ナリタトップロード
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性別 | 牡 |
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毛色 | 栗毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1996年4月4日 |
死没 | 2005年11月7日 |
父 | サッカーボーイ |
母 | フローラルマジック |
生産 | 佐々木牧場 |
生国 | 日本(北海道門別町) |
馬主 | 山路秀則 |
調教師 | 沖芳夫(栗東) |
競走成績 | 30戦8勝 |
獲得賞金 | 9億9011万2000円 |
ナリタトップロードは、日本の競走馬・種牡馬。競走成績は30戦8勝で菊花賞等に優勝した。
※年齢はすべて現表記にて記載
目次 |
[編集] 戦績
[編集] デビュー前~2歳時(1998年)
ナリタトップロードは、1996年4月4日に北海道沙流郡門別町の佐々木牧場で生まれ、1998年に栗東の沖芳夫厩舎に入厩した。主戦騎手には沖厩舎所属の渡辺薫彦が選ばれ、1998年12月5日に阪神芝2000mの新馬戦でデビュー。1番人気に支持されたもののマイネルサクセスにクビ差及ばず2着に敗れたが、12月27日の新馬戦(当時は同じ開催であれば新馬戦に何回でも出走できた)で勝利した。
[編集] 3歳時(1999年)
1999年に入ると、500万以下条件戦の福寿草特別でスリリングサンデー(ダイワメジャーの全兄)の3着に入線し(2着は後のエリザベス女王杯優勝馬トゥザヴィクトリー)、次走のGIIIきさらぎ賞では格上挑戦ながら2番人気に支持され、1番人気のエイシンキャメロンを破って重賞初制覇を収めた。次のGII弥生賞でも2番人気に支持された。この時の1番人気は名牝ベガを母に持つサンデーサイレンス産駒の大物で、武豊が騎乗するアドマイヤベガだったが、ナリタトップロードはアドマイヤベガを抑えて勝利。前年のダービー馬スペシャルウィークと同じローテーションを辿ったこともあり、一躍クラシックの主役の1頭に浮上していった。
しかしクラシック第一弾の皐月賞で勝利したのは、1番人気のアドマイヤベガでも、2番人気に推されたナリタトップロードでもなく、大外を一気に強襲してきた、毎日杯の優勝馬テイエムオペラオーであり、ナリタトップロードは3着に、アドマイヤベガは6着に敗れた。次走の東京優駿(日本ダービー)では1番人気に推されたが、早めスパートでテイエムオペラオー(結果3着)を交わし、抜け出したところをゴール直前でアドマイヤベガに差され2着に敗れた。レース後、主戦騎手の渡辺薫彦はロッカールームで人目をはばからず泣いていた。この姿はスーパー競馬で生中継され、司会であるフジテレビの福原直英アナウンサーは「渡辺騎手惜しい。うーん悔しい。」と真剣な面持ちで述べていた。
このレースでの主戦騎手渡辺薫彦の騎乗方法に疑問が投げられたが、馬主の山路秀則と調教師の沖は渡辺を降ろさず、秋の初戦・菊花賞トライアルのGII京都新聞杯に臨んだ。しかし、またもアドマイヤベガの2着に敗れた。そして最後の一冠となった菊花賞では、1番人気アドマイヤベガ、2番人気テイエムオペラオー、3番人気ナリタトップロードと3強が形勢されていたが、渡辺は「長く使える脚」を上手く生かし、4コーナーで先頭に立つとそこからラストスパートをかけ、テイエムオペラオーの猛追を振り切りGIを奪取した。次走の有馬記念では4番人気に推されたが、スタートダッシュが効かず7着に敗れた。
[編集] 4歳時(2000年)
古馬となった2000年は、京都記念で2着、阪神大賞典と天皇賞(春)は3着と好走するも勝つことはできず、秋になっても京都大賞典で2着、天皇賞(秋)でも精彩を欠いて5着に敗れた。ジャパンカップでは選出に漏れて除外されてしまい、一週間後のステイヤーズステークスに出走し、圧倒的1番人気に支持されるも直線で伸び切れず4着に敗れ、渡辺薫彦も主戦騎手から外れることになった。その後の有馬記念には前年と前々年で同競争をグラスワンダーで制した的場均が騎乗したが9着であった。
