エルヴィン・ロンメル
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エルヴィン・ロンメル | |
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1891年11月15日 - 1944年10月14日 | |
![]() Erwin Rommel 装甲兵大将, 1941 |
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渾名 | 砂漠の狐 |
生誕 | ハイデンハイム (Heidenheim) |
死没地 | ヘルリンゲン (Herrlingen) |
忠誠 | ドイツ第三帝国 |
軍歴 | 1911-1944 |
階級 | 元帥 |
部隊 | アルペン軍団 |
指揮 | 第7装甲師団 ドイツアフリカ軍団 Commander in chief North Italy Army Group E, Greece Army Group B |
戦闘 | 第一次世界大戦 第二次世界大戦 ナチス・ドイツのフランス侵攻 北アフリカ戦線 ノルマンディー上陸作戦 |
賞罰 | プール・ル・メリット勲章 柏葉剣ダイヤモンド付き騎士鉄十字章 |
エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(Erwin Johannes Eugen Rommel, 1891年11月15日 - 1944年10月14日)は第二次世界大戦中最も有名なドイツ軍人の一人。北アフリカ戦線において巧みな戦闘指揮で戦力的に優勢なイギリス軍をしばしば打ち破り、英首相チャーチルよりナポレオン以来の戦術家と評される。中産階級出身の陸軍元帥。エアヴィン・ロンメル、あるいは、英語読みでアーウィン・ロンメルと表記されることもある。日本では「エルウィン・ロンメル」と呼ばれる事が多い。
目次 |
[編集] 人物
ドイツアフリカ軍団時代に彼は砂漠の狐と仇名され、英軍に「我等が敵ロンメルは巧みな戦術家ではあるが人間である。あたかも彼が超自然的能力を持っているかのように評価するのは危険であり、戒めねばならない」とまで言わしめた。ただし兵站に対する認識が甘く、戦略面の能力を疑問視する声もある。
ロンメルは捕虜に対して国際法を遵守して非常に丁重であった。捕虜となったデズモンド・ヤング准将は戦後ロンメルの伝記を著作するまでも心酔しており、またその著作は映画化された(映画の節を参照)。
1941年にロンメル暗殺を企図して砂漠のドイツ軍施設を奇襲攻撃した英国コマンド部隊の死者を丁重に扱った。以後もコマンド部隊の殺害を命じたアドルフ・ヒトラーのコマンド命令を無視していた。国際法の遵守を最後まで通し抜いた彼の騎士道精神は賞賛されるべきであり、英国のチャーチル首相に「ロンメルは聖者だ」と言わしめた程である。
また、ロンメルは幼年時代に航空機技術者になる夢を持っていたせいか機械に対する興味が旺盛で、気軽に自身が軽飛行機に搭乗して敵情を偵察したり、宣伝大臣ゲッベルスからプレゼントされたカメラを愛用して多くの戦場写真を残した。子息のマンフレートによると元々写真撮影が好きで、欧州やアフリカで数千枚の写真を残した。同僚からは写真家将軍と揶揄されていた。ロンメル自身が指揮装甲車の屋根からカメラを構えている姿を撮った写真も残っている。
戦中の行為からナチス指導者やほかの多くのドイツ軍人が非難されるなか、ロンメルだけはドイツのみならず、敵国であったイギリスやフランスでも肯定的に評価されることがある。
[編集] 生い立ち
ドイツ南部のバーデン=ヴュルテンベルク州のウルムから約50kmに在る小さな町ハイデンハイムでプロテスタント系の高等学校々長のエルヴィン・ロンメル(シニア)とヘレーネ・フォン・ルツの次男として生まれた。
ロンメルには二人の兄弟カールとゲアハルトと妹ヘレンがいた。ロンメルは後に幼年期を回想し「私の幼少時は非常に幸福だった」と述懐している。ロンメルにはエンジニアになる希望があったが、父親に教師か陸軍士官になれと選択を迫られ、1910年にヴュルテンベルク王国の第124歩兵連隊に入営、プロイセン王国のダンツィヒ王立士官学校に進んだ。
ロンメルはダンツィヒの陸軍士官学校時代の1911年にルーシー・モリンに出会い、1916年に結婚する。1928年に息子のマンフレートが生まれ、マンフレートは戦後シュトゥットガルトの市長を長年務めた。
