大乗非仏説
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縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
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大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)
- 上座部仏教の立場より、大乗経典が歴史上の釈尊の説いた教えではなく、大乗仏教徒が勝手に捏造した言説だという批難。
- 仏教の教典に対する文献学的研究が、仏教思想が段階的に発展し、上座部をもふくむ仏教の経典全体が数世紀という長時間をかけた成立過程を解明、その結果として明らかにされた、仏教の教典が「古代インドに生きた歴史上の釈尊による直接の説法ではない」という結論。
目次 |
[編集] 伝統的な「仏説」観
経典は、ごく一部の例外を除き、冒頭で「このように私は聞いた」(如是我聞=是くの如く我聞けり)とのべ、釈尊の説法を聞き写したという体裁をとって作成されており、上座部仏教圏(スリランカ、ビルマ、タイ、ラオス、カンボジア等)、大乗圏(インド・ネパール、チベット・モンゴル、中国・台湾・朝鮮・日本・ベトナム等)のいずれの伝統教団とも、大蔵経 (一切経)として擁する経典群を、釈尊が八十数年の間に説いた教えとして扱っている。※密教経典の一部には阿閦仏(あしゅくぶつ)が説いたとされるものもあるが、阿閦仏を釈尊の化身と見なすことで、究極的には全ての経典について、釈尊が説いたものと見なされる。
大乗仏教圏は、経典に使用する言語により、
- サンスクリット仏典圏(インド・ネパール)
- 漢訳仏典圏(中国・台湾・朝鮮・日本・ベトナム等)
- チベット語仏典圏(チベット・モンゴル)
の三つに大別される。
漢訳仏典圏 中国では、仏教の初伝以来、数世紀にわたり断続的に仏典の将来と翻訳が続いたが、作成年代が異なる経典間に大きな相違がある事実から、仏典群の分析に整理分析にあたっては、いずれの経典に釈尊の真意が存在するか、という方向がとられた。 中国の内外に大きな影響を与えた説としては、天台大師智顗(ちぎ、538年 - 597年)による五時八教の教相判釈があり、歴史上の釈尊の段階的時期に配置し、その中で法華経を最高に位置付けた。智顗の説は、日本の天台宗や、日蓮系の諸宗派にも採用されている。
チベット語仏典圏 チベットでは、八世紀末から九世紀にかけ、国家事業として仏教の導入に取り組み、この時期にインドで行われた仏教の諸潮流のすべてを、短期間で一挙に導入、仏典の翻訳にあたっても、サンスクリット語を正確に対訳するためのチベット語の語彙や文法の整備を行った上でとりくまれたため、ある経典に対する単一の翻訳、諸経典を通じての、同一概念に対する同一の訳語など、チベットの仏教界は、漢訳仏典と比してきわめて整然とした大蔵経を有することができた。そのため、チベット仏教においては、部分的に矛盾する言説を有する経典群を、いかに合理的に、一つの体系とするか、という観点から仏典研究が取り組まれた。
これら両仏典圏の伝統教団では、経典が釈尊の直説であることは自明の伝統とされ、疑問や否定の対象とはされてこなかった。
[編集] 「大乗非仏説」説の諸相
大乗仏教思想に対しては、発生当初より上座部の立場より非難されていたが、近世以降の「大乗非仏説」説では、文献学的考証を土台とし、仏教が時代とともにさまざまな思想との格闘と交流を経て思索を深化し、発展してきたことを、「実際存在する/伝わった経典を証拠に、事実として示す」のが特徴である。 文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典阿含経典、特に相応部などに最初期の教え(釈尊に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、少なくとも「大乗仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。
ただし、注意しなければならないのは「歴史上の釈尊の説法ではないので、大乗仏典には価値がない。真理ではない。」という事ではない。 「イソップ寓話が、動物達が人間の言葉を話すから、事実でなく嘘であり、それには意味がない/価値がない」とならないのと同じである。 例えば「法華経の内容は事実か事実でないか」を議論するのではなく、長い間、数期に分けて、連綿と法華経を作成し続けた大勢の人々がいたのは事実であり、「その人々は法華経の物語で何を伝えたかったのか」を考える必要があり、その物語の中に、全ての人を救う絶大なる価値がある。現在では「大乗非仏説」は単なる事実を示すだけで、価値の有無を表すものではない。
だが、異論も有る。 上記の論には信仰が絡んだ上での考証と言う点に注意しなくてはならない。 上記に於いての説が正しいと言えるのは三国伝来の大乗経典を漢文に翻訳中、信仰心から来る恣意的な改竄が一切無いと言う大前提の下でなくてはならない。 現代はイギリス経由、インド直送など飛行機に乗って原典が飛ぶ時代である。 しかも、研究者はその文献に信仰心を持たずに文献学上から研究する者も多く、信仰心から来る恣意的な曲解が起こり難いと思われるのである。 どれが正しいのかは受け手に委ねられる訳で有るが、少なくとも一旦は信仰を置いて、自らが依って立つ聖典の源を辿ってみる作業は、正しい仏教の理解の助けになるのである。ここに大乗非仏説の「真」の意味が隠されているのである。
日本では江戸時代の富永仲基(1715‐1746)の加上説や、明治期の村上専精などの学者による「大乗非仏説論」などがある。
[編集] 「大乗非仏説」に対する伝統教団の受け止め方
日本の仏教界では、いずれかの宗派に属する僧侶でもある研究者は、大乗仏典は価値があり、自分の信仰の基盤であることを認めた上で、文献学的考証に基づく仏教思想や経典の歴史的展開を、事実として受け取っており、教団として出される布教文書にまで仏教思想の歴史的発展について記述する例も見られる。この結果、歴史上の釈尊の教え、大乗仏教の教え、それの発展である宗祖(法然、親鸞、道元、日蓮、一遍…)の教えをどの様に受け止めたら良いかの課題がある。ただし、一般の仏教徒にとっては、宗祖の教えが中心になるので、特に相違が意識されることはない。
中国、台湾、チベット(含むブータン)、モンゴル(含む内蒙古、ブリヤート、トゥバ、カルムイク)、ネパールなど、他の大乗仏教圏諸国では、信者ではない人々による勝手な営為として扱われ、信仰をゆるがす問題としては受け取られていない。
[編集] 「大乗非仏説」の新宗教教団による扱い
原理主義色が強い仏教系新宗教教団では、彼らが正しいとする経典の全てが科学的に否定されたにも関わらず、これらの批判を無知な学者による根拠無き誹謗中傷として退ける場合が多い一方で、キリスト教諸派(同じ旧約聖書を使用するユダヤ教やイスラム教に対しては、物理力による反撃(テロによる報復)を恐れてかこのような攻撃を行わない場合が多い。)や神道、民間信仰に対しては同じ物差しを持ってはかるべき宗教であるにも拘らず、仏教のみが(彼らの主張では『無知な人間である学者』によって)科学的に正しい事が証明されていおり、我々が拠り所とする経典を読み、開祖と教団の教祖を崇める我々以外は邪教やカルトといった自己中心的な主張による攻撃を繰り返している。
[編集] 外部リンク
- 大乗思想批判:『仏教誕生』、『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実─』1、2、3、4
- 大阪の町人學者富永仲基
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