グレート草津
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グレート草津のリングネームでの活動で最も知られる草津正武(くさつ・まさたけ、1942年2月13日-)は、日本の元ラグビー選手、プロレスラーである。熊本県熊本市出身、192センチ、118キロ(全盛時)。
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[編集] 経歴
熊本工業高校、八幡製鐵所でラグビー選手として活躍。日本代表に選出され、100メートルを11秒台で走る快速フォワードとして鳴らす。
1965年8月に日本プロレスに入団。豊登から出身地の熊本にちなんで草津清正のリングネームを付けられ、ジャイアント馬場の付け人となる。1966年3月21日、本間和夫戦でデビューするが、団体の放漫経営に嫌気がさし、その年のうちに退団。同じく同団体を退職していた吉原功とともに国際プロレス(以下「国際」)の旗揚げに参加する。
国際のエースとして期待され、1968年1月3日、TBSの定期放送第1回のメインイベントでルー・テーズの持つTWWAヘビー級選手権に挑戦するも、必殺バックドロップを食らい1本目を失い、そのまま試合続行不可能となり敗戦。その後の草津、国際の命運を決定付ける一戦となる(この試合の詳しい経緯は国際プロレスの項に詳述)。
テーズ戦後しばらくは低迷したがまもなく立ち直り、パワー、スピード、テクニックを備えた国際の中心レスラーとして長く活躍した。IWA世界タッグ王座を計5人のパートナーと長く保持した他、英国西部ヘビー級及び同南部ヘビー級王座などシングルタイトルも獲得した。ビル・ロビンソンら欧州勢にはテクニックでわたり合う一方、ワフー・マクダニエルにはインディアン・ストラップマッチで勝利するなどラフにも強く、オールラウンドタイプのレスラーであった。アメリカ遠征でもバーン・ガニアのAWA世界王座に何度も挑戦するなど実績を残した。1971年12月にはネブラスカ州オマハにおいてガニアを倒し一度は世界王座を手にしたが、反則があったとして判定が覆り、幻の王者となっている。しかし、日本では単独エースの立場になることは遂になく、主にエースのストロング小林やラッシャー木村らの二番手が定位置だった。1979年1月にIWA世界タッグ王座を失い無冠に転落。1980年6月にアキレス腱断裂の重傷を負い長期欠場、そのまま団体としての終焉を迎えることになる。
欠場中の1981年8月に国際プロレスは活動を停止し、そのまま引退した。早くから国際の幹部であり、現場責任者として、また会社の営業面で多大な貢献をしてきており、活動停止時には営業本部長の職にあった。引退後は湯沸かし器製造会社の営業職に転身。営業成績は大変優秀だったため、その後別の会社の営業取締役を務めたりしている。現在は静岡県三島市在住。
[編集] 得意技
[編集] 獲得タイトル
[編集] 逸話
- 酒豪かつ酒癖の悪さは有名だった。刃物を持って暴れたこともあったという。引退後はおとなしくなったようだが、今でも昼間から飲んでいるという。
- 国際旗揚げ直前、カナディアン・フットボールチームのキャンプに参加している。ラグビーの経験があったため、選手として入団するよう誘われたという(草津自身も、機会があればフットボールに戻りたい意思があった)
- 子供向けのプロレスラー名鑑に、「草津は蛇を見ると泡を吹いて失神する」と紹介されたことがある。真偽はともかく、こんな紹介をされてしまうあたりに、現役時代の草津がどう見られていたかが如実に現れている。
- アニマル浜口は草津の付き人を務めている。
- 上記のように日本プロレス時代は馬場の付き人だった草津だが、テーズ戦でKOされる前に「馬場さんは日本プロレスのエース、僕も国際プロレスのエース、お互い頑張りましょう」と馬場に面と向かって言って、馬場を「こいつは駄目だ」と呆れさせた。
- 地方巡業ではよく坂口征二と間違われることがあり、その度に「俺は坂口じゃねぇ!」「その名前を口にするな」と不快感を顕にしていた。髪型、外見だけでなく、出身地(ともに九州)、大学→社会人からアマチュアスポーツで名をあげた上でのプロレス入りの経緯、生年月日(坂口は1942年2月27日生まれ)の近さから比較されることも多かった。一般への浸透度が、テレビ中継で写る機会が多く「柔道日本一」の名声を上げていた坂口の方が高かったことが、更なる悲哀を生んでしまったと言えるだろう。
[編集] 評価
- プロレスラーとしての相対的な評価は高いとはいい難い。しかし、格闘技経験こそないものの身体能力・運動センスは高く、坂口征二、ジャンボ鶴田と比較しても見劣りしない(ドロップキックなどの技のキレは現在でも高い評価が残っている)、もっとプロレス史に名を残してもいい逸材だった。上記のテーズ戦がレスラー人生を決したかのような言い方をされるが、そうとは断じ難い。大成しなかったのは環境の問題もあり、練習嫌いといわれるように本人の意識の問題もあったろう。立派だった体格は年々明らかに衰えており、練習不足に疑いの余地はないが、フロント業務に忙殺されていた可能性も考慮すべきではあろう。
- リング外では、酒癖が悪い、クラブでの豪遊、後輩苛めをするなど性格が悪い、などの負のイメージがある反面、中心レスラー・現場責任者・フロント幹部としての重責を担って国際を支えたともいわれる。不甲斐ない試合をしたラグビー出身の後輩、阿修羅・原に鉄拳を喰らわすなど硬骨漢の面も伝えられ、本人がまだ健在でありながら、実像がつかみ難い人物である。酒癖が悪かったことは確からしく、それが性格の悪さと混同されて伝わった可能性はある。近年も書籍のインタビュー等に登場しているが、プロレスに対する愛着はうかがえるものの、やはり酒を飲みながら受け答えをしており、その真意は探り難い。
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