ルイス・キャロル
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ルイス・キャロル(Lewis Carroll、1832年1月27日 - 1898年1月14日)は イングランド中東部チェシャ州ダーズベリ出身の、イギリスの数学者、論理学者、写真家、作家、詩人である。
キャロルの本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(Charles Lutwidge Dodgson:「Dodgson」の実際の発音は「ドジソン」ではなく「ドドソン」に近いが[1]、この記事では慣例に従い「ドジソン」と表記する)であり、作家として活動する時にルイス・キャロルのペンネームを利用した。
作家としてのルイス・キャロルは、『不思議の国のアリス』の作者として非常に有名であり、「かばん語」として知られる複数の語からなる造語など、様々な実験的手法で注目されている。数学者としては、チャールズ・ドジソン名義で著作を出している。
キャロルの言葉遊びやロジック、幻想文学に対する才能は、最も素朴な読者から最も洗練された読者まで、多数の読者を惹き付けてやまない。キャロルの作品は出版以来人気を博し続けており、その影響は児童文学の域に止まらず、ジェイムズ・ジョイスやホルヘ・ルイス・ボルヘスのような20世紀の作家らにも及んでいる。
目次 |
[編集] 生い立ち
ドジソンの一族はアイルランド系の血を含む北部イギリス人であった。保守的な英国国教徒であるドジソンの先祖の大半は、軍人か聖職者という英国の上層中産階級における二つの伝統的職業に従事していた。ドジソンの曽祖父である同名のチャールズ・ドジソンは教会の序列において主教にまで達し、同じく同名の祖父チャールズは陸軍大尉であった。この祖父は1803年に、二人の息子がほとんど赤ん坊の頃、任務中に死亡した。
この息子たちの内、父の名を継いだ兄チャールズはもう一つの先祖代々の職業である聖職に就き、ウェストミンスター学校からオクスフォード大学のクライスト・チャーチ・カレッジに進んだ。チャールズは数学に対して天賦の才能を示し、二度にわたり首席の成績を収め、大いに将来を嘱望された。しかし、チャールズはそうする代わりに1827年に従姉妹フランシス・ジェーン・ラトウィッジと結婚し、無名の教区牧師としての隠遁生活の道を選んだ。
1832年1月27日、彼の息子であるチャールズ(後のルイス・キャロル)は、チェシャ州ウォーリントン、ダーズベリの小さな牧師館において、両親の4年半の結婚生活の後に、二人の姉の下の長男として産まれた。更に八人の子供がドジソン家に生まれ、当時としては特筆すべきことであるが、兄弟全員(女7人、男4人)が成人期まで生き残った。チャールズが11歳の時に、彼の父はヨークシャー州クロフトに転任し、一家は広々とした教区館に引っ越した。ドジソン一家は以後25年間にわたりこの教区館で生活した。
父ドジソンは教会の序列において出世を果たし、多くの説教集の出版や、テルトゥリアヌスの翻訳を行い、リッポン大聖堂の大執事に就き、英国国教会を二分した激しい宗教論争に関わり、しばしば影響を及ぼしていた。父ドジソンは高教会派であり、アングロ・カトリック主義者であり、神学者ジョン・ヘンリー・ニューマンとトラクト運動の賛同者であり、彼の子供らにもそれらの見解を教え込むことに最善を尽くしていた。
幼年期のチャールズは家庭内で教育されていた。ドジソン家で保存されていた読書記録が、チャールズの早熟な知性を示している。7歳にして、チャールズは『天路歴程』に目を通していた。チャールズは生まれつきの左利きであり、この性癖が無理矢理に矯正されたことで精神的な傷を負ったと、しばしば主張されている。しかし、これを裏付ける証拠文献は存在しない。また、チャールズは生涯にわたり彼の社会生活に影響を及ぼした、吃音という障害を持っていた。12歳の時に、チャールズはリッチモンドの小さな私立学校に入学し、彼はそこで申し分なく落ち着いたように見えた。しかし、1845年にチャールズはラグビー校に転校し、明らかにそこでは以前ほど幸福ではなかった。数年後にラグビー校を離れるにあたり、チャールズは以下の文章を記している。
