寛仁親王
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寬仁親王(ともひとしんのう、1946年(昭和21年)1月5日 - )は、日本の皇族。 三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第1男子。弟に桂宮宜仁親王、高円宮憲仁親王、姉に近衛甯子(近衛忠煇夫人)、妹に千容子(千宗室夫人)がいる。今上天皇(明仁)の従弟に当たる。印は柏(かしわ)。勲等は大勲位。皇室典範による敬称は「殿下」。学歴は学習院大学法学部政治学科卒業。学位は政治学士(学習院大学)。髭をたくわえた容貌から「ヒゲの殿下」の愛称がある。皇統譜上の記載は「寛」の旧字体である「寬」であるため、政府による公式表記及び本人の著述活動においては旧字体が使用されるが、報道等では新字体で表記されることも多い。皇位継承順序第6位。
ラジオ番組のDJを務めたことがある。また、妃の信子とともにテレビのバラエティー番組に出演したこともある。
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[編集] 略歴
1966年(昭和41年)1月成年式に伴い大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。1968年(昭和43年)学習院大学法学部政治学科を卒業後、1970年(昭和45年)までの2年間、イギリスのオックスフォード大学モードリン・コレッジに留学。1970年から1972年(昭和47年)には、札幌オリンピック組織委員会事務局に、また1975年(昭和50年)には、沖縄国際海洋博覧会世界海洋青少年大会事務局に勤務した。1980年(昭和55年)11月7日麻生太賀吉の三女信子と結婚し、(※ これにより麻生太郎とは義兄弟となり吉田茂とは義理の祖父の関係となる。)1981年(昭和56年)12月20日に長女彬子女王、1983年(昭和58年)10月25日に次女瑶子女王の二女を設けた。
寬仁親王は、伯父の高松宮宣仁親王の影響を受けて早くから障害者福祉やスポーツ振興などの公務に積極的に取り組んできた。特に障害者がスポーツへの取り組みを通じて社会参加することを促すため、自らも指導にあたり、社会福祉法人「ありのまま舎」(仙台市にあるバプテスト系の筋ジストロフィー障害者福祉施設)の活動に見られるように施設の運営などにも関与し、講演や著述を通じて啓発活動にエネルギッシュに取り組んでいる。また英国留学を機に国際親善にも強い関心を持ち、日英協会名誉総裁をはじめ、諸外国との交際にも意欲的に取り組み、従甥の皇太子徳仁親王や秋篠宮文仁親王の英国留学の先鞭をつけた。寬仁親王は曾祖父明治天皇との容貌の類似を指摘されるきっかけにもなった髭を蓄え、剛直で豪放磊落な性格である。一方で良く繊細な面を垣間見せることもあり、若いころは社会福祉に熱心に取り組もうとしても自分の行動が皇族としての身分に制約されることに悩み、一時「皇籍離脱発言」をして世間を騒がせたこともあった。結局、皇籍離脱になることはなかった。
近年は喉頭癌をはじめとする疾病に悩まされている。2006年9月16日には洗顔中に転倒し顎を骨折した。
現在、友愛十字会、ありのまま舎、済生会、新技術開発財団、高松宮妃癌研究基金、日本ビリヤード協会、日本職業スキー教師協会、日本学生氷上競技連盟などの総裁、日本ラグビーフットボール協会、日英協会、日本ノルウェー協会などの名誉総裁を兼任している。
[編集] 宮号の有無と表記
結婚後、独立の生計を立てているが、父宮(三笠宮崇仁親王)の嗣子としていずれ三笠宮を継ぐものとされていることから、特に宮号は賜っていない。「三笠宮寬仁」という表現は報道でよく使われてはいるが、宮号は一般国民の「氏」のように同一戸籍内の家族すべてに適用されるものと異なり、厳密には当主のみに与えられるものであるため、寬仁親王が「三笠宮」の宮号を継いでいない時点でそれを冠することは正確性を重んじる観点からすれば誤りである。
- このような誤用例は他にも多くあるが、寬仁親王本人はその誤りに不快感を表したことがある。2001年12月、長女の彬子女王の成人式に伴う記者会見が行われ、毎日新聞を除く全国紙が彬子女王を「三笠宮寬仁さまの長女彬子さま」と記載したことに関し、寬仁親王は、自身が総裁を務める日本職業スキー教師協会の広報誌の「総裁コラム」に、「私は、『三笠宮』(父の宮号)では無く、『寬仁親王』であり、彬子は身位が『女王』で、敬称は『殿下』でなければなりません。従って正しくは、『寬仁親王殿下の第一女子彬子女王殿下には……』となるべき」と書いていた。また、後掲の会報『ざ・とど』でも冗談を交えつつ「『三笠宮寬仁親王』でなく『寬仁親王』が正しい」と書いている。
1947年(昭和22年)10月14日に11宮家が離脱する前までは、宮家の数が多く、現在の寬仁親王のように「嗣子であるためあえて宮号を受けていない親王」を有する宮家が複数あったため、そのような「嗣子たる親王」のことを「○○若宮」(○○のわかみや)と呼ぶ慣習があったが、現憲法下では皇室制度に詳しい人々の間でもこの呼称はほとんど用いられない。もしこの慣習が続いていれば、報道等では寬仁親王は「三笠若宮」、同妃信子は「三笠若宮妃」と呼ばれていたであろうと思われる。