1911年11月、ロンメルは士官学校を卒業し、1912年1月に少尉として任官した。後年、歴史家のジョン・ビーアマンとコリン・スミスは、ロンメルが1912年にヴァルブルガ・シュテマー (Walburga Stemmer) との間にゲルトルートという名の娘をもうけたと研究発表している。
第一次世界大戦中にロンメルはルーマニア、イタリア、フランスの各戦線に従軍し、三度の負傷で一級および二級鉄十字章を授章した。さらに彼はイタリア北東部の山岳戦で多くの捕虜を取る著しい功績を挙げ、1917年12月に最高位のプール・ル・メリット勲章を授章し、その年の最年少授章者となった。1915年に彼は中尉に昇進した。
第一次大戦後、ヴェルサイユ条約により10万人に限定された陸軍に選び残されたロンメルは、ドレスデン歩兵学校(1929年 - 1933年)、ポツダム歩兵学校(1935年 - 1938年)の教官を務めた。
プール・ル・メリット勲章を授章した山岳戦の経験を著した『歩兵攻撃 (Infanterie greift an)』は1937年に出版され、50万部を売り切った。ヒトラーも読者であった。
1938年には大佐に昇進し、ウィーン郊外のマリア・テレジア女王の名を冠する陸軍士官学校 (Theresianische Militärakademie) の校長に任命された。1939年には総統大本営警護大隊 (Führer-Begleitbataillon, FHQ) の指揮官に任命されて、ポーランド侵攻では前線近くに停められた総統専用列車「アメリカ」の警備にあたった。ロンメルはポーランド侵攻前の8月1日に遡及して少将に昇進した。
[編集] 第二次世界大戦
[編集] フランス
1940年5月に開始されたフランス・ベネルックス諸国への西方電撃戦では第7装甲師団長を務め、真っ先にムーズ川(ミューズ川)を渡り英仏軍をフランス本国から切り離す一番槍を上げ、アラスでシャルル・ド・ゴール大佐らが率いる英仏戦車隊を撃退するなど、連合軍に幽霊師団と仇名される神出鬼没の働きで勇名をはせ、中将に昇進した。自ら偵察機や指揮装甲車に搭乗して最前線で指揮を執り兵士と苦楽を共にする彼の用兵術は、ドイツ軍人精神の模範とされ、兵士に実力以上の能力を発揮させた。
[編集] 北アフリカ戦線
ドイツアフリカ軍団を指揮して装甲兵大将に昇進、歩兵が防御し装甲師団が迂回包囲する「一翼包囲攻撃」を多用し、寡兵で連戦連勝を続け、ドイツ軍史上最年少で元帥に昇進した。エル・アラメインの戦いで敗北後、アフリカを離れる。
[編集] ノルマンディー
1943年半ば以降はドイツ西方軍の指揮下で北部フランスの防衛を担当するB軍集団司令官として連合軍の迎撃準備に専念した。北アフリカでの経験から連合軍の圧倒的な航空優勢のもとではドイツ軍は反撃のため大規模な部隊の展開を行うことは不可能であり、従って上陸時に水際で撃滅することが肝要であると訴え、上陸第一日を「最も長い日 (The longest Day)」と呼んだ。しかし、独ソの航空戦力が比較的均衡していた東部戦線での経験しか持たない西方軍総司令官のゲルト・フォン・ルントシュテット元帥は英米の航空戦力の脅威を正確に評価しておらず、連合軍を一旦上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を優先するが、1944年のノルマンディー上陸作戦時には敵の制空権下の味方の装甲師団の活動は大きく制約され、有効な反撃を出来なかった。
[編集] ヒトラー暗殺計画
1944年7月17日、ノルマンディーの前線近くを走行中のロンメルの乗用車が英空軍の第602戦闘機中隊 (602 Squadron) のスピットファイアによって機銃掃射され、彼は頭部に重傷を負い入院した。
一方、7月20日のヒトラー暗殺計画の失敗後、ロンメルのB軍集団参謀長のハンス・シュパイデル (Hans Speidel) 中将(戦後西ドイツ軍及びNATOの重鎮となる)が反ナチ派だったことから、彼は計画への関与を疑われた。マルティン・ボルマンはロンメルの関与を確信し、ヨーゼフ・ゲッベルスはその関与を疑った。
1944年10月14日、療養先の自宅を訪れたヒトラーの使者の二人の将軍にロンメルは反逆罪で裁判を受けるか自殺するかの選択を迫られ、裁判を受けても死刑は免れず、粛清による家族への波及を恐れたロンメルは「私は軍人であり、最高司令官の指揮に従う」と言い、暗殺事件への関与に関して何一つ弁明もせず服毒自殺を遂げた。ドイツの英雄であるロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され祖国の英雄としてウルムで盛大な国葬が営まれた。しかし、ヒトラーは会葬しなかった。