「地球上のいかなる報酬も、私の三年間をもう一度繰り返させることはできないでしょう……もし正直に言って構わなければ、夜の煩悶に捕らわれなければ、私の日常の苦労はより耐え得るものとなっていたでしょう」
この「夜の煩悶」について完全に理解することはおそらく不可能であろうが、ここでチャールズは、性的な悩みについて遠回しに触れているのであると考えられる。しかしながら学問の分野において、チャールズは衆に抜きん出ていた。数学講師のR・B・メイヤーは「ラグビー校に赴任して以来、彼の年齢で彼ほど有望な少年を見たことがない」と述べている。
[編集] 学究生活
1850年の終りにドジソンはラグビー校を卒業し、休養期間をおいて、1851年1月に父の母校であるオクスフォード大学のクライスト・チャーチ・カレッジに入校した。オクスフォードに入学して僅か二日後に、ドジソンは実家から呼び戻された。おそらくは髄膜炎か脳梗塞と思われる脳炎により、母フランシスが47歳にして死んだのである。
母の死から受けた感情がいかなるものであれ、ドジソンのオックスフォードでの学業が惑わされる事はなかった。ドジソンは常に熱心な学生という訳ではなかったが、卓越した才能の持ち主であり、優秀な成績を収めていた。翌年、ドジソンは文学士号第一次試験に合格し、父の旧友エドワード・ピュージーから、スチューデントシップ(クライスト・チャーチにおける特別研究員)に指名された。
ドジソンの学者としての経歴は、周囲の過剰な期待と彼の集中力散漫によってその進路を変えられた。自身の怠慢により、ドジソンは重要な奨学金試験に失敗した。しかし、未だ輝きを失わない数学者としての才能は、1854年にクライスト・チャーチを最優秀の成績で卒業した後に、ドジソンに同校の数学講師の地位をもたらした。以降26年間にわたり彼はその仕事を続けた。講師職の収入は充分なものであったが、仕事は退屈なものであり、ドジソンの吃音は仕事の妨げとなった。生徒の多くはドジソンよりも年上で金持ちであり、ほぼすべてが授業に興味を持っていなかった。生徒は教えてもらいたがらず、ドジソンは教えたくなかった。互いの無関心が教室を支配していた。
また、オックスフォードでドジソンはてんかんであると診断され、これは当時の社会では非常に不名誉なことであった。しかしながら、近年のシカゴ・イリノイ大学てんかん診療所の理事ジョン・R・ヒューズは、キャロルのてんかんは誤診であった可能性を主張している。
[編集] 写真
1856年に、ドジソンは当時の新しい芸術形式である写真術に凝り始めた。この趣味は叔父のスキフィントン・ラトウィッジの影響により始まり、後にはオクスフォードの学友であるレジナルド・サウジーや芸術写真の開拓者であるオスカー・ギュスターヴ・レイランダーからも影響を受けた。
ドジソンはたちまち写真撮影の技術に習熟し、写真術は彼個人の内面的な哲学、すなわち彼が「美」と名付けた物への信仰を表現する手段となった。ドジソンにとって「美」とは、道徳であり、芸術であり、物質的完全性であった。ドジソンが信仰する美は、単なる魅力的な情景にはとどまらず、詩的な単語であり、数学の方程式であった。そして、おそらく至高の物は人間の体であり、ドジソンは人物写真に傾倒することとなった。
写真術を始めた頃のドジソンは、彼自身の表現を介して、自由と美のイデアを、エデンの園のイノセンスに結び付けることを志していた。そこでは人々が恥じらいに囚われることなく、体と心を通じ合うことができた。中年に達した時に、ドジソンはこの哲学を、カリスたちの座である美の追跡という形式へと再構築した。これは、失われたイノセンスの回復を意図するものだった。この長年にわたる写真術への情熱により、ドジソンはヴィクトリア期の道徳や、一家の伝統である高教会派の信仰と対立せざるをえなくなった。キャロルの伝記作家であるモートン・コーエンはこう記している。「ドジソンはカルヴァン主義における原罪理論をまったく拒絶し、生まれながらの神性という概念がそれに取って代わった」。
