有吉佐和子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文学 |
![]() |
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
有吉 佐和子(ありよし さわこ、女性、1931年1月20日 - 1984年8月30日)は、日本の小説家、劇作家、演出家。和歌山県和歌山市出身。日本の歴史や古典芸能から現代の社会問題まで広いテーマをカバーし、読者を惹きこむ多くのベストセラー小説を発表した。カトリック教徒で、洗礼名はマリア=マグダレナ。代表作は『紀ノ川』『華岡青洲の妻』『和宮様御留』。娘はエッセイストの有吉玉青。
目次 |
[編集] 経歴
長州藩士有吉熊次郎は曽祖父にあたる。父(横浜正金銀行勤務)の赴任に伴い、小学校時代を旧オランダ領東インドのバタヴィア、スラバヤで過ごす。1941年帰国後、東京市立第四高女(都立竹台高校)から疎開先の和歌山高女(和歌山県立桐蔭高等学校)へ。その後、光塩高女を経て、府立第五高女(都立富士高校)卒業。東京女子大学英文学科に入学したが、休学後、1952年同短期大学部英語学科卒業。大蔵省外郭団体の職員を経て舞踊家吾妻徳穂の秘書となる。
大学在学中から演劇評論家を志望し、雑誌『演劇界』嘱託となる。同人誌『白痴群』、第15次『新思潮』に参加。1956年『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり一躍デビューを果たした。初期には主として日本の古典芸能を題材とした短編が多いが、1959年、自らの家系をモデルとした長編『紀ノ川』で小説家としての地位を確立した。
1962年、興行師の神彰と結婚。長女に作家の有吉玉青をもうける。1964年に神の事業の失敗により離婚した。
1970年代に入ると、『恍惚の人』や『複合汚染』が大きな反響を呼んで「社会派」的イメージが定着し、第10期中央教育審議会委員に任命されたほか、参院選全国区に出馬した市川房枝の応援や、「四畳半襖の下張」裁判の弁護側証人として東京地裁で証言するなどの社会活動をおこなった。
しばしば国内外へ取材旅行に出かけ、1959-60年にはロックフェラー財団の奨学金を得てニューヨークのSarah Lawrence Collegeに9ヶ月間留学、1970-71年にはハワイ大学で半年間「江戸後期の戯曲文学」を講義している。1961年、亀井勝一郎、井上靖、平野謙、吉川英治らと国交回復前の中国を訪問し、以後たびたび招待された。1965年には天主教調査のため半年滞在し、1978年には『有吉佐和子の中国レポート』執筆のため人民公社に入っている。このほか1968年には友人の文化人類学者畑中幸子が調査中だったニューギニア山中の村を訪れている。
1984年8月30日未明、急性心不全[1]のため都内の自宅で死去。享年53。
[編集] 主な作品
ストーリーテラーとしての才能と旺盛な好奇心をもち、多分野にわたる長期間の綿密な取材に基づいた作品を次々に発表して、同世代の女性を中心とする多くの読者を獲得した。主な作品をテーマ別に大きく分類すると以下の通りになる。
- 出発点である古典芸能や花柳界を扱った作品
- 『断弦』『香華』『連舞』『乱舞』『一の糸』『芝桜』『木瓜の花』
- 歴史に題材を取った作品
- 『助左衛門四代記』『華岡青洲の妻』『出雲の阿国』『真砂屋お峰』『和宮様御留』
- 特に激動の近代を生き抜いた女性の一生をたゆまず流れる川のイメージにオーバーラップさせる一連の「川もの」
- 『紀ノ川』『有田川』『日高川』『鬼怒川』
- 現代の社会矛盾に鋭い目を向けた作品
- 現代化にゆれる離島の生活を採り上げた『私は忘れない』や『海暗』、人種差別問題に深く切り込んだ『非色』などから、認知症老人とその介護を描いた『恍惚の人』、化学合成物質が人体へ与える悪影響に警鐘を鳴らした『複合汚染』を経て、『有吉佐和子の中国レポート』『日本の島々、昔と今。』のような後期ルポルタージュにつながる。
