鶴ヶ嶺昭男
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鶴ヶ嶺 昭男(つるがみね あきお、1929年4月26日 - 2006年5月29日)は、鹿児島県姶良郡加治木町出身で井筒部屋所属の元大相撲力士。最高位は関脇。身長177cm、体重114kg。本名は福薗昭男(ふくぞの あきお)。
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[編集] 来歴
戦時中は海軍年少兵として、海軍相撲で鳴らした。戦後、鶴ヶ嶺道芳のもとに入門、1947年6月に初土俵を踏む。このときはまだ師匠が現役最後の場所であったので、書類上の所属は時津風部屋になっていた。翌場所から独立した井筒部屋に所属した。
1953年3月場所に新入幕。本来右四つだったが、相手にあわせてまず左四つになり、右を巻き変えてもろざしになる取り口に開眼。「もろざし名人」と呼ばれ、「栃若時代」から「柏鵬時代」にかけて活躍。技能賞を10回(現在でも最高記録)受賞、栃錦、若乃花、朝潮の三横綱を相手によく健闘し、10個の金星(当時の最高記録)をあげている。
得意のもろざしをいかして大きく勝ち越すことが多く、昭和31年(1956年)1月場所では14勝1敗で優勝同点も記録した。
1967年(昭和42年)7月場所を最後に現役を退く。幕内在位77場所、通算550勝は、本場所が現在のような6場所制に移行する過渡期であったためもあるが、当時の最多記録だった(勝ち星は翌9月場所で大鵬幸喜に更新され、場所数は1980年11月に、高見山大五郎によって更新された)。
引退後は年寄・君ヶ濱を襲名、1972年に独立して君ヶ浜部屋を創設、その後名称を変更して井筒部屋となり、自身の息子3人(鶴嶺山宝一・逆鉾伸重・寺尾常史)をすべて関取に、霧島一博を大関に育てるなど、名伯楽ぶりを発揮し、役員待遇に抜擢された。判りやすい丁寧な語り口で解説者としても好評を得た他、勝負審判長としても物言いの際の場内説明で、「行司軍配は○○にあがりましたが、××ではないかと物言いがつき、協議の結果~」と明快に解説、この口上は現在ではほぼ定型のものとなっている。また、「ただいまの協議についてご説明申し上げます」と最初につけるようになったのも、彼からだとされる。
年寄を停年退職後、鎌倉で陶磁器店を経営。2002年から一時期、妙見温泉で小料理屋を経営していた。2006年5月29日午後6時6分、敗血症のため大分県別府市の病院で死去。享年77。
[編集] エピソード
- 昭和後期、花のサンパチ組の時代以降のファンには、鶴ヶ嶺としてより逆鉾・寺尾兄弟の父親として有名である。
- 現役時、プロ野球選手であった中西太とは親友の間柄であった。
- やくみつるの4コマ漫画では、ジャンルを問わずスポーツコメンテーターとして登場した。
- 三兄弟の母親にも当たる夫人は蔵前小町と呼ばれるほどの美人であった。
- 大相撲ダイジェスト解説時に息子の相撲を見ていた際に息苦しくなり薬を飲んだことがあるという。
[編集] 家系図
西ノ海(25代横綱)の孫(養女の養女の夫)、薩摩錦(元幕下)の従兄の子供、福薗洋一郎(元十両、現在は幕下)の伯父。長男は鶴嶺山(元十両)、次男は逆鉾(元関脇)、三男は寺尾(元関脇)。
─:血縁 ━:養子縁組 ┌──┐ ┌───┐ ○ ○ 女┰西ノ海 高千穂 │ │ ┃ 薩摩錦 ○ 女┰加賀錦 ┌─┴─┐ ┃ ○ 鶴ヶ嶺┬女 │ ┌──┼──┐ 福薗 寺尾 逆鉾 鶴嶺山
[編集] 主な成績
- 幕内通算:550勝583敗22休
- 幕内在位:77場所
- 三役在位:11場所(関脇2場所、小結9場所)
[編集] 三賞・金星
- 三賞:14回
- 殊勲賞:2回(1958年5月場所、1959年9月場所)
- 敢闘賞:2回(1966年7月場所、1966年11月場所)
- 技能賞:10回(1956年1月場所、1956年3月場所、1959年7月場所、1961年1月場所、1962年7月場所、1963年3月場所、1963年5月場所、1964年3月場所、1965年11月場所、1966年7月場所)
- 金星:10個(栃錦4個、若乃花3個、朝潮3個)
[編集] 年寄変遷
- 君ヶ濱(きみがはま)1967年7月-1977年12月
- 井筒(いづつ)1977年12月-1994年4月
[編集] 関連項目
カテゴリ: 鹿児島県出身の大相撲力士 | 1929年生 | 2006年没