シャルル・ボードレール
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シャルル・ピエール・ボードレール(Charles Pierre Baudelaire, 1821年4月9日 - 1867年8月31日)はフランスの批評家、詩人。「フランス近代詩の父」と呼ばれる。
目次 |
[編集] 生涯
若くして美術批評家として文壇にデビューを果たし、特に当時、物議を醸し出していたロマン主義画家のドラクロワに対する熱心な弁護と評価を行った。的確な指摘と同時に、美術批評を介して独自の詩学を打ち出すという「詩人による美術批評」の先鞭をつけた。これはラフォルグ、アポリネールへの系譜と連なってゆく。またエドガー・アラン・ポーを翻訳、フランスに紹介した。
ダンディとして知られ、亡父の遺産をもとに散財の限りを尽くし、準禁治産者の扱いを受ける。その後、死ぬまで資金のやりくりに追われることとなる。
プルードンに心酔、二月革命に参加。レアリスト画家クールベらと友好を結ぶ。
生前発表した唯一の詩集『悪の華』(Les fleurs du mal)が摘発され、そのうちの6編が公序良俗に反するとして罰金刑を受ける。後に第二版を増補版として出版し、詩人としての地位を確立した。その卑猥的、耽美的、背教的な内容は彼の後の世代に絶大な影響を与えることとなる。特に現実と理想の溝から生じる、作品に溢れる絶望感とアンニュイは、一種の退廃的な時代の病を表徴している。
韻文詩集発表後、彼は散文詩と呼ばれるジャンルに新たな詩的可能性を目指し、執筆を続ける。生前は作品集としては陽の目を見なかったものの、後に『パリの憂鬱』(『小散文詩』)として出版された。いまなお多くの示唆にあふれる内容となっている。
[編集] 評価
ボードレールは詩という文学空間の可能性を最も早くに提示した詩人であり、彼を境にしてランボー、ヴェルレーヌ、そしてマラルメへと至るその決定的な影響において「近代詩の父」と称される。また、詩人による批評活動という意味でも、優れた功績を残している。特に『現代生活の画家』(Le Peintre de la vie moderne)の中で展開されるモデルニテ(modernité 近代性、現代性)の理論は19世紀フランスのキータームであり、彼以降の詩人たちは、それぞれのモデルニテを探ることとなる。
[編集] 年譜
- 1821年4月9日、パリに生まれる。父は、ジョセフ・フランソワ・ボードレール(Joseph François Baudelaire)(1759-1827)、母は、カロリーヌ・アルシャンボー=デュフェー(Caroline Archimbaut-Dufays)(1793-1871)。父方は富裕な農家。この年、ナポレオン・ボナパルト死亡。
- 1827年(6歳)、父フランソワ死亡。
- 1828年(7歳)、母が陸軍軍人と再婚。3人で住むが、シャルルは養父を嫌う。3人は間もなくリヨンに移り住み、シャルルはドローム私塾(Pension Delorme)からロワイヤル中学(Collège Royal)に進む。
- 1836年(15歳)、一家はパリに戻り、シャルルはルイ・ルグラン中学(Lycée Louis-le-Grand)に転校する。
- 1839年(18歳)、ルイ・ルグラン中学から放校される。大学入学資格試験(baccalauréat)に合格する。
- 1839年-1841年、パンテオン近くのバイイ私塾(Pension Bailly)に入れられる。オクターヴ・ワイエ(Octave Feuillet)、ネルヴァル(Gérard de Nerval)、ルコント・ド・リール(Leconte de Lisle)らを知る。文芸新聞に寄稿する。バルザックの門をたたく。
- 1841年4月(20歳)、シャルルの行状を案じた養父により、インド行きの船に乗せられる。
- 1842年2月(21歳)、モーリシャス島からパリに逃げ戻る。乗船中に詩作する(のち「悪の華」に収める)。4月、成年に達し、亡父の遺産を分与され、転居を繰り返した後、サン・ルイ島のオテル・ピモダン(Hôtel Pimodan)に落ち着く。以後二年間に、後に『悪の華』へ収録される詩編の大半を綴る。ヴィクトル・ユーゴー、サント・ブーヴ、テオフィル・ゴーティエ(Théophile Gautier)を知る。黒人混血女ジャンヌ・デュヴァル(Jeanne Duval)と交わる。
- 1844年(23歳)、禁治産者として、弁護士の監視下に置かれ、売文の必要に迫られる。
- 1845年(24歳)、この頃自殺未遂。美術批評、文芸批評の筆を執る。