現存するドジソンの写真作品の完全な一覧は、ロジャー・テイラーによる『Lewis Carroll, Photographer』(2002年)に掲載されており、テイラーの計算によれば、現存する作品の半分以上は少女を撮影したものである。しかしながら、後述するように、現存する写真はドジソンの全作品の三分の一に満たないことに注意せねばならない。ドジソンのお気に入りの被写体はエクシー(Xie)ことアレクサンドラ・キッチンであり、エクシーが4歳から16歳までの期間にわたり、約50回の撮影を行っている。1880年にドジソンは16歳のエクシーの水着写真を撮影する許可を取り付けようとしたが、これは許されなかった。ほぼすべての少女写真では、被写体の名前が写真の角に色付きインクで記されている。おそらくドジソンにより撮影された少女のヌード写真は、いずれもドジソン自身により破棄されたか、家族に返却されたものと推測されている。これらのヌード写真は長い間失われていたと考えられていたが、6枚が発見され、その内の4枚が公開されている。少女ヌードの撮影やスケッチは、後の章で述べるように、長らくドジソンを小児性愛者であるとの推測に結び付けてきた。ドジソンの少女写真と他のヴィクトリア期の芸術表現には、明確な違いが存在した。ドジソンによるほぼすべての少女写真は、ヴィクトリア期における象徴主義のくびきから自由であり、被写体の少女自体を前面に押し出している。
ドジソンは、写真術が上流の社交サークルへのデビューに役立つのにも気付いた。ドジソンは彼個人の写真館を所有し、ジョン・エヴァレット・ミレー、エレン・テリー、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジュリア・マーガレット・キャメロン、アルフレッド・テニスンらの肖像写真を撮影している。ドジソンはまた、多くの風景写真や解剖写真も撮影した。
ドジソンは1880年に、唐突に写真術をやめてしまった。24年の間に、ドジソンはこの表現手法を完全に習得し、クライスト・チャーチの中庭には彼自身の写真館を持ち、約3000枚の写真を撮影していた。これらの写真の内、1000枚足らずが破損を免れて現存している。ドジソンは毎日数時間を費やして、個々の写真の撮影状況に関する詳細な記録を書き残していたが、この記録は失われてしまった。
モダニズムの到来に伴う時代の移り変わりにより、1920年代から1960年代まで、写真家としてのドジソンは忘れ去られていた。現在では、ドジソンは近代の芸術写真に大きな影響を及ぼした、ヴィクトリア期における優れた写真家の一人であると見なされている。
[編集] 人物
若い頃のチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは、カールした茶色の髪と青い目を持ち、身長約6フィート(180センチ)のすらっとしてハンサムな、夢見心地な表情の青年であった。17歳の終りの頃に、ドジソンは重い百日咳を患い、右耳の聴力に障害を負った。おそらくこの百日咳は、彼の後の人生における慢性的な肺の弱さの原因となった。ドジソンが成人期まで引きずった唯一の明らかな欠点は、彼自身が「ためらい(hesitation)」と名付けていた吃音癖であった。この性癖は幼少期に身につき、生涯にわたりドジソンを苦しめた。
