9月18日 | ユーロスピードウェイ | 3位 | 4位 | 4位 | 12位 | |
10 | 10月2日 | イスタンブール | 4位 | 7位 | 7位 | 2位 | |
11 | 10月23日 | ホッケンハイム | 8位 | 9位 | 9位 | 15位 |
2006年
決勝日 | サーキット | 予選 | グリッド | 決勝 | FL | |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 4月9日 | ホッケンハイム | 7位 | 7位 | 4位 | |
2 | 4月30日 | ユーロスピードウェイ | 2位 | 2位 | 3位 | |
3 | 5月21日 | オッシャースレーベン | 4位 | 4位 | 9位 | |
4 | 7月2日 | ブランズハッチ | 8位 | 8位 | 3位 | |
5 | 7月23日 | ノリスリンク | 5位 | 5位 | 3位 | |
6 | 8月20日 | ニュルブルクリンク | 9位 | 9位 | 12位 | |
7 | 9月3日 | ザントフォールト | 9位 | 9位 | 11位 | |
8 | 9月24日 | カタロニア | ||||
9 | 10月15日 | ル・マン | ||||
10 | 10月29日 | ホッケンハイム |