テイエムオペラオーが年間無敗のグランドスラムを達成し、満票でJRA賞年度代表馬に選ばれたのに対し、ナリタトップロードは年間未勝利となってしまった。また、この頃にはテイエムオペラオーのライバルはナリタトップロードではなく、外国産馬メイショウドトウというイメージが強くなっていた。
[編集] 5歳時(2001年)
2001年も的場騎乗で京都記念に出走するも3着に敗れ、続く阪神大賞典からは的場が騎手を引退したこともあって再び渡辺薫彦が騎乗した。この競走では2着のエリモブライアンに8馬身差の圧勝を飾り、3分2秒5の芝3000mのJRAレコードも記録した。ナリタトップロードが長距離の前哨戦を快勝したのに対し、テイエムオペラオーは前哨戦の大阪杯で4着に敗れたこと、メイショウドトウは初の3000m以上の競争となることなどから、その後の天皇賞(春)では2つ目のGI制覇が期待されたが、その2頭に敗れて再び3着に終わる。
秋初戦の京都大賞典では最後の直線でステイゴールドに進路を妨害された際に馬体が接触し落馬。審議の結果ステイゴールドは失格となったが、ナリタトップロードは脚に軽い打撲を負ったため、大事を取って天皇賞(秋)を回避する事態となった。その後のジャパンカップでは武豊騎乗のステイゴールドや宝塚記念優勝馬メイショウドトウなどに先着し、ジャングルポケットの3着に粘った。有馬記念ではその年の菊花賞優勝馬マンハッタンカフェの10着と大敗した。結局、古馬となってからはテイエムオペラオーに一度も先着することができなかった。
[編集] 6歳時(2002年)
テイエムオペラオー引退後の2002年も京都記念から始動した。有馬記念での大敗や60kgの斤量を背負うこともあって3番人気に甘んじたが、マチカネキンノホシとの叩き合いを制し、3度目の挑戦にして勝利する。続く阪神大賞典では前年の年度代表馬ジャングルポケットとの2強を形成したが、レースではそのジャングルポケットらを2馬身切り捨てて快勝し、3年ぶりの重賞連勝と同一GII連覇を達成すると共に、世代の強さをアピールした。
その後は3度目の天皇賞(春)に挑んだ。マンハッタンカフェが前哨戦の日経賞を惨敗したこともあり、東京優駿(日本ダービー)以来となるGIでの1番人気に支持されたが、最後の直線でマンハッタンカフェを捕らえきれず、ジャングルポケットにも差されてまたも3着に敗れた。宝塚記念には出走登録されず、夏場は休養に充てられた。
秋は主戦騎手の渡辺薫彦が怪我で戦列から離れ、四位洋文が騎乗することになった。昨年落馬の憂き目に遭った京都大賞典では後のGI馬ツルマルボーイやタップダンスシチーを下し、この年重賞3勝目を挙げる。天皇賞(秋)は3歳馬シンボリクリスエスこそ差しきれなかったものの古馬最高着順となる2着に入線するが、ジャパンカップでは10着と大敗する。なお、有馬記念以外で掲示板を外したのはこのジャパンカップのみである。
引退レースとなった有馬記念では渡辺薫彦が鞍上に復帰、先行気味にレースを進め、最後の直線でも大外から伸びたがシンボリクリスエスの4着に終わり、4年間走り続けたターフを後にした。
[編集] 引退後
2003年の年初、京都競馬場において菊花賞優勝時のゼッケン1番をつけて引退式が行われた。
引退後は社台スタリオンステーションに種牡馬として繋養された。しかし2005年10月に膀胱結石が見つかり手術を受けるなど治療を受けていたが、11月7日午前1時に心不全のため、奇しくも菊花賞で悲願のGI制覇を成し遂げた6年前と同日に死亡した。アドマイヤベガも2004年10月29日に偶発性胃破裂のため亡くなっており、これで3強のうち2頭が夭逝してしまった。
産駒は2006年にデビューし、同年5月10日に札幌競馬場で行なわれたフレッシュチャレンジ2歳でインパーフェクトが2着に大差を付けて産駒として初勝利を挙げた。
[編集] エピソード
- 勝ちきれない競走が多かったが、常にファンから愛される馬であった。陣営は当初引退レースとして国際GIの香港ヴァーズを予定していたが、ナリタトップロードが有馬記念のファン投票一位に支持されたため、陣営は香港遠征を断念しファンの期待に応える形で有馬記念出走を決断した。結果は4着だったが、レース終了後は勝利したシンボリクリスエスと同じような歓声が上がったという。