吃音はキャロルを取り巻く神話の重要な一部である。ドジソンが吃音を起こしたのは大人との交際の時のみであり、子供相手には自由にすらすらと喋れたというのがキャロル神話の一つであるが、この主張を裏付ける証拠は存在しない。ドジソンと面識のあった多くの大人が彼の吃音に気付かなかった一方で、多くの子供が彼の吃音を記憶している。ドジソンの吃音は紋切り型の大人の世界への恐怖に由来するものではなく、生来のものであった。ドジソン自身は、彼が出会ったほとんどの人々よりも自分の吃音を深く気にしており、『不思議の国のアリス』においては、発音し辛い彼のラスト・ネームをもじった「ドードー」として、自分自身を戯画化している。吃音癖はしばしばドジソンに付きまとい彼を悩ませてはいたが、社交生活における他の長所を打ち消すほどひどい物ではなかった。
ドジソンは生まれつきの社交性と強い自己顕示欲を持っており、周囲の注目を引きつけ称賛されることに喜びを覚えていた。人々が社交上の技術として、彼ら自身の娯楽のための歌唱や詩の朗誦が求められていた時代、若いドジソンは魅惑的な芸人としての技術を身に備えていた。ドジソンは聴衆の前で歌うことを恐れてはおらず、それなりの歌唱力を持っていた。ドジソンは物真似と物語の達人でもあり、彼のジェスチャーゲームは好評を博していた。
ドジソンは社会的にも野心家であり、作家か画家として何らかの方法で世間に才能を示すことを切望していた。ドジソンが最終的に写真術に転向したのは、おそらく画家としての才能が不十分であることを自覚したためだと考えられる。あるいはドジソンの学者として成し遂げた業績は、彼が芸術の分野で達成することを望んでいた成功を、埋め合わせるためのものだったのかもしれない。
初期の創作と『不思議の国のアリス』の成功の間の期間に、ドジソンはラファエル前派の社交サークルに入会した。ドジソンは1857年に美術評論家ジョン・ラスキンと知り合い、親しい友人となった。ドジソンは画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティと家族ぐるみの親密な交際を行い、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレー、アーサー・ヒューズといった画家達の知り合いでもあった。ドジソンは幻想作家のジョージ・マクドナルドとも知り合い、ドジソンが『アリス』の原稿を出版社に送る決心をしたのは、マクドナルドの娘の熱心な勧めによるものであった。
[編集] 創作
創作の分野において、キャロルは詩や物語を執筆して多数の雑誌に寄稿し、それなりの成功を収めていた。1854年から1856年の間に、キャロルの作品は『The Comic Times』誌と『The Train』誌のような国民的雑誌や、『Whitby Gazette』誌や『Oxford Critic』誌のような、より小規模な雑誌に掲載された。
キャロルの作品の大半はユーモラスなものであり、しばしば風刺的であった。しかし、キャロルの目標と志は遥かに高い所にあった。1855年7月にキャロルは書いている。「私はまだ、(『Whitby Gazette』や『Oxonian Advertiser』での作品も含め)本当に出版に値するものを書いたとは思っておりません。しかし、いつの日か出版に値するものを書くことを諦めてはおりません」。『不思議の国のアリス』出版の数年前から、キャロルは子供向けの本によって収入を得るという考えを暖めていた。「売り上げを博するクリスマス・ブック――マリオネット劇場製作の実例」年を経るにつれ、この考えは洗練されていった。しかし、金銭的収入に向けられたキャロルの抜け目のない心は、常にこの考えにとどまり続けた。
1856年に、キャロルは後に有名になった筆名による最初の作品を発表した。『The Train』誌に発表された Solitude(孤独)と題された短い詩の上に、「Lewis Carroll(ルイス・キャロル)」の名前が記された。この筆名は彼の本名のもじりであった。「Lewis」は「Lutwidge(ラトウィッジ)」のラテン語名である「Ludovicus」を英語化したものであり、「Carroll」は「Charles(チャールズ)」のラテン語名である「Carolus」を英語化したものである。
