文仁親王妃紀子
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文仁親王妃紀子(ふみひとしんのうひ きこ、旧名:川嶋 紀子(かわしま きこ)、1966年9月11日 - )は、秋篠宮文仁親王の妃。 勲等は勲一等、学歴は学習院大学文学研究科修士課程修了。学位は文学修士。 印は檜扇菖蒲(ひおうぎあやめ)。現在は結核予防会総裁、日本赤十字社名誉副総裁を務める。皇室典範に定める敬称は殿下。
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[編集] 人物像
川嶋辰彦と妻・和代の長女として静岡市で生まれた(本籍地は和歌山市)。名前は、先祖が住した和歌山県の旧国名、紀伊国に由来するという。父親がペンシルバニア大学大学院に留学したことから、6歳までアメリカで過ごした。1973年帰国後、静岡市立中田小学校1年に編入、小学校2年生で東京の新宿区立早稲田小学校へ編入。 その後、3年生で東京の区立目白小学校(学習院大学のすぐそばにある)を経て、4年生のとき学習院初等科へ編入した。5年生の1学期を終えると、父親がウィーン郊外ラクセンブルクの国際応用システム分析研究所(IIASA)の主任研究員に招かれたことから、オーストリアで約2年間を過ごした。1979年9月に帰国し学習院女子中等科へ編入し1985年学習院大学文学部へ進学し、1年先輩の秋篠宮文仁親王(当時は礼宮)と出会う。卒業後は大学院に進んだが、文仁親王のプロポーズを受けて1990年6月29日に成婚した。平成に入って最初の慶事であり、また文仁親王、紀子妃二人の人柄から、国民はこの成婚を盛大に祝福した。当時の住まいが教授用の職員アパートだったことから、マスコミは「3LDKのプリンセス」と名付けた。 1991年には今上天皇の初孫に当たる第1子眞子内親王出産。皇家の第一皇女である。1994年には第2子佳子内親王を出産した。 環境保全活動にも熱心で多くの国民が歓迎する環境の式典に参加されている。
2006年2月7日、第三子の懐妊が発表された。部分前置胎盤(宮内庁、7月18日発表)による大量出血の危険性を考慮して、皇族としては初となる帝王切開による出産が実施されることとなり、8月16日、東京都港区にある社会福祉法人恩賜財団母子愛育会総合母子保健センター愛育病院に入院(宮内庁、8月16日発表)。9月6日午前8時27分に身長48.8cm、体重2558gの男子が降誕[1]。 9月12日の「命名の儀」において、悠仁(ひさひと)と命名される。 皇族男子の降誕は秋篠宮文仁親王以来41年ぶり。このことに今上天皇は大きな喜びを示し、アメリカ等海外でも大きく報じられた。
政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は「文仁親王妃紀子」とされ、「秋篠宮」が冠されることはない。ただし、同じ政府による表記であっても、ホームページなど「国民一般へのわかりやすさ」が重視される場面では「秋篠宮妃」の表記も用いられる。マスコミ等では「紀子さま」と、表現されている。
[編集] 栄典
- 1990年6月29日:勲一等宝冠章
[編集] 家族親族
- 曾祖父 川嶋庄一郎(教育者)
- 祖父 孝彦(官僚)
- 父 辰彦(学者)
- 母 和代(静岡県、杉本嘉助長女)
- 弟 舟
[編集] 脚注
- ^ 部分前置胎盤の場合、胎盤の位置によっては問題なく出産できることもあるが、本ケースの場合は全前置胎盤に近い状態であったため、主治医の中林正雄ら医師団は「自然分娩はリスクが大きいと判断した」と報道されている[1]。