上町台地
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上町台地(うえまちだいち)とは、大阪城付近、天満橋の辺りから南の天王寺へ抜ける大阪市内の台地である。
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[編集] 上町台地の範囲と成り立ち
明確に上町台地を画するものはなく、古地図や戦後実施された大学や行政等の地層断層検査などの結果から5世紀頃において既に砂嘴として形成されていたと予想される部分を上町台地と推定している。 上町台地は縄文期には東西を河内湾と瀬戸内海に挟まれていた半島状の砂嘴だったと考えられており、弥生期から現在に至る期間を経て台地東部(東成地区の語源と言われる)は淀川・大和川水系から運ばれる大量の土砂が堆積し、河内湾が河内湖、湿地帯を経て沖積平野となり、台地西部(西成地区の語源と言われる)も同じく河川の働きにより大阪市の中枢部を含む平野を形成するにいたった。台地東部への下りが比較的なだらかなのに対し、台地西部への下りが急峻であるのは台地東部が淀川・大和川水系の上流に位置し、土砂の堆積量が豊富なためで、台地西部は標高が低く大阪湾平均水面より低いゼロメートル地帯が広く分布している。なお、台地の標高は最も高い大阪城天守閣跡で38メートルであり、北部はストンと淀川水系の大川に落ち込み、南部へはなだらかに下り北の大阪城大手町付近で24メートル、中央部の天王寺交差点付近で16メートル、帝塚山付近で14メートルの標高を保つが、南部の万代池南方から急速に標高を失い住吉大社付近で6メートルとなり細井川を越えた台地南端の住吉区清水丘では標高は2~3メートルとなっている。
もともと、江戸時代までは河内(かわち=大阪南西部の旧国名)を形成していた大和川が柏原から北へ蛇行し現在の東大阪市から大東市あたりに大きな池を作り、現在の天満橋の辺りで淀川(大川)と接合して海へ流れていたことから、上町台地の北の端は大阪市中央区天満橋あたりであり、南の端は住吉区の苅田付近までにわたる。行政区としては、中央区の東部分、天王寺区、阿倍野区、住吉区北端と南部の一部にわたっている。
さらに広く砂州の形成にさかのぼって見ると上町台地の南端は泉北丘陵につながっている。すなわち、江戸時代に開削された現在の大和川を越えて堺市の浅香山、三国ヶ丘、百舌鳥古墳群周辺、泉北ニュータウンの丘陵地となる。なお、堺市内では三国ヶ丘台地と名を変える。上町台地上には当然ながら「○○山」や「○○丘」という地名が多く、北から天王寺区の「真田山」、「北山」、「桃山」、「夕陽丘」、「茶臼山」、阿倍野区の「晴明丘」、「丸山」、住吉区の「帝塚山」、「清水丘」、堺市に入って「浅香山」、「香ヶ丘」、「三国ヶ丘」、「向ヶ丘」と続く。
また、河内湖の形成過程では天満橋の台地北端からさらに北へ砂州がつながり、半島状の上町台地は完全に両端が陸域化された。大阪湾の北岸は千里丘陵のすぐ下、吹田市の豊津や高浜といった地名があるあたりにあり、そこへ上町台地からの砂州が大阪市の東三国か吹田市の江坂辺りまで伸び、淀川や大和川の流れ込む河内湾と大阪湾は垂水(現在の吹田市垂水付近)というわずかな幅の水路でつながっているだけだった。そのため、時代が下がるにつれて河内湾は河川水による淡水化が進み河内湖となる。仁徳天皇は河内湖と大阪湾をつなぎ、河から海への水運や、河内湖の排水をスムーズにするため、現在の天満橋のあたりで砂州を掘って河内湖と大阪湾を直結する難波の堀江という運河を作ったといわれている。
なお、途中で台地が途切れているのは、掘割工事や河川の付替えが行われたためとされている。江戸時代の大和川付け替えが典型的な例であるが、それ以前にも上町台地を開削して河内の水を大阪湾に流そうという試みはあった。難波の堀江のほかにも、延暦7年(788年)に和気清麻呂が大和川の水を大阪湾に流すため四天王寺の南を開削しようとしたが失敗したとされている。天王寺公園北側の茶臼山にある「河底池」や、付近の谷町筋の起伏、堀越町という町名などはこの跡地と思われる。