- 現代人の人間関係の機微をテーマにした作品
- 夫の死後に正妻、妾と小姑の三人が一つ屋根の下に暮らすことになって起こるドタバタを通して老いを見つめた『三婆』、不倫を楽しむ男性の破滅を描く『不信のとき』、社宅団地に住む「奥さま」たちの生活を喜劇的に描いた『夕陽カ丘三号館』、次々と人手に渡っていく青磁の壺の持ち主の人間模様をオムニバス形式で追う『青い壺』、27人の関係者へのインタビューという形式によって一女性の虚実を浮かび上がらせる『悪女について』、演劇界のどろどろした内情をミステリータッチに描いた『開幕ベルは華やかに』などがある。
演劇に造詣が深く、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』などいくつかの戯曲作品があり、また自作小説を中心に脚本化や舞台演出も数多く手がけた。ベストセラーが多いため、作品はしばしば映画化・ドラマ化されている。
[編集] 文壇の評価と研究史
デビュー当初、マスコミからは曾野綾子とならぶ「才女」ともてはやされたが、芥川賞、直木賞とも候補に終わり、文学賞とは縁が薄かった。『群像』編集長を務めた大久保房男は在任中有吉の作品を一度も掲載しなかった。また武田友寿や千頭剛など一部を除き、同時代の批評家をはじめとする文壇からは敬遠されていた。本人の激しい気性も理由の一つであろうが、文学的にはその物語性の強さが私小説的純文学の気風に合わなかったことが早くから指摘されている。また、一見古風なテーマを好む伝統主義者のように見えるが、実際には伝統を外部から客観的に、時にはエキゾチシズムをもってながめる「外地育ち」「エトランゼ(異邦人)」の視線があるという評価も確立している。一方、歴史を題材とした作品(特に『華岡青洲の妻』『真砂屋お峰』)では史実と矛盾したところが多く見られるとして、歴史小説家からの評価は今なお厳しい[要出典]。
こうした中、1984年、有吉の死去に際して、橋本治は有吉文学に通底するモチーフを「女性があっけらかんと生きるのって素敵じゃない?」、つまり筋を通して働くことで男性の束縛から自立した女性の自由と誇りの擁護であると喝破し、これまでの批評家に見られない新しい筆致で肯定的に論じた[2]。
しかし、没後しばらくすると、作品の人気は衰えた。現在新刊書店での文庫の品揃えは、生前の頃からは想像できないほど減っている。一方、半田美永、宮内淳子をはじめ、学界の中で有吉を研究対象にする近代文学研究者が増えている。
没後20年を記念して2004年に出版された井上謙・半田美永・宮内淳子編『有吉佐和子の世界』は複数の文学研究者が集まり、ポストコロニアル批評などの新しいアプローチによって正面から有吉とその文学を追究した初めての単行本である。特に巻末の年譜と関連文献目録はこれまでで最も詳細である。
1994年と2005年に関川夏央は有吉を論じ、その生き急いだ感のある一生を「サーモスタットのない人生」と評した。関川は後期作品(『複合汚染』『悪女について』『開幕ベルは華やかに』)に構成の破綻が見られると指摘しているほか、紀行文『女二人のニューギニア』と『有吉佐和子の中国レポート』を対比して、前者の明るさ、おもしろさと後者の焦燥感との落差の原因を「老い」に求め、また彼女の非私小説的作風が畑中幸子を描いた前者と自分自身の奮闘を描いた後者のできばえの差にあらわれていると書いている。
これと関連して関川は、そもそも彼女には自分自身の内面を書く能力も意志もなく、自分と似た性格を持つ他の女性を外から観察して描くことにおいて卓抜さを発揮したのだと評している[3]が、有吉のこうした傾向は彼女の持つ「外地育ちの視線」と呼応している。「お嬢さま」「才女」「外地育ち」という彼女の位置は、いずれも対象を外部から分析的にとらえるアプローチに結びついており、精神の内省的な把握を重視する姿勢からは遠かった。しかし同時に、そうした「外部」からの視角をもったがゆえに、それまで「内部」では気付かれなかった斬新な論点を世に先駆けて提起することができたのである。
