フセイン1世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フセイン1世・ビン・タラール(アラビア語: حسين بن طلال ふせいん・びん・たらーる、1935年11月14日 - 1999年2月7日)は、ヨルダン国王であった。父のタラールが退位して即位した。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 即位前
フセインはヨルダンで中等教育を終え、アレクサンドリアのヴィクトリア大学に入学し、サンドハースト王立陸軍士官学校で教育課程を終えた。
[編集] アブドゥッラー1世死去
1951年7月20日、アブドゥッラー1世は若い孫のフセイン王子と金曜礼拝を行うエルサレムに旅行した。王はアル・アクサモスクの最も聖なる神殿の一つの踏み段でエルサレムの前軍事知事アブドゥッラー・テルとムサ・アブドゥッラー・フセイニ博士に唆された射撃手に暗殺された。暗殺者はフセインを撃ったが、若い王子は祖父が最近授与し着けるよう強要した勲章に偶然にも当たって銃弾から守られたといわれている。
[編集] 即位
アブドゥッラーの長男タラールが即位したが、1年で精神状態が悪いために退位を余儀なくされた(統合失調症を患っていたと言われている[1])。息子のフセイン王子が1952年8月11日に16歳で即位したが、法定年齢以下で、一年後の1953年5月2日に王となった。
[編集] 治世
フセインの治世は、物議を醸した時代で、政治史学者の中には日和見主義という人がいる。中東における西側諸国の聖域であり保護国であると見られていたとはいえ、国内からパレスチナ解放機構排除を命じたヨルダン内戦のような事例もある。ヨルダンは湾岸戦争でサダム・フセインと戦うことを拒否することで西側諸国などの連合軍を無視した。このことは王位を危うくした1988年の紛争後の国内事情があるといわれている。この事件でアラブ世界の殆どの国と仲違いした。1994年、フセイン国王は1970年代に密かにイスラエルと始めたイスラエル・ヨルダン平和条約として戦争状態を終える交渉を終結した。王は3冊の本に書いている。「頭の中の困難」(1962年)、子供時代と王政初期の時期について「イスラエルとの我が戦争」(1969年)、そして「国王の仕事」と。ネタニヤフの書いた本「恒久平和」(1993年、2000年改訂)によると、イスラエルと非公式に平和を得るモチベーションがあり、その代わりにイスラエルが攻撃するならばテルアビブに逃がすと言っていて、ヨルダンに対するイスラエルの政策は、この領域に対するいかなる攻撃も仲裁に入って安全を保証するものだった(明確にシリアとイラクを指している)。
[編集] 平和条約後

フセイン国王は平和条約を交渉したイスラエル首相イツハク・ラビンと強力な連携を発展させた。フセイン国王はイツハク・ラビンの葬儀で力強い演説をしている。
-
- 我が妹、レア・ラビン女史、わが友よ、互いに尊敬する好敵手である男であり兵士である、兄弟であり同僚であり友であった人物をこのように失う時が来ようとは考えもしなかった。違いを乗り越え、融和を図り、互いを知ろうとした男であり、努めてそうした価値ある遺産に続こうとした。そして我々は行った。そして我々は仲間であり友となった。
[編集] ヨルダンの改良
フセイン国王は在位中に物議を醸すことを多く行ったが、その成果はヨルダン人に認められた。第三次中東戦争では王位に踏みとどまり、ヨルダン経済を成長させ、1956年から1963年に年間の支出を倍増させた[2]。ヨルダンの発展を手助けし、更に安定させた。例えば治世の初めに水質と電気に加えて下水処理の確保に留意し、当時は人口10%しか恩恵にあずかれなかったが、治世の終わりには99%に達していた。加えてヨルダンの識字率は33%だったが、1996年には85.5%になり、今も増え続けている。他に成果として個人の摂取カロリーが50%程度までなり、幼児死亡率は減少している。
[編集] 死去
国王は1999年2月7日に非ホジキンリンパ腫に関連する病気を併発して死去した。国王は長年にわたり病気を患い、日常的にアメリカ合衆国ミネソタ州ロチェスターのマヨ医院で治療を受けていた。死の直前に考えを変えて数十年間皇太子だった兄弟のハッサンから長男のアブドゥッラーに皇太子の地位を変更した。その時高熱が繰り返す中で不意に更に治療を受けるために1月25日にアメリカ合衆国の医院に戻った。その週の初めに骨髄移植を受けたが、移植は失敗し、国王は自国で死を迎えることにした。死んだ時点で国王は国際政治で最も長く政権を担った人物の一人であった。[3]
[編集] 私生活
フセイン国王は4回結婚したが、同時に複数の女性とは結婚しなかった。4人の妻は以下の通り。
- Sharifa Dina bint 'Abdu'l-Hamid:エジプト生まれのフセイン国王の父タラール国王の三番目の従姉妹。1955年4月18日に結婚。ケンブリッジ大学を卒業し、カイロ大学英文科の元講師。花嫁は26歳で花婿は19歳であった。1956年に別居し、1957年に離婚し、この時王妃はヨルダンのDina Abdul-Hamid王妃殿下として知られることになった。1963年にエジプト市民になり、1970年10月、パレスチナ解放機構の高官になるパレスチナゲリラの司令官Salah TaamariことAsad Sulayman Abd al-Qadirと結婚した。
- 娘:Alia bint Al Hussein殿下(1956年生まれ)。最初の結婚は、Sayyid Nasser Mirza(1977年、1987年に離婚)、2回目はSayyid Mohammed Al-Saleh(1988年)。共に子供がいる。
