日本は侵略国ではありません!
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『日本は侵略国ではありません!』(にっぽんはしんりゃくこくではありません!)とは、日本の任意団体である英霊にこたえる会中央本部が1994年3月27日付けの産経新聞に掲載した全面広告、および翌月に日本遺族会などを通じて一般的に配布した漫画(文中では「戯画」としている)による小冊子である。監修者は大東亜戦争肯定論者として著名な中村粲(当時は獨協大学教授)である。
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[編集] 概要
この冊子は、当時の首相細川護熙が訪中した際に表明した、「侵略戦争」への謝罪に反発して出されたもので、首相の靖国神社公式参拝を求める意見広告である。支那事変および大東亜戦争は侵略戦争ではなく自衛のための戦争であったと主張したものである。
ただし、この主張は靖国神社がいうところの、大東亜戦争が日本の自存自衛の為の戦争であったと位置付け、戦争責任は連合国にあるとする歴史観である「靖国史観」と呼ばれるものを具体化したものであり、日本軍国主義を擁護していると批判されている。(詳細は「靖国神社問題」および「遊就館」を参照のこと)
また戦死者である英霊を慰霊するのに自衛戦争ならば良い、侵略戦争ならば許されないという理論であり。侵略戦争の側面を黙殺し、正当化するために自衛戦争の側面のみを強調しているため、保守派や一部の右派から英霊が侵略戦争の手先であるならば貶されるしており、「自虐的」であると批判されている。
アメリカを一方的に批判し自己正当化した内容ととられるため、特に日米関係を重要視する親米保守派からも批判されており、2006年に産経新聞社の「正論」誌上において、外交評論家の岡崎久彦に批判され、何ら反論することなく遊就館が直ちに修正した展示内容と重なるものであった。そのため日本軍国主義プロパガンダとも批判されている。
ちなみに、現在の日本遺族会の公式見解は首相の靖国神社公式参拝を要請する一方で「中国と韓国などの首脳の理解を得た上で行って欲しい」としており、この主張で相手を説得することは疑問といわざるを得ない。
[編集] 主張の概略
- 対独開戦とイギリスへの軍事的援助を公然にするために、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本が平和的解決を求めていたにもかかわらず日本側から先制攻撃をせざるを得ないように、計略を巡らせていた。そのためハル国務長官は、日本の出方を暗号解読によって知っていたうえで、アメリカの戦争準備が出来るまで時間稼ぎをしていた。このことは、1941年8月の米英首脳会談において、イギリス首相に対して日本への圧力(開戦決意)を示唆していること、また当時のアメリカ陸軍長官の1941年11月25日の日記の記載にも、「いかにアメリカ側の被害を少なくして、日本から先制攻撃をさせるように追い込むのかが問題だ」と大統領が発言したとされていることからも明らかだ。[2]。
- いわゆる「ハル・ノート」によって最終通告を受けた日本は、自存自衛のために対米開戦したが、ハル長官は1945年11月に開かれたアメリカ上下両院合同調査委員会に提出した供述書に、当時を振り返り「日米交渉には、最初から平和的解決をするチャンスは100分の1もなかった」と記していたという[3]。
- 盧溝橋事件は、中国側の意図的な発砲を発端とする事件である。中国国民党との抗争で衰退した中国共産党は、抗日戦による党勢拡大を狙っており、そのためにも国共合作をより一層強固にする必要があった。また、同事件は1935年に発表された「八・一宣言」にある抗日の主張を実現するための運動の一環であるとしている。まさしく中国共産党による陰謀である[4]。
- 毛沢東主席は1964年に日本社会党訪中団に対し「日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた、おかげで中国人民は権力を奪取することができた」と発言している。これは、中国共産党の策謀があったことを暗に認めるものであった[5]。
- 日本の戦争責任とは、以上の謀略を見抜けなかった為政者の道義的責任である。英霊は純粋な気持ちで散華したのであり、首相は罪悪史観を払拭して靖国神社に公式参拝すべきである[7]。
[編集] 脚注
- ^ この発言は日本の開戦動機をいったものである。根拠は、第二次世界大戦前の国際法で例外的に認められていた「生存のための自衛戦争」のことであるが、ナチス・ドイツが拡大解釈によって侵略戦争の口実にしたため、現在では認められていない。
- ^ 日本も同様にアメリカも開戦は不可避と思っていたのも事実であるが、アメリカ側も空母を中心とした機動部隊による真珠湾への奇襲攻撃という予期しない形で開戦したのも明らかである。
- ^ ハル・ノートはたしかに強硬な条件であったが、中国(中華民国)の同盟国のイギリスの友好国であるアメリカが、間接的にとはいえ中国からの撤退を要求するのは致し方なかったといえる。また経済制裁が正当な開戦理由になるのでは現在でも対抗要件にされかねない危険な考えである。
- ^ 日本側の歴史家の見解では、きっかけは中華民国第二十九軍の偶発的射撃とされている。また「中国共産党陰謀説」は葛西純一が見たという劉少奇の指示で行われたと書いてあるパンフレットが根拠であるとしているが、出典物の開示を拒否したため、都市伝説であると言われている。
- ^ 毛沢東の発言は、「結果的に」というものである。
- ^ 当時の国際法では問題なかった可能性もあるが、時期的にグレーゾーンだといわれている。日韓併合は1965年の日韓基本条約で日本政府が無効宣言しているため、形式的には非を認めている。
- ^ 中国に派兵をはじめたのは日本の戦略であり、中国側の計略に乗ったわけではない。また、連合国となる米英中ソにとって日本は軍事的脅威を与えていたのであるから、彼らにとっても自衛のための戦争であったとも言える。そのため日本のみの立場からしか見ていないとの批判は免れない。