[編集] 人物
長州人エリートを父方に、紀州の名家を母方にもつ「お嬢さま」で、幼い頃から病弱であり、学校は休みがちで、家で蔵書を乱読した。『孝経』の素読を受け、漢籍の素養があったことはあまり知られていない。理知的で頭の回転が速く、ものおじしない一方、喜怒哀楽と感情の起伏が激しかった。このような直情径行型の性格は、デビュー当時は「老人キラー」として肯定的に受け入れられていたが、中年期以降高名なベストセラー作家として丁重に扱われるようになると逆にマイナスに働き、ときに周囲との摩擦や衝突を引き起こした。また小説家として早くから成功したこと、その作風が文壇主流に認められなかったことから、心中には常にベストセラーを世に送ることで実績を誇示しつづけなければならないプレッシャーがあったと考えられる。長く不眠症に苦しみ、長編を書き終わるごとに体力を消耗して入院し、特に中年期以降の健康状態は心身ともに安定していなかった。死の2ヶ月前に起こった「『笑っていいとも!』テレビジャック事件」は話題となったが、橋本治[4]、池田満寿夫[5]、筒井康隆[6]はいずれも「痛々しくて見ていられなかった」と評しており、訃報を伝えたマスコミは揃ってこの事件を彼女の「奇行」として大きく採り上げた。
なお、テレビにはデビュー当初、NHKで放映された『私だけが知っている』にレギュラー出演していたことがあるが、それ以降は執筆活動を優先して極力出演を避けていた。「笑っていいとも!」に出演した理由の一つは「テレフォンショッキングに出ていないと娘(有吉玉青)にバカにされるから」だった[4]。
藪内流茶道をたしなみ、「青庵」の茶名をもっていた。和服を好み、外国訪問時には華やかな和装でしばしば周囲の注目を集めた。しかしこうした日本文化への造詣は主として大学在学中に歌舞伎界への出入りを始めてからわずかの間に身につけたものである。
『三婆』『恍惚の人』をはじめ、「老い」をとりあげた作品が多いが、自らの「老化」を語るとき「以前は一度辞書を引けばすぐ覚えられた英単語を忘れるようになった」ことを挙げている。その聡明さがしのばれる。
[編集] 交友関係
著名作家として交友関係は広かった。特に劇作家・演出家として水谷八重子 (初代)、山田五十鈴、草笛光子、宮城まり子、司葉子など演劇界・芸能界とは深い交流があった。また青年期の石原慎太郎は同世代作家(芥川賞候補(その後受賞)となったのが有吉より1期前)として有吉に親愛感を抱いており、有吉の死去に際して「若い頃一緒にナイトクラブに行ったとき口説こうと思ったが彼女がニンニクを食べた後だったので辟易してあきらめた」と書いている[5]。秦野章はマージャン友達で、有吉は彼の著書[7]の帯に「彼は知恵の壺から出てきた男だ。かつて一度も間違ったことはない」という推薦文を寄せた。菅直人は市川房枝の若者応援団のリーダーとして『複合汚染』冒頭に登場しているが、有吉は菅が自分を市川の代わりとして勝手に候補者にかつぎあげようとも考えていたと聞いてゾッとし、「ハンサムだけど嫌われなければならない」と思いつめてことさらにガミガミ怒鳴りつけたと記している。阿川弘之とは古くから親交があり、二人を一巻にまとめて収録している文学全集が複数あるが、阿川自身は有吉の生前からエッセイでかなり手厳しい人物評を書いており、娘阿川佐和子の名を有吉からとったという風評をくりかえし否定している。
国外で関係の深かった中国では老舎や夏衍、謝冰心など作家の他、政府要人、特に廖承志と親しく、また唐家璇は1965年の有吉滞在時に通訳を務め、『有吉佐和子の中国レポート』では「唐少年」と呼ばれている。老舎の妻と娘は『人民日報』に有吉の追悼文を寄稿している[8]。
[編集] 受賞歴
- 1957年 「石の庭」(テレビドラマ脚本)で第12回芸術祭テレビ部門奨励賞
- 1958年 「ほむら」(新作義太夫の作詞)で第13回芸術祭文部大臣賞
- 1963年 『香華』で第1回婦人公論読者賞、第10回小説新潮賞
