佐藤ゆかり
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佐藤ゆかり(さとう ゆかり、昭和36年(1961年)8月19日 ‐ )は、平成期における日本の政治家。衆議院議員(1期)。元・外資系証券会社エコノミスト。母親は女性探偵として脚光を浴びたこともあった人物。[1][2]また、民主党の横光克彦衆議院議員とは外縁の親戚(横光夫人が従姉妹)。
生年月日 | 昭和36年(1961年)8月19日 |
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出生地 | 東京都世田谷区 |
出身校 | ニューヨーク大学経済学博士課程修了 |
学位・資格 | 経済学博士(Ph.D) |
前職・院外役職(現在) | 会社員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆・財務金融委員会委員 衆・決算行政監視委員会委員 |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
比例東海ブロック(岐阜1区) |
当選回数 | 1回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(無派閥) |
党役職(現在) | 党副幹事長 |
会館部屋番号 | 衆・第2議員会館613号室 |
ウェブサイト | 自由民主党 佐藤ゆかりHP |
目次 |
概要
- 第44回衆院選に大量当選した“小泉チルドレン”の一人で選挙戦で注目を集めた一人。ネットオタクからは“ゆかりタン”という愛称で呼ばれることもある。
- 立候補直前の肩書きは、外資系証券会社クレディ・スイス・ファースト・ボストン証券(CSFB)におけるチーフ・エコノミスト(同社での在籍は2004年9月から1年弱)。
- 2005年8月、自由民主党の候補者公募に応じ、郵政解散を受けた第44回総選挙で、郵政関連法案反対候補者への「刺客」として野田聖子元郵政大臣の地元の岐阜1区に落下傘候補として出馬した。
- 選挙期間中には、公示直前に過去の不倫疑惑が週刊文春から報じられたこと、野田聖子議員との女性対決などでマスコミに取り上げられることも多く、一躍、時の人となった。小選挙区で8万1千票余りで野田聖子に約1万6千票及ばず敗れたが比例区東海ブロックで上位とされたため復活当選した。
- 2006年10月、安倍内閣発足と同時に自民党副幹事長に就任した。
略歴
- 1980年 不二聖心女子学院高等学校卒業。
- 1983年 上智大学外国語学部フランス語学科入学。
- 1986年 コロンビア大学政治学部卒業。
- 1988年 コロンビア大学大学院国際関係学修士課程修了。
- 1998年 ニューヨーク大学大学院経済学博士課程修了。Ph.D取得(金融経済学専攻)
- 1998年 日興シティグループ証券入社。
- 2002年 JPモルガン・チェース証券入社。
- 2004年 クレディ・スイス・ファースト・ボストン証券入社。
- 2005年 第44回衆議院議員総選挙に自民党より立候補(選挙区・岐阜1区)。選挙区では野田聖子に敗れたが、比例東海ブロックでの復活当選を果たした。11月には、党幹事長補佐(正式な役職ではない)に就任した。
- 2006年 10月、党副幹事長に就任した。
発言
- 2005年の総選挙で自身のHPに経済的な政策提言を公表し、自身の経済ビジョンの優位性を訴えた。この政策提言が佐藤ゆかりの基本的な経済ビジョンとみられる。なお、この政策提言は、佐藤がかつて経済産業省の委員会で外資系証券のエコノミストから選出された委員として発言した趣旨でもある。
- 2005年の総選挙に際し、「(サラリーマンは)所得が無いなら、株を買って補えばよい」という趣旨で、自身の公約を訴え、当選後もテレビで発言し、出演者にたしなめられる場面もあった。
- 家族(両親兄)がいずれも故人であり、相続で都内など複数に住宅・宅地・山林を所有と大手新聞社に報道された。(朝日新聞2006年2月21日)株への投資は相続した二銘柄のみ(本人は資産運用に興味無しとコメント)。
- 2005年9月、総選挙直後のテレビ番組で、2005年4月の日本経済新聞紙上で過去に小泉首相の郵政改革を50点と採点した事に対し、「あの時は評論家としての立場で採点した」と答えた。また、過去の不倫疑惑については強く否定し、マスメディアによる選挙妨害、謀略等を主張する為、メディア規制反対の立場の櫻井よしこにたしなめられる一幕もあった。