- Antoinette Avril Gardiner ('Toni Gardiner'):1941年、イングランドのチェルモディストン生まれ。1961年5月25日よりMuna al-Hussein王妃殿下と呼ばれた。ホッケー選手として受賞経験があり、元タイピストで、旅館の主に転じた英国陸軍軍人ウォルター・パーシー・ガードナー中佐の娘で、Muna al-Hussein王妃殿下の称号を与えられ、離婚しても保持している。
Muna al-Hussein王妃はイスラーム教に改宗しなかったとしばしば考えられている。しかし、ヨルダン憲法第6第1節第28条e項でムスリムである妻から生まれた者を正当な王位継承者として求めている。現国王アブドゥッラー2世がMuna al-Hussein王妃の息子である事実は、王妃が改宗したことを証明している。Munaが改宗していなければ、アブドゥッラー2世やファイサル王子、その他の子供たちは王位継承権を失っていたであろう。- 子供:
- アブドゥッラー2世陛下(1962年生まれ)ヨルダン王国現国王。
- ファイサル・ビン・アル・フセイン殿下1963年生まれ。中将、前王立ヨルダン空軍司令官。現在Aliya al-Faisal王妃殿下として知られるAliya Tabaaと結婚し、一男三女がいる。
- Aisha bint Hussein殿下1968年生まれ。王立ヨルダン陸軍准将。Sayyid Zeid Jumaと結婚し、一男一女がいる。
- Zein bint Hussein殿下1968年生まれで、Aishaとの双子。Sayyid Majdi Al-Salehと結婚し、一男一女と養子にした娘がいる。
- 子供:
- Alia Baha el-Din Toukan Alia al-Hussein王妃陛下 1948年-1977年。アリア王妃国際空港の名前の由来になっている。ヨルダンのアンマンのヘリコプター事故で死去した。
- 子供:
- Haya bint Hussein殿下 1972年生まれ。ドバイを統治するMohammed bin Rashid Al Maktoumと結婚した。
- Ali bin Hussein of Jordan殿下 1975年生まれ。現在Rym Al-Aliとして知られるRym Brahimiと結婚し、娘が一人いる。
- 養女:アビル 1972年生まれ、1976年に養子になる。アメリカ合衆国メリーランド州グレンコーのOldfields Prep Schoolに通った(全寮制)。
- 子供:
- Lisa Najeeb Halaby、(イスラーム教に改宗してNoor al Hussein王妃となる。
- 子供:
- Hamzah bin al Hussein殿下 1980年生まれ。Asem Abu Bakar殿下と最初の妻Firouzeh Vokhshouriの三女Noor bint Asem殿下と結婚した。結婚によりNoor Hamzah殿下となった。
- Hashim bin al Hussein殿下 1981年生まれ。Fahdah殿下と結婚した。
- Iman bint Hussein殿下 1983年生まれ
- Raiyah bint Hussein殿下 1986生まれ
- 子供:
加えて、1986年に殺された1950年代のB級映画女優スーザン・キャボットとの恋愛を公表している。息子が殺人容疑で告発されると、フセインは自分が父親ではないかと勘付いたが、証拠は何もなかった。
フセイン国王はアマチュア無線に没頭していた(コールサインはJY1)。ヘリコプター同様に飛行機の操縦も好きだった。
The Tonight Show with Jay Lenoに出演した俳優でコメディアンのマイク・マイヤーズによると、フセイン国王は映画シリーズ『オースティン・パワーズ』の大ファンで、防衛担当官や米軍の高官と会う時は登場人物のドクター・イーブルの物まねをしていたほどだったという。
フセイン国王の王位は、アブドゥッラー2世が継承した。
[編集] 軍階級
フセイン国王は以下の階級を保持していた:[4]
- ヨルダン・アラブ陸軍元帥
- 王立ヨルダン空軍元帥
- 英国空軍名誉大将
- エジプト陸軍名誉元帥
[編集] 出典
- ^ 原注:[要出典]
- ^ "King Hussein is dead: A fateful decision in the Six-Day War", CNN, 1999-02-07.
- ^ "King Hussein is dead", CNN, 1999-02-07.
- ^ Al-Hashimi Dynasty - Genealogy, The Royal Ark - Royal and Ruling Houses of Africa, Asia, Oceania and the Americas. Retrieved on 19 February 2007.
[編集] 外部リンク
- Obituary, NY Times, February 8, 1999 Death of a King; Cautious King Took Risks In Straddling Two Worlds
- A Living Tribute to the Legacy of King Hussein I - official Royal Jordanian memorial website
- Slide Show - Personal Tribute Page
|
|