なお、政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では寬仁親王に限らず皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は必ず「寬仁親王」(妃の場合は「寬仁親王妃信子」)とされ、「三笠宮」が冠されることはない。
[編集] 女系天皇容認論に対する見解
憲法上の制約もあり、天皇及び皇族が女系天皇の是非について自らの意見を公にする機会は限られている。寬仁親王は自身が会長を勤める福祉団体『柏朋会』(はくほうかい)の会報『ざ・とど』で、公なものではない私的な見解と前置きした上で、女系天皇についての見解を表明した。この機関紙は市販されていない。この中で、女系天皇に明確に反対し、旧皇族の皇籍復帰などを求めている。
寬仁親王は、「歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇を容認する意見を批判し、また「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と指摘した。寬仁親王は男系継承を維持するための方法として
- 皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰。
- 女性皇族(内親王)に旧皇族(男系)から養子を取れるようにし、その方に皇位継承権を与える。
- 廃絶になった秩父宮や高松宮の祭祀を旧皇族に継承してもらい、宮家を再興する。
- 昔のように「側室」を置く。自分(寬仁親王)としては大賛成だが、国内外共に今の世相からは少々難しいかと思う。
を挙げている。
その上で、「陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません。国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという議論にまで発展するでしょう」と結び、歴史と伝統を無視した女系天皇容認の動きに強い警鐘を鳴らした。
また、2006年1月3日付毎日新聞、雑誌『文藝春秋』2006年2月号のインタビューでも同様の見解を表明している。殊に後者では、小泉純一郎首相や有識者会議が女系天皇容認の方針なのは今上天皇の内意を受けてのことではないのかという噂について、「ご本人に直接確認してはいないが、あの慎み深い天皇様が女系天皇や長子優先継承に賛成なさるはずはない。噂は事実無根の臆測だろう」と推断した。
また、非公式ながら「父殿下、母妃殿下をはじめとして皇族には改正に反対論を唱えている人が多い。少なくとも三笠宮家は全員反対だ」ということもコメントしている。
[編集] 見解に対する反響
- 寬仁親王が見解を発表する以前、内閣総理大臣の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」座長吉川弘之は、皇位継承資格者議論について皇族から意見を聞くことは憲法違反だと指摘していた。しかし2005年11月4日、寬仁親王の見解についての記者質問に対し、小泉純一郎首相は、皇位継承資格者議論について皇族から意見を聞くのは憲法違反にあたらず、意見を表明するのは自由であると答えた。
- 同年11月7日、有識者会議の会合を終えた吉川弘之は、寬仁親王の見解は会議へ影響せず、女系天皇容認の姿勢は変更しないとした。同日、小泉首相も、女系天皇を容認する有識者会議の方針を支持する考えを示した。
- 同年11月14日、静岡県知事石川嘉延は定例記者会見で、寬仁親王の見解に対し、同様な考えを持っており共感したと発言した。さらに皇位継承資格者議論に対し、拙速な議論に疑問を呈し「伝統的な国のあり方にかかわるものを、わずか数か月で結論を出して、ある方向に持っていこうとするのはとんでもない話。余りにも拙速。有識者会議には皇室問題について長年研究してきた人が何人入っているかというとお寒い限り」と評した。
- 民間からは寬仁親王の発言に対し賛否両論あり、朝日新聞は社説のなかで否定的見解を示しており、2006年2月2日付けの社説で「寬仁さま 発言はもう控えては」と題し、政治的発言であり立憲君主制という憲法で定める大原則を逸脱していると主張した。対して、翌3日の産経新聞は、社説で「朝日社説 「言論封じ」こそ控えては」と反論した。また、週刊文春や週刊新潮はそれぞれ「寬仁さまに『黙れ』と命じた朝日新聞論説委員の実名と見識」「寬仁さまに『黙れ』と命じた朝日新聞ってそんなにエラい?」などと朝日新聞を批判した。
- 国会議員の中には寬仁親王の発言に影響を受けたとする者もあり、この点で親王の発言の政治的影響力を問題視する見方もある。
- 旧皇族の皇籍復帰に加え、側室制度についても(現在の世相では難しいだろうとした上で)言及したことが男女平等主義者達をはじめ一部国内外で批判を浴びた。特に皇室典範に関する有識者会議メンバーの岩男壽美子から「時代錯誤」と激しく非難されることとなった。