[編集] 上町台地開発と大阪の歴史
古くから大阪湾に突き出した高台であったこの土地は、西日本各地や中国・朝鮮との交易が盛んになるとともに次第に重要となる。 本格的に開けたのは西暦593年、聖徳太子が建立した日本最古の官寺、四天王寺が始まりとされており、以後、四天王寺の西大門から難波津に沈む夕日を望む西方浄土信仰と重なり、仏教信仰、とりわけ浄土信仰の隆盛とともにその中心地の一つとして栄えていくこととなった。四天王寺や住吉大社、熊野に詣でる人たちは上町台地の西にあった渡辺津(今の天満橋周辺)で船を下り、そこが熊野街道の基点であった。四天王寺から熊野街道、庚申街道などが走り多くの人たちが救いを求めてこの地を往来した。平安から鎌倉、室町にかけてはこの渡辺津と四天王寺周辺が大きな商業都市として栄えている。渡辺津は、嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)を祖とする渡辺氏をはじめとする武士団の生まれた場所でもあり、彼らの水軍の拠点として瀬戸内を束ねる場所でもあった。
ちなみに大坂とは四天王寺の西大門から難波津へ下る坂の名称で、後に町全体を指すようになったもの。
645年の大化の改新の時には、首都の難波長柄豊埼宮(なにわの・ながらの・とよさきのみや)が上町台地北端に造営され、その後も首都や副都としての難波京が置かれた。 後年、ほぼ同じ場所である上町台地北端に、蓮如により石山本願寺が開かれ、全国の浄土真宗の総本山となる。 その後、石山本願寺は織田信長による10年にもわたる激しい攻撃の末、ついに陥落した。信長はこの地に壮大な城を築き、天下統一の拠点にしようと計画していたが、本能寺の変により信長は死した。そして豊臣秀吉が大坂城を築いたが、三方を河川・湿地に囲まれた大坂城にあって、南はなだらかな上町台地に開かれており多数の軍勢に圧迫される可能性のある城郭防衛上の弱点となっており、秀吉は後年、総構えとしてこの上町台地に堀を掘削する工事を行っている。また、徳川家康による大阪城攻め(大阪冬の陣)の際、豊臣方の武将真田幸村が総構えから大きく突出した丸馬出「真田丸」を築城して弱点を補い、攻める徳川勢に多大な出血を強いた。
上町台地は宗教上・軍事上・交易上重要な場所で、大阪の基礎となる場所であったといえる。
[編集] 都心のオアシス
江戸時代、大坂市内の寺院は上町台地に整備された寺町に移転させられ、以後今日に至るまで寺の木々の緑が上町台地を彩っている。歴史のある寺や神社、台地西端の崖地を降りる坂道、空襲から焼け残った空堀や谷町六丁目付近の長屋の家並みや商店街、昭和町・田辺・帝塚山などの戦前の郊外にあたる屋敷町、天王寺公園など、上町台地には緑の少ない大阪の都心でありながら風情や緑のあるところが数多く残されている。
[編集] 上町断層
なお、上町台地が大阪平野の真ん中に南北に直線状に突き出しているのは、豊中市から上町台地を経て岸和田市にまで至る上町断層という地震断層の力によるものである。
断層の最新活動時期は、約28,000年前~約9,000年前と思われ、平均活動間隔は8,000年程度と推測されているが、過去の活動履歴がよくわかっておらず活動間隔も最後の活動時期も絞り込めないため地震発生確率ははっきりしない。
しかし万が一、上町断層帯全体が震源域の地震が起こった場合、マグニチュード7.5程度の地震が発生すると推定され、堅固な地盤の上町台地より軟弱な地盤の周辺低地に大きな被害が出るとの懸念がある。
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