同年に、新しい学寮長であるヘンリー・リデルが、妻子を伴ってクライスト・チャーチに転任してきた。リデルの家族は、続く数年間においてドジソンの人生における重要人物となった。キャロルはリデル家、特にロリーナ、アリス・リデル、イーディスの三姉妹と親しく交際した。ゴッドストゥやニューナムでのリデル三姉妹を連れてのボート遊びは、一種の習慣となっていた。
1862年7月4日、ドジソンはリデル三姉妹および友人ロビンソン・ダックワースとの、アイシス川へのピクニックの途上において、最終的に彼にとって最初にして最大の商業的成功をもたらした、ある物語の筋書きを生み出した。最初の『アリス』の物語である。口頭で語った物語を、ドジソンはアリス・リデルから文章に書き起こすようにせがまれた。下書きの執筆は第2回ロンドン万国博覧会見物のための列車内で行われ、1863年2月10日に本文が完成した。1864年9月13日に書き上げられた手書きの挿絵を添え、 同年11月26日に「親愛なる子へのクリスマスプレゼントとして、夏の日の思い出に贈る」との献辞と共に、『地下の国のアリス』と題された肉筆本がアリスに贈られた。後にドジソンはその写本をマクミラン社に示し、直ちに好意的な反応を得た。公式出版にあたり、ドジソンは『アリス』の本文を1万2715語から2万6211語へと書き足した。仮題である『Alice Among the Fairies(妖精の国のアリス)』と『Alice's Golden Hour(アリスの黄金の時間)』が却下された後に、ついに『不思議の国のアリス』は、ルイス・キャロルの筆名により1865年に出版された。公式に出版される本には専門の画家の技術が必要であるとのドジソンの判断により、挿絵はジョン・テニエルが手掛けた。
『不思議の国のアリス』の即時的かつ驚異的な成功により、著者の人生は事実上二分されてしまった。ドジソンとしての現実の人生と、ルイス・キャロルの周囲に展開する神話の二つにである。キャロルは金銭的に成功し、彼の物語から人口に膾炙するようになった、もう一人の人格が作り上げられた。『不思議の国のアリス』の著者として知られている、少女と浮世離れした変人のイメージである。
押しも押されもせぬ名声と富を築き上げる中で、ドジソンは1881年までクライスト・チャーチの教職を続け、死ぬまでそこの住居に留まった。キャロルは1872年に『鏡の国のアリス』を発表し、1876年にはジョイス的な模擬英雄詩『スナーク狩り』(この本は、アリス以降の重要な子供友達であるガートルード・チャタウェイに捧げられている)を発表した。1886年12月22日には、『地下の国のアリス』の複製本が5千部出版された 。1889年と1893年には、最後の小説である『シルヴィーとブルーノ』の各巻を発表した。
キャロルは自分が書いた手紙について記録を残しているため、膨大な量の手紙を書いた事が知られている。キャロルは、アリスのレターセットと、パンフレット『手紙を書く際の八、九の心得』を出版している。
ドジソンはまた彼自身の本名により、多数の数学論文や著書を発表している。不思議の国のアリスが好評を博し、ヴィクトリア女王が他の著作も読みたいと依頼したところ、難解な書物が送られてきて面食らったという逸話が残っている。しかし、キャロル本人は、その逸話が事実無根であると否定している。
1898年1月14日、ドジソンはギルフォードにある姉妹の家に滞在中に、インフルエンザによる肺炎で死亡した。それは、66歳の誕生日を間近に控えた日の事であった。ドジソンは死後、ギルフォードのマウント・セメタリーに埋葬された。
[編集] その他の主な作品
- An Elementary Treatise on Determinants
- Symbolic Logic
- Euclid and his Modern Rivals
- The Alphabet Cipher
- What the Tortoise Said to Achilles.)