- 1846年(25歳)、批評家として名を高める。この頃からエドガー・アラン・ポーに打ち込む。
- 1847年(26歳)、シャルル・ドゥファイスの筆名で『ラ・ファンファルロ』を発表。
- 1848年(27歳)、政治熱にかられる。ポーの翻訳を続ける。この年、二月革命が起こり、ナポレオン・ボナパルトの甥シャルル・ルイ=ナポレオンが大統領になる。
- 1851年(30歳)、政治熱が冷める。
- 1852年(31歳)、年末以降、サバティエ夫人(Madame Sabatier)の文学サロンに出入りし、彼女に数篇の詩を捧げる。この年、シャルル・ルイ=ナポレオンがナポレオン3世 (フランス皇帝)として即位する。
- 1853年(32歳)、「玩具のモラル(Morale du joujou)」、「笑いの本質について(De l'essence du rire)」を書く。後者の論考は、昨今の笑いについての哲学において使われる「有意義的滑稽」と「絶対的滑稽」という言葉を提唱したものである。
- 1855年(34歳)、ドラクロワ賛美の美術評論を書き、また、詩篇十八を発表して、初めて詩人と認められる。
- 1857年(36歳)、詩集『悪の華』(Les fleurs du mal)を出版する。ゴーティエに捧げられている。治安裁判で六篇を削除され、罰金を科される。散文詩六篇を発表し、サント・ブーヴに激賞される。養父が没し、母カロリーヌとよりが戻る。
- 1858年(37歳)、『人工天国』(Les paradis artificiels)第一部を公表する。
- 1859年(38歳)、評論活動を続ける。
- 1861年(40歳)、35篇を追加した『悪の華』第二版を出版する。アカデミー・フランセーズの会員になろうとして諦め、世評を損ねる。
- 1863年(42歳)、梅毒による体の不調に悩み始める。
- 1864年(43歳)、負債に追われて4月末にパリからブリュッセルへ逃れる。時々母カロリーヌや後見人を訪れ、金を無心する。
- 1865年(44歳)、ブリュッセルから痛烈な論陣を張る。夏に帰国して母を見舞い、旧友等と款語する。散文詩集『パリの憂鬱』(Petits poèmes en prose, Spleen de Paris)を書き進めるが、病勢進む。
- 1866年(45歳)、3月、ブリュッセル南東のナミュール(Namur)に遊んで倒れる。脳神経の変調が現れ、言葉を失い、ブリュッセルの病院に収容される。7月初、母カロリーヌに付き添われてパリに転院する。
- 1867年(46歳)、8月31日、死亡。9月2日葬儀、モンパルナス墓地に葬る。
- 1869年、散文詩集『パリの憂鬱』が出版される。
[編集] 作品
[編集] 詩・散文
- 『悪の華』
- 『パリの憂鬱』(1869年、『小散文詩』とも):決定版全集第四巻に、生前は単行本化されなかった散文詩50篇を収録。
- 『人工天国』:アヘン体験を記した散文作品。
- 『ラ・ファンファルロ』(1847年):ボードレール唯一の小説。
- 『火箭』、『赤裸の心』:生前未発表のアフォリズム集。
- ほか
[編集] 美術批評・音楽批評
- 「1845年のサロン」
- 「1846年のサロン」
- 「笑いの本質について」
- 「1855年の万国博覧会、美術」
- 「1859年のサロン現代生活の画家」
- 「ウージェーヌ・ドラクロアの作品と生涯」
- 「リヒャルト・ヴァーグナーと『タンホイザー』のパリ公演」
- ほか
[編集] 文芸批評
- 「エドガー・ポー、その生涯と作品」
- 「エドガー・ポーに関する新たな覚書」
- 「テオフィール・ゴーティエ」
- 「わが同時代人の数人についての省察」
- 「ギュスターヴ・フローベール著『ボヴァリー夫人』書評」
- 「ヴィクトール・ユゴー著『レ・ミゼラブル』書評」
- ほか
[編集] 邦訳書
- 『ボードレール全集』(阿部良雄訳、筑摩書房)全6巻
- 『ボードレール全詩集』(阿部良雄訳、ちくま文庫)全2巻
- 『ボードレール批評』(阿部良雄訳、ちくま学芸文庫)全4巻
- 『悪の華』(鈴木信太郎訳、岩波文庫)
- 『悪の華』(佐藤朔訳、第一書房、1941年)
- 『巴里の憂鬱』(三好達治訳、角川書店、1947年)
- 『ボオドレエル詩集』(鈴木信太郎訳、創元社、1949年)
- 『海潮音』(上田敏抜粋訳、本郷書院、1905年/岩波文庫)
- 『珊瑚集』 (永井荷風抜粋訳、籾山書店、1913年/岩波文庫)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
『集英社世界文学大事典』集英社、2002年。