寛仁親王妃信子
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寬仁親王妃信子(ともひとしんのうひのぶこ、旧名麻生 信子(あそう のぶこ)、1955年4月9日 - )は、日本の皇族。寬仁親王の妃。勲一等。父は麻生セメント株式会社の社長を務めた麻生太賀吉。母は吉田茂元首相の娘である和子。信子は麻生夫妻の三女として生まれた。15歳上の長兄は、衆議院議員で外務大臣の麻生太郎。印は花桃(はなもも) 。
[編集] 経歴
聖心女子学院初等科、中等科を経て、イギリスのロスリンハウス・カレッジへ入学。卒業後は、彼女自身も通っていた私立松濤幼稚園(東京都渋谷区)に英語講師として勤める。
寬仁親王からは18歳の時にプロポーズされたが、若すぎるということもあり、7年後の1980年4月18日の皇室会議を経て婚約し、同年の11月7日に結婚した。1981年12月22日に長女彬子女王、1983年10月25日に次女瑶子女王の二女を出産。
日本赤十字社名誉副総裁のほか、社団法人東京慈恵会総裁、財団法人日本ばら会名誉総裁と、総裁職に就く。
2003年に一過性脳虚血の発作が起こり、静養する。
1947年(昭和22年)10月14日に11宮家が離脱する前までは、宮家の数が多く、現在の寬仁親王のように「嗣子であるためあえて宮号を受けていない親王」を有する宮家が複数あったため、そのような「嗣子たる親王」のことを「○○若宮」(○○のわかみや)と呼ぶ慣習があったが、現憲法下では皇室制度に詳しい人々の間でもこの呼称はほとんど用いられない。もしこの慣習が続いていれば、報道等では寬仁親王は「三笠若宮」、同妃信子は「三笠若宮妃」と呼ばれていたであろうと思われる。
なお、政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は必ず「寬仁親王妃信子」とされ、「三笠宮」が冠されることはない。
[編集] 栄典
[編集] 著作
- 『四季の家庭料理―お惣菜80種』 光文社 ISBN 4334780075
- ※日本の皇族が料理のレシピ集を著したのは非常に珍しい。