- Hiawatha's Photographing (a parody of The Song of Hiawatha)
[編集] 発明
ルイス・キャロルは当時の様々な技術的問題についても関心を示していたと考えられる。キャロルが新技術を理解し使用できたという事実は、彼のカメラの使用によって裏付けられている。当時のカメラは、現在のような扱いやすい装置ではなかった。
これらの発明の内の一つが、1891年11月24日のキャロルの日記に見られるニクトグラフィ(Nyctography)と呼ばれる筆記法と、そのための道具ニクトグラフである。この発明は、キャロルが夜間に思い付いたアイデアでもそれを書き留めるまでは眠りに就くできなかったにも関わらず、ベッドに戻るまでに照明の点灯などのわずらわしい手順を嫌ったことから生まれた。キャロルが発明したのは格子状に正方形の穴が配列されたカードであった。このカードの左上の穴を通して点を書き、他の穴へと点を書き進めていくことにより、書き手は彼の望む文字や数字のようなシンボルを表現することができた。ニクトグラフィによる文章が現存しないことから、この方法は長い文章には用いられなかったと思われる。しかし、キャロルがニクトグラフィによる短いメモを書き止めておき、後に日記の文章として書き直した可能性は充分に考えられる。キャロルはまた、ワード・ラダーと呼ばれる単語パズルも考案している。
[編集] 少女愛者説
少女への飽く事なき関心や、多くの「子供友達」の存在、オスカー・ギュスターヴ・レイランダーによる初期の児童写真の蒐集、少女俳優制度の改革以前のロンドン劇場への愛着、少女のヌード写真やセミヌード写真あるいはスケッチといったキャロルの作品に関わる心理分析は、キャロルが少女愛者(ロリータ・コンプレックス)であったとの憶測を呼び起こしている。
キャロルはその作品と人生から少女愛者として考えられ、伝えられる事が多い。『ロリータ』の作者ウラジーミル・ナボコフも彼の作品と人生に影響を受けており、ナボコフはルイス・キャロルを「最初のハンバート・ハンバート(小説ロリータの主人公の中年男)」と呼んでいる(James Joyce,Lolita in Humberland)。
当時は児童のヌード写真は珍しいものではなかったとの主張により、議論はさらに複雑になっている。ヴィクトリア期におけるキャロル以外の著名な児童ヌード写真撮影家としては、ジュリア・マーガレット・キャメロンやフランシス・メドウ・サトクリフがいる。
「キャロル神話」と名付けられたキャロライン・リーチによる物議を醸した調査報告によれば、ドジソンを少女愛と関連付けた最初の発想は、1932年のラングフォード・リードによる『The Life of Lewis Carroll』の中で現れる。リーチによれば、キャロルと少女達の友情は、彼女らが思春期、すなわち1870年代のイギリスにおいては16歳前後の年齢に達すると共に、常に終りを告げたと最初に述べたのはリードであった。ただしリードの主張は、あくまでキャロルが肉欲によって汚されていない、純粋な男性であった事を強調するためのものであった。ドジソンが思春期以降の女性には興味を持たなかったとする主張は、後の伝記作家らによって受け継がれた。ドジソンの遺族らがドジソンの日記や手紙類を公開することを拒否したため、これらの伝記作家は、その主張と相反する資料には気付かないままであった。
大人の世界を拒絶し、子供らとの交際に専念するドジソン像は、フローレンス・ベッカー・レノンによる『Victoria Through the Looking-Glass』(1945年)や、後世のキャロル像に大きな影響を与えたアレキサンダー・テイラーの『The White Knight』(1952年)においても、主張され続けてきた。ドジソン少女愛者説の一つとして伝えられている、キャロルが13歳のアリス・リデルに求婚したという逸話は、後述するリーチの研究によれば、「キャロルは一種のピーター・パンであった」という仮説を提示したフロレンス・ベッカー・レノンの伝記により広められた(しかしながら、この逸話を裏付ける一次資料は存在しない)。これらのドジソン像は、ドジソンの子供に向ける関心が無垢なものであると解釈するか、小児性愛的なものと解釈するかの違いにより、別の傾向を帯びた。この後、主にジャーナリズムの世界で俗流のフロイト風解釈により「少女愛者」像が生まれた。
ドジソンの少女愛者説は1995年のモートン・コーエンによる『Lewis Carroll, a Biography』により再提起させられた。コーエンは、ドジソン自身は彼の少女ヌード写真を審美的な物と主張していたが、ドジソン自身も自覚しない少女に対する情緒的な愛着を、ドジソンは抱いていたのであると述べている。