ロンメルの計画への関与の真偽は不明である。戦後、彼の妻ルーシー・モリンはロンメルがヒトラー暗殺計画に反対していたと主張した。
戦後、残した軍命令書、戦況報告書、日記等を戦史家リデル・ハートが編集して The Rommel Papers として出版された。
[編集] 音楽
ロンメルは国民的英雄として人気があった。1941年には Unser Rommel(我らがロンメル) がつくられ、アフリカ軍団の歌として愛唱された。
[編集] 映画
- 『砂漠の鬼将軍』(米国映画、ヘンリー・ハサウェイ監督、1951年)捕虜となったデズモンド・ヤング准将のロンメル伝記の映画化。ジェームズ・メイソン (James Mason) がロンメルを演じる。
[編集] ゴーグル
ロンメルは、リビアでの戦い(北アフリカ戦線)で英軍から防毒ゴーグル(砂塵ゴーグルと一般的には言われるが、英軍呼称『Anti-Gas Eye Shield “Mk II"』から防毒目的と思われる。) を捕獲した。 ロンメルはこれを好んで着用し、彼のトレードマークとなった。
上の写真で着用しているのが、まさにそのゴーグルである。
[編集] 参考文献
[編集] 回想録
- Heinz Werner Schmidt(著)、部下、With Rommel in the Desert, Albatross Publishing, 1951
- Heinz Werner Schmidt(著)、部下、Mit Rommel in der Wüste, Argus-Verlag, München
- Heinz Werner Schmidt(著)、清水政二(訳)、『ロンメル将軍(原題:With Rommel in the Desert)』、角川書店、1971年
- Hanns-Gert von Esebeck(著)、部下の第15装甲師団長、Das deutsche Afrika-Korps, Siege und Niederlage, Limes, 1975, ISBN 3809020788
- F.W. von Mellenthin(著)、部下、矢嶋由哉/光藤亘(訳)、『ドイツ戦車軍団全史:フォン・メレンティン回想録』、朝日ソノラマ、1981年
- フリートリッヒ・ルーゲ(著)、加登川幸太郎(訳)、『ノルマンディーのロンメル』、1985年
- デズモント・ヤング(著)、清水政二(訳)、英軍捕虜、『ロンメル将軍』、月刊ペン社、1969年
[編集] 戦史研究者
- パウル・カレル(著)、松谷健二(訳)、『砂漠のキツネ』、フジ出版社、1969年
- リデル・ハート(編)、小城正(訳)、『ロンメル戦記(原題:The Rommel Papers)』、読売新聞社、1971年
- Warren Tute(著)、The North African War, Sidewick & Jackson, ISBN 0283982403, 1976
- アラン・ムーアヘッド(著)、平井イサク(訳)、『砂漠の戦争』、早川書房、1977年、ISBN 4150500088
- A.J.Barker(著)、Afrika Korps, Bison Books, ISBN 0891960171, 1978
- Volkmar Kühn(著)、Mit Rommel in der Wüste, Motorbuch Verlag, ISBN 3879433690, 1984
- Dal McGuirk(著)、Rommel's Army in Africa, Motorbooks International, ISBN 0879388358, 1993
[編集] ピクトリアル
- Bruce Quarrie(著)、(写真集)、Panzers in the Desert, Patrick Stephens, 1978,ISBN 0850593387
[編集] 関連項目
- ハンス・シュパイデル(B軍集団時代の参謀長)
- エルンスト・ユンガー
- エル・アラメインの戦い
- クルセーダー作戦
- ガザラの戦い
- トーチ作戦
- 北アフリカ戦線
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