- 1964年 『香華』で第1回マドモアゼル読者賞
- 1967年 『華岡青洲の妻』で第6回女流文学賞
- 1967年 「赤猪子」(あかいこ、舞踊劇脚本)で芸術祭文部大臣賞
- 1968年 『海暗』で第29回文藝春秋読者賞
- 1968年 『出雲の阿国』で第6回婦人公論読者賞
- 1970年 『出雲の阿国』で第20回芸術選奨文部大臣賞
- 1979年 『和宮様御留』で第20回毎日芸術賞
[編集] 主な作品・映画化・テレビドラマ化リスト
注:初出発表年順
[編集] 小説
- 落陽の賦(1954年、処女作。1961年に「落陽」と改題)
- 地唄(1956年。本来は長編『断弦』の一部)
- 処女連祷(1957年)
- テレビドラマ:1958年日本テレビ系
- 美っつい庵主さん(うっついあんじゅさん)(1957年)
- 映画:1958年日活「美しい庵主さん」
- 更紗夫人(1958年)
- テレビドラマ:1967年NHK
- げいしゃわるつ・いたりあの(1958年)
- 江口の里(1958年)
- 紀ノ川(1959年)
- 映画:1966年松竹「紀ノ川 ─花の巻・文緒の巻」
- テレビドラマ:1964年NHK
- 私は忘れない(1959年)
- 映画:1960年松竹
- 香華(1961-62年)
- 映画:1964年松竹
- テレビドラマ:1965年NETテレビ系、1969年フジテレビ系
- 三婆(さんばば)(1961年)
- テレビドラマ:1974年NETテレビ系、1978年TBS系
- 閉店時間(1961年)
- 映画:1962年大映
- 助左衛門四代記(1962年)
- テレビドラマ:1968年TBS系
- 連舞(つれまい)(1962-63年)
- 有田川(1963年)
- 仮縫(1963年)
- 映画:1969年東宝「華麗なる闘い」
- テレビドラマ:1977年NHK
- 非色(1963-64年)
- 一の糸(1964-65年)
- テレビドラマ:1969年NHK
- ぷえるとりこ日記(1964年)
- 日高川(1965年)
- テレビドラマ:詳細不明
- 乱舞(みだれまい)(1966-67年)
- テレビドラマ:1969年フジテレビ系
- 華岡青洲の妻(1966年)
- 映画:1967年大映
- テレビドラマ:1967年NETテレビ系、1973年TBS系、2005年NHK「木曜時代劇」
- 出雲の阿国(1967-69年)
- テレビドラマ:1973年NETテレビ系、1980年日本テレビ系、2006年NHK「出雲の阿国 (テレビドラマ)」
- 不信のとき(1967年)
- 映画:1968年大映
- テレビドラマ:1968年TBS系、1978年フジテレビ系、1984年フジテレビ系、2006年フジテレビ系「不信のとき~ウーマン・ウォーズ~」
- 海暗(うみくら)(1967年)
- 芝桜(1969-70年)
- テレビドラマ:1970年フジテレビ系
- 針女(しんみょう)(1969-70年)
- テレビドラマ:1972年NHK
- 夕陽カ丘三号館(1970年)
- テレビドラマ:詳細不明
- 恍惚の人(1972年)
- 映画:1973年東宝
- テレビドラマ:2006年日本テレビ系
- 木瓜の花(ぼけのはな)(1972-73年)
- テレビドラマ:1983年日本テレビ系
- 真砂屋お峰(まなごやおみね)(1973-74年)
- 母子変容(1973年)
- テレビドラマ:詳細不明
- テレビドラマ:1981年フジテレビ系、1991年テレビ朝日系
- 悪女について(1978年)
- テレビドラマ:1978年テレビ朝日系
- 油屋おこん(1979年)
- 開幕ベルは華やかに(1982年)
- テレビドラマ:1983年テレビ朝日系、2002年テレビ東京系
[編集] エッセイ・紀行文
- ずいひつ(1958年)
- 新女大学(1959年)
- 映画:1960年東宝「新・女大学」
- 女二人のニューギニア(1968年)
- 有吉佐和子の中国レポート(1978-79年)
- 日本の島々、昔と今。(1980-81年)