コーエンは更に撮影に際して少女の母親が同席するよう求められていたことに着目し、ドジソンが「彼自身の過ちに対する保険」としてこれらの用心策を用いていたのではないかと、前掲書228-229ページで疑問を呈している。コーエンは「ドジソンの少女ヌード写真は多くの友人から、なんらのエロチシズムも感じさせないと納得されていたもの」であることを認めつつも、続けて「後の世代はその表層の下にあるものを見た」と付け加えている(229ページ)。
少女のヌード写真に関わるドジソンの揉め事についての唯一の記録は、ドジソンとメイヒュー一家についてのものである。1879年にドジソンはオクスフォードの学僚であるアンドリュー・メイヒューに対して、コーエンが言うところの「いくつかの興味をそそられる手紙」を書き送っている。コーエンの記述によれば、ドジソンは他の大人の立会いなしで、メイヒュー家の6歳と11歳と13歳の三人の娘たちのヌード写真を撮影する許可を求めようとした。メイヒューの両親はそれ以前はドジソンによる娘らの撮影を認めていたにも関わらず、この申し出を拒絶した。更にコーエンはこれと同時期に、ドジソンとメイヒュー一家が「突然の絶縁状態」に陥ったことを注記している。リーチはこの問題は幼い妹たちの撮影によるものではなく、ドジソンが年長の姉の体を正面から撮影しようとしたことによるものと主張している。
[編集] キャロライン・リーチの研究および「キャロル神話」
ドジソンの性的傾向に関する新たな分析は、キャロルの伝記の変遷についての研究を含む、キャロライン・リーチの『In the Shadow of the Dreamchild』(1999年)の中で現れた。リーチはドジソンが少女愛者であるとする主張は、ドジソンが成人女性に興味を持たなかったという伝記作家による誤まった見解と共に、ヴィクトリア期の倫理観に対する無理解から生まれたものであると主張している。リーチはこの単純化された架空のドジソン像を、「キャロル神話」と命名した。
リーチの述べるところによれば、一次資料を参照する限りでは実際のドジソンの生活は巷間に受け入れられている伝記中のイメージとは全く異なるものであった。現実のドジソンは大人の女性に対しても強い関心を抱いており、既婚や独身の多くの女性との交際を楽しんでいた。これらの女性の多くは、成人後もドジソンとの良好な関係を続けていた「子供友達」であったが(これにより、ドジソンが14歳以上の女性に興味を持たなかったとする説は完全に論破されてしまった)、キャサリン・ロイド、コンスタンス・バーチ、エディス・シュート、ガートルード・トムソンらの女性は成人してからドジソンと出会い、親密な友情を築き上げている。当時の大学教員は教会の聖職者の扱いであり、子供と親しいことよりも、大人の女性と親しいことがスキャンダルとなった。ドジソンの遺族らが故人の評判に配慮して、前述の成人女性との交際のあらゆる記録を長年にわたり隠匿したことから、ドジソンは子供にしか興味を持たなかったという誤まったイメージが生まれた。その結果、ドジソンは少女愛者だったという主張が広まった。このリーチの主張は、いくつかの古典的なドジソン少女者説を否定するのに貢献した。
リーチの主張は以下の通りである。ドジソンの社会的な不名誉は、子供のヌードモデルの使用よりも、むしろ年長のモデルに対する水着や慎みに欠ける衣装の着用の要望により引き起こされたものである。これらの露出度の高い衣装を着用した年長のモデルの写真がすべて破棄されたために、少女の写真だけが批評の対象として残された、という。
『Victorian Studies』(Vol.43, No.4)での批評 において、ドナルド・ラッキンは、「一個の学術的研究として、キャロライン・リーチの『In the Shadow of the Dreamchild』を真剣に受け止めることは困難である」と評している。In the Shadow of the Dreamchildにおいてキャロライン・リーチの唱えた説は、大きく二つに分かれる。一つは、キャロルの少女愛者像を否定するもので、もう一つはリデル学寮長夫人とキャロルが一種の愛人関係にあったというものである。後者の愛人説は反論も多く、まともな学説として受け入れられている状態であるとはいいにくい。しかし前者の小児性愛者でなかったという前提そのものは、エドワード・ウェイクリングやダグラス・R・ニッケルなどの多くの研究家に支持されている。2003年10月にレンヌで行われた、第二回国際ルイス・キャロル会議では、キャロルの「少女愛者」像は、はっきり「神話である」と扱われている[2]。