桂宮宜仁親王
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桂宮 宜仁親王(かつらのみや よしひとしんのう、1948年(昭和23年)2月11日 - )は、日本の皇族。三笠宮崇仁親王の第2男子。兄は寬仁親王、弟は高円宮憲仁親王、姉は甯子(近衛忠煇夫人)、妹は容子(千宗室夫人)。今上天皇の従弟に当たる。印は桂(かつら)で、「桂宮」の宮号はこれに由来する。戦後初めて、独身で宮家を創設した。勲等は大勲位、皇室典範に定める敬称は殿下。政治学士(学習院大学)の学位を持つ。皇位継承順位は第7位。
[編集] 略歴
三笠宮崇仁親王の第3子として生まれる。1968年(昭和43年)2月27日成年式を行い、大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。1971年(昭和46年)学習院大学法学部政治学科を卒業し、オーストラリア国立大学大学院に2年間留学する。帰国後、1974年(昭和49年)から1985年(昭和60年)までNHKに嘱託で勤務したほか、オーストラリアに留学したことが機縁で日豪協会、日本・ニュージーランド協会の各総裁を務めている。また、伯父の高松宮宣仁親王を強く敬慕し、高松宮の薨去後は、彼が勤めていた大日本農会・大日本山林会・日本工芸会・日本漆工協会の各総裁を受け継いだ。とりわけ大日本農会にあっては、農事功労者(農業の発展に功労ある農家)への栄誉である紫白綬有功章、紅白綬有功章、緑白綬有功章などの記章の授与を行うなど、表彰をはじめとした各行事に努める。
1988年(昭和63年)1月1日に昭和天皇から、印にちなんで桂宮の称号を受け、独立の生計を立てるようになった矢先、病(硬膜下出血といわれる)に倒れた。車椅子の生活を余儀なくされたが、リハビリテーションの甲斐もあり、公務に出席できるようになり、国民の前に姿を現す機会も増えてきている。
現在も未婚であるが宜仁親王自身は「結婚するのは苦しむ人を増やすことになるから私は結婚という時代錯誤なものはしない」と述べたことがあり、兄の寛仁親王の結婚の際、妃である信子に「あなたはなぜ皇族の方と結婚なさるんですか?」と批判したところ、信子は「私は寛仁親王殿下という1人の男性と結婚したいだけよ」と反論した。しかし、皇位継承権者が少ない現在では、桂宮の結婚を期待する声が少なからずある。[要出典]
政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は「宜仁親王」とされ、「桂宮」が冠されることはない。ただし、同じ政府による表記であってもホームページなど「国民一般へのわかりやすさ」が重視される場面では「桂宮」の表記も用いられる。ちなみに戦後新宮家の設立はいずれも次男以下の婚姻による独立を契機にして行われたが、宜仁親王は独身のまま宮家を創設すると言う珍しいケースに該当する。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本の皇族 | 1948年生