- 2005年11月の早稲田大学での与野党の討論会で(子供を産む女性も)「自助努力で頑張っていくことが大事」と発言したことが報道され、子育てや女性の立場を理解しているのかと、物議をかもした。(なお、佐藤自身は独身で子供はいない。)また同じ討論会の席上、自民党内の比例区での“女性優遇枠”の存在を否定した。
- 2006年3月に83会で出版した『UBUDAS』では全員分の色紙が掲載されたが、佐藤は「愛国心」と揮毫。
- 「ふるさと税」構想。2006年5月頃に佐藤がHPで公表した政策提言。提言のタイトルは『「ふるさと税」の創設と納税番号制度の活用を』。佐藤は証券業界から輩出されたエコノミスト議員らしく納税番号制度(納税者番号制度)の導入に積極的な立場。同年7月1日の“新生銀行リテール5周年感謝セミナー”での講演でも「ふるさと税」について発言し、その内容が7月30日付けの日経新聞内の銀行の広告として大きく広告された。
- 2006年6月、レギュラー出演していた朝のテレビ番組で、赤坂に建設中の“億ション”並の議員宿舎(都内に自宅を持たない議員が利用可能)が国会議員が安価で利用できる問題に関して、政権与党の立場から「程度問題。(地方選出議員には)この程度の宿舎が必要」と発言し、番組内で民主党の河村たかしや他の出演者に「年間4000万円も税金を貰っておきながらお金が足りないとは何事か」等と批判された。佐藤はこの件を契機にTVへのレギュラー出演をしていない。
- 2006年11月30日付けフジサンケイビジネスアイへの寄稿記事「子供の福祉、原点は家族」では、「夫婦別姓論は排除されるべき」と選択性夫婦別氏制度(選択的夫婦別姓制度)を推進する動きをけん制した。
- 2006年12月、野田聖子議員が復党すると、『私が(選挙区・岐阜1区の)支部長』とテレビを通じ次期選挙での小選挙区公認候補を譲る意思のないことを強く主張した。国会閉会日の12月19日に議場で野田が佐藤に近づき握手を行った。[3]
その他
- 証券会社所属の機関投資家向けエコノミストとして活躍。外資系証券会社で機関投資家向けに日本経済の動向調査とレポートの仕事をしながら、経済誌などに寄稿を行う。JPモルガン・チェース証券に在籍していた2004年当時にアメリカの専門雑誌「インスティテューショナル・インベスター」誌上の投票で日本経済レポート担当のエコノミストとして第2位となった。[4]
- 2004年度に早稲田大学大学院公共経営研究科の非常勤講師を務め、獨協大学でも教鞭をとっている。
- 留学時代、得意の英語を買われて、政治ジャーナリストの末延吉正のテレビ朝日の番組取材(1988-1989年米大統領選ブッシュ陣営への同行取材)を手伝った。(※修士課程修了して10年後にPh.D取得したが、その際、米国第14代連邦準備制度理事会(FRB)議長ベン・バーナンキがニューヨーク大学の学者だった頃、博士論文の指導を一時期受けたとする本人談がある。)
- 第44回衆議院議員総選挙中に週刊誌で、当時の夫と別居中に妻子ある二人の男性と不倫していた事が暴露された。記事では、その内の一人に佐藤が交わしたとされる500通もの不倫メールの内容が明かされ話題になった。
- 出馬の際の記者会見では家族構成や婚姻の有無を聞かれたが個人情報として明らかにしないこともあった。
- 選挙後、公職選挙法違反である有権者宅への戸別訪問を行う映像が『真相報道バンキシャ!』(日本テレビ放送網)で報道され、これを市民団体に告発された(総務省の見解では複数の有権者宅へ戸別訪問した場合、公職選挙法違反の適用を受けるため)。同団体に別件で告発された杉村太蔵らと共に週刊誌に“お騒がせ議員”として叩かれ、佐藤も自身のサイトに戸別訪問をしない旨の注意書きを書いた。
- 小泉チルドレンではあるものの、2006年の皇室典範改正議論の時には、女性天皇許容の小泉総理の意見よりも、慎重論の自民党執行部の意見に与し、武部幹事長の補佐として動いた。
- 2006年6月再び新たな不倫疑惑が週刊新潮から報道された。お相手は自民党の江崎洋一郎衆院議員とされた。佐藤本人は否定した。
- 2006年9月、自由民主党総裁選挙で山本一太や片山さつきらと共に安倍晋三候補の応援を行った。10月、自民党副幹事長に就任。
- 2006年11月、選挙区を争う野田聖子議員などの郵政造反組12名の自民党復党問題に絡んで復党に反対する議員連盟を発足させたが少数の議員の賛同しか得られず、小泉前首相の“政治家は使い捨て”発言も出て、復党を容認する流れを覆すことはできなかった。
- 2006年12月、経済産業委員会の採決を無断欠席したことで、党国対委員会によって、同様に経産委員会を無断欠席した片山さつき議員と共に「所属常任委員会を変更」「国会開会中海外渡航を1年間禁止」「2007年3月まで国対委員会へ出席停止」という処分が下された。両議員とも決算行政監視委員会に変更された。