[編集] 戯曲・脚本
- 石の庭(1957年)
- テレビドラマ:1957年NHK大阪
- ふるあめりかに袖はぬらさじ ─亀遊の死(1970年)
- 山彦ものがたり(1975年)
[編集] 翻訳
- ダニエル・ベリガン『ケイトンズヴィル事件の九人』(戯曲、エリザベス・ミラーと共訳、1972年)
- ブノワット・グルー『最後の植民地』(カトリーヌ・カドゥと共訳、1979年)
[編集] 選集
- 有吉佐和子選集(全13巻、新潮社、1970-71年)
- 有吉佐和子選集第二期(全13巻、新潮社、1977-78年)
[編集] 脚注
- ^ 山田風太郎(『人間臨終図巻I』徳間書店、初版1986年、1996年再版、304ページ)と関川夏央(「サーモスタットのない人生」角川ソフィア文庫版、36ページ)は死因について疑問を呈している。
- ^ 橋本は同年『母子変容』講談社文庫版解説で初めて有吉作品を評し、最晩年の有吉はこの書評に感激して橋本と対談したが、公表された対談はこれが最後となった(「人生、見せ場づくり」『潮』1984年11月)。村上春樹との生前最後の対談は公表されていない。
- ^ 内面描写排除という評価自体は早くから(例えば進藤純孝「郷愁と脱皮の間<有吉佐和子> 『紀ノ川』をめぐって」『De Luxeわれらの文学15 阿川弘之・有吉佐和子』解説、講談社、1969年。宮内淳子『作家の自伝109 有吉佐和子』解説、2000年)あるが、それが能力の問題だと断定した論者は関川が初めてである。しかし『作家の自伝109 有吉佐和子』所収の初期随筆には生い立ちについて自己の内面的な観察を語る部分が見られる。一方後期の随筆には「理解は誤解だ」という評論家日沼倫太郎のことばがたびたび引用されており、内面的理解を言語化することへの懐疑がかいまみえる。
- ^ a b 「誰が彼女を殺したか」
- ^ a b 「有吉佐和子ちょっといい話」『文藝春秋』1984年11月号。
- ^ 『笑犬樓よりの眺望』新潮社文庫、1996年7月。
- ^ 秦野章『何が権力か。 マスコミはリンチもする』(講談社、1984年7月)ISBN 4062013762
- ^ 胡絜青、舒乙《有吉佐和子,你走得太早(有吉佐和子、あなたは逝くのが早すぎた)》『人民日報』1984年10月9日。
[編集] 参考文献
- 千頭剛『有吉佐和子 『家』に生きる人々を書く作家』(汐文社、1975年1月)
- 『面白半分7月臨時増刊号 全特集有吉佐和子』(1976年6月)
- 橋本治「誰が彼女を殺したか」(初出『月刊カドカワ』1984年11月号)『恋愛論』(講談社文庫、1986年)所収 ISBN 4061837907
- 有吉玉青『身がわり 母・有吉佐和子との日日(にちにち)』(初出1989年。新潮社文庫、1992年3月)ISBN 4101132704
- 丸川賀世子『有吉佐和子とわたし』(文芸春秋、1993年7月) ISBN 4163477802
- 宮内淳子・橋本治寄稿『有吉佐和子 新潮日本文学アルバム71』(新潮社、1995年5月) ISBN 4106206757
- 関川夏央「サーモスタットのない人生」荒俣宏編『知識人99人の死に方』(初出1994年。角川ソフィア文庫、2000年10月)所収 ISBN 404169034X
- 佐伯彰一・松本健一監修、有吉佐和子著、宮内淳子編『作家の自伝109 有吉佐和子』(日本図書センター、2000年11月)ISBN 4820595555
- 井上謙・半田美永・宮内淳子編『有吉佐和子の世界』(翰林書房、2004年10月) ISBN 4877371931
- 関川夏央「有吉佐和子的人生」(初出2005-06年)『女流 林芙美子と有吉佐和子』(集英社、2006年9月)所収 ISBN 4087748189
[編集] 外部リンク
- 唯一の総合的紹介サイト。
- 改版を含めた書誌情報に詳しい。
- 蔵書の一部を寄贈した「有吉佐和子文庫」がある。
- 境内に「有吉佐和子の碑」があり、命日には「有吉忌」が営まれる。