- GI勝ちは菊花賞のみだが、GIIは阪神大賞典連覇をはじめ、弥生賞、京都記念、京都大賞典を勝っており、GII優勝数は歴代2位の5勝(1位はバランスオブゲームの6勝)を挙げている。また、天皇賞(春)は3年連続で3着に入線し、有馬記念を3連続3着したナイスネイチャに並ぶ珍記録となっている。獲得賞金はわずかに10億円の大台には届かなかったが、山路秀則の所有馬としては単独2位(1位は三冠馬ナリタブライアン)にランクインしている。
- 有馬記念で3年連続掲示板を外す大敗を喫する、中山競馬場での代替施行となった2002年のジャパンカップで10着になる、確勝を期して臨んだステイヤーズステークスで複勝圏を外すなど、2000m超の中山コースには適性がないと言われている(引退レースを香港ヴァーズに選ぼうとされたのもそのため)。逆に、阪神競馬場では好成績を挙げているにも関わらず、宝塚記念には一度も出走していない。
- 主戦騎手の渡辺薫彦に初重賞制覇と初GI制覇をもたらしたのがナリタトップロードであり、まさに愛馬であった。2005年11月7日にナリタトップロードの訃報があった直後、ベストアルバムに騎乗したエリザベス女王杯での本馬場入場の紹介の際に「ベストアルバム・・・亡き友に健闘を誓う渡辺薫彦です。」という紹介があり、ラジオNIKKEIの競馬ニュースにも「この馬はかけがえのない存在であったので、大変ショックを受けています。今後は彼(ナリタトップロード)の分も、騎手として頑張っていかねばと思っています。」とコメントを残している。
- ナリタトップロードと同父のティコティコタックが優勝した2000年の秋華賞の後、電子掲示板2ちゃんねるの競馬板に「ナリタトップロードの鬱な日記」というスレッドが立てられ、ナリタトップロードの引退までに計16ものスレッドが立てられた長寿スレとなった。中の人が書く秀逸なネタや重賞予想が好評を博したことも事実だが、それだけナリタトップロードがネット住民にも愛されていたということを物語っている。
[編集] 競走成績
1998年(2戦1勝)
1999年(8戦3勝)
- 菊花賞
- 弥生賞
- きさらぎ賞
- 2着 - 東京優駿、京都新聞杯
- 3着 - 皐月賞
2000年(7戦0勝)
- 2着 - 京都記念、京都大賞典
- 3着 - 天皇賞(春)、阪神大賞典
2001年(6戦1勝)
- 阪神大賞典〔3分2秒5の芝3000m日本レコード〕
- 3着 - 天皇賞(春)、ジャパンカップ、京都記念
2002年(7戦3勝)
- 京都記念、阪神大賞典、京都大賞典
- 2着 - 天皇賞(秋)
- 3着 - 天皇賞(春)
[編集] 血統表
ナリタトップロードの血統 (ファイントップ系/アウトクロス | |||
父
サッカーボーイ 1985 栃栗毛 |
*ディクタス Dictus 1967 栗毛 |
Sanctus | Fine Top |
Sanelta | |||
Doronic | Worden | ||
Dulzetta | |||
ダイナサッシュ 1979 鹿毛 |
*ノーザンテースト Northern Taste |
Northern Dancer | |
Lady Victoria | |||
*ロイヤルサッシュ Royal Sash |
Princely Gift | ||
Sash of Honour | |||
母
*フローラルマジック Floral Magic 1985 黒鹿毛 |
Affirmed 1975 栗毛 |
Exclusive Native | Raise a Native |
Exclusive | |||
Won't Tell You | Crafty Admiral | ||
Scarlet Ribbon | |||
Rare Lady 1974 黒鹿毛 |
Never Bend | Nasrullah | |
Lalun | |||
Double Agent | Double Jay | ||
Conniver F-No.18 |
[編集] 血統背景
父サッカーボーイは競走馬としてマイルチャンピオンシップなど重賞を4勝。代表産駒はナリタトップロードの他に、ヒシミラクル、ティコティコタック、キョウトシチー、ツルマルボーイの母ツルマルガールなど。半兄には全日本3歳優駿を制したホウシュウサルーンがいる。