マグナ・カルタ
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マグナ・カルタ(大憲章、だいけんしょう、Magna Carta: ラテン語、the Great Charter: 英語)はイングランドの憲章で、ジョン王の権限を限定する法である。ラニーミードにおいて1215年6月15日に制定された。63か条から成る。すべての条文はその後廃止されたが、前文は廃止されずに現行法として残っており、成文憲法を持たないイギリスにおいて、事実上、憲法の一部である。
特に重要な項目は、教会は国王から自由であると述べた第1条、王の決定だけでは戦争協力金などの名目で税金を集めることができないと定めた第12条、ロンドンほかの自由市は、交易の自由を持ち、関税を自ら決められるとした第13条、国王が議会を召集しなければならない場合を定めた第14条、自由なイングランドの民は、国法か裁判によらなければ、自由や生命、財産をおかされないとした第38条などである。
なお、唯一廃止されずに残っている前文は、抄訳すると、国王ジョンは、以下の条文を承諾するという内容である。
[編集] 由来
ジョン王がフランスとの戦いに敗れてフランス内の領地を失ったにもかかわらず、新たに戦を仕掛けて再び敗戦したために、1215年5月5日に貴族の怒りが爆発した。貴族側はジョン王の廃位を求めて結託し、ロンドン市が同調する事態になると、ほとんどの貴族と国民は反ジョンでまとまってしまった。当時はこのように臣民の信頼を失った王は自ら退位するか処刑されるしかなく、その後新たな王が立てられるのが通常であった。しかし、このときはジョン王の権限を制限する文書に両者が同意することで事態の収拾がはかられた。急ぎ作られた文書であり、ひとまずその場をしのぐために作られたとしか思えない条文が多い。内容は広範囲に及ぶわりには雑然としている。多くは当時の慣習法を明文化したものともいわれ、貴族の特権などを確認する条文も多く、保守的な色彩が強い内容である。この文書はその内容よりは、王がその権限を制限されることがあることが文書で確認されたという意味のほうが大きく、近世の市民革命以後に築かれたイメージとは全く異なる。しかし、王の実体的権力を契約、法で縛り、権力の行使には適正な手続を要するといった点そのものは、現代に続く法の支配、自由主義の原型となった。
制定直後の1215年、実施にあたり混乱があり、更にジョン王を支持するローマ教皇インノケンティウス3世が、イングランドの貴族や国民の動きを非難してイングランド国王は神と教会以外の約束に縛られるものではないと、マグナ・カルタの廃棄を命じた。さらに、翌年ジョン王が死ぬと、次の国王ヘンリー3世がこの憲章を守らなかったため、たびたび再確認された。また、その際に、条文のいくつかは修正された。現在有効とされているものは1225年に修正されたものである。その後、廃止されないまま忘れられており、中世にはほとんど重視されなくなった。ウィリアム・シェイクスピアの史劇『ジョン王』にはマグナ・カルタ制定のエピソードが登場しないことにも、この軽視が伺われる。
大量に複写されたため、各地に残っているが、イングランド国内に現存するオリジナルの文書は4通である。
[編集] 影響
国王と議会が対立するようになった17世紀になり再度注目されるようになった。清教徒革命の際には、革命の理由としてマグナ・カルタが使われた。また、アメリカ合衆国建国の理由にも、マグナ・カルタが使われている。