グレート小鹿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
グレート小鹿 | |
---|---|
プロフィール | |
リングネーム | グレート小鹿 |
本名 | 小鹿 信也 |
ニックネーム | コスプレ社長 |
身長 | 185cm |
体重 | 115kg |
誕生日 | 1942年4月28日 |
出身地 | 北海道函館市 |
所属 | 大日本プロレス 代表取締役社長 |
デビュー | 1963年5月9日 |
グレート小鹿(グレートこじか、1942年4月28日 - 、1940年生まれという説もある)は、日本のプロレスラー。本名:小鹿 信也(こしか しんや)北海道函館市出身。身長185cm、体重115kg。大日本プロレス代表取締役社長。
目次 |
[編集] 経歴
17歳のとき、後を追いすがる家族を振り切り、一旗揚げたいという思いだけを持って東京行きの列車に乗りこみ、一人函館を後にする。車中、体格のよさを見込んだ親方に声をかけられ、腹いっぱいご馳走された後、そのまま親方に連れられ出羽ノ海部屋に入門することとなる。
1963年、相撲界を離れ日本プロレスに入団。5月9日、マシオ駒戦でデビュー。豊登の命名による『小鹿雷三』のリングネームでファイトする。
1967年に大熊元司とともに渡米しテネシー、ジョージアのタッグ王座などを獲得。大熊がホームシックで帰国した後も、『カンフー・リー』などのリングネームを用い、サンフランシスコなどでシングルプレーヤーとして活躍し、姑息なヒール戦法を駆使して憎まれ役としての存在感を発揮。ミル・マスカラスを破って成し遂げたアメリカス王座戴冠の実績が光る。アメリカにおけるタイトル獲得数は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木を大きく上回る。
1973年6月、全日本プロレスに移籍。1974年1月にテキサス・アマリロへ再渡米。テリー・ファンクからウェスタン選手権を獲得。その後はジャイアント馬場のセコンドに必ず付いていたほか、大熊元司との名タッグ『極道コンビ』でアンダーカードの一時代を築く。アジアタッグ王座はこのコンビとともにあったといっても過言ではない。
また現役時代からプロモーター業を兼任して、そしてしっかり成功させていたという異色の選手であった。自らの引退興行も自分でプロデュースしている。 事業家・小鹿信也の出発点である。
引退後、地元函館で事業を始める傍ら、プロモーター業を継続。後に天龍源一郎の願いを受けWARの営業部長に就任。巡業ルートの設定などに携わる。
1994年12月、NOW崩壊の憂き目を見ていたケンドー・ナガサキ・登坂栄児(NOW社長→大日本・統括部長)らとともに、横浜市に大日本プロレスを設立し、社長に就任。
観客動員に苦戦したことから、1995年に現役復帰。『料理の鉄人』、ゴルゴ13、兵隊服などのコスプレをしてリングに上がる「コスプレ社長」として注目を浴びた。1997年1月4日には新日本プロレスの東京ドーム大会に登場。マサ斉藤と対戦した。このときの小鹿の衣装はタキシード。
若手が成長するにつれて自らがリングに上がることはなくなり、事業家としての活動が主となっている。2003年11月、仙台市に「プロレスちゃんこ小鹿」を、2006年4月、「ホルモン小鹿亭」をオープンさせた。最近では試合には出ないが、大日本の大会に足を運ぶ事も多い。
[編集] 逸話
- 大熊との『極道コンビ』は非常に絆が強いコンビとして知られた。頑強だが気が弱い大熊を心身にわたって支え、大熊が怪我をしてほとんど動けないときには、「とにかく立っているだけでいいから」と言って小鹿一人で試合を組み立てるほどだったという(アメリカマットにおいて怪我で試合に出れなくなるということは、そのまま干されることにつながる)。早すぎた大熊の死に、小鹿は深く悲しんだ。
- アメリカ時代は、カルフォルニア米が非常に口に合ったらしく食事の面で困ったことは無い。
- 1984年、映画『修羅の群れ』に出演。
- 歌が非常にうまく、団体の宴会には必ずお呼びがかかった。
- 函館訛りが抜けない話し方で知られる。アメリカでも函館訛りで押し通した。
- 2006年8月20日1日間の、自身が運営するライブドアBlogである「小鹿注意報!」のユニークアクセス数は丁度100だったが、翌21日に日本最大級ポータルサイトYahoo! JAPAN TOPのトピックス欄に小鹿のBlogが紹介・掲載された途端、その日だけで133,084という、とんでもない数のユニークアクセスをたたき出した(今現在も最低でも1000アクセスはある。ラジオ番組・ゴー傑Pにて発言)
- 力道山最後の弟子ではあるが、実際彼と接したのは1年ほどであり、また押しも押されぬエースと新弟子、という関係だったため、彼との思い出はそれほど無いらしい。プロレスラーを志して力道山の元を訪ねた際「いい体しているね、頑張りなさい」(その時点で身長は180センチを越えていた)と励まされたものの、後日約束した日に再び彼の元を訪れると「君誰だっけ?」と言われたことがある。これには小鹿は背筋が凍る思いがしたと述べている。
- 1日1個のゴミを拾っている。
- 子息に陸上の長距離選手がおり、全国高校駅伝、箱根駅伝に出場するほどの実力だった。
[編集] 外部リンク
[編集] 得意技
「人と同じことはしたくない」との思いから、あえて反則殺法に専念した。
- ニードロップ
- 顔面かきむしり
- スリーパー・ホールド
[編集] タイトル履歴
- アメリカスヘビー級王座
- アジアタッグ王座
[編集] 使用したリングネーム
- 小鹿信也(本名)
- 小鹿雷三
- グレート小鹿(コジカ)
- カンフー・リー
- 怪覆面G・K
カテゴリ: 日本のプロレスラー | 元大相撲力士のプロレスラー | 全日本プロレスに所属したプロレスラー | 大日本プロレス | 北海道出身の大相撲力士 | 1942年生