山田五十鈴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田 五十鈴(やまだ いすず、1917年2月5日 - )は、日本の女優。大阪府大阪市中央区出身。本名山田美津。
目次 |
[編集] 来歴・人物
新派劇俳優の山田九州男の娘として生を受け、幼少時から常磐津、清元、舞踊などを習っていた。1930年、日活に入社し「剣を越えて」で大河内傳次郎の相手役としてデビュー。以降「国士無双」など多くの日活作品に出演する。1936年、溝口健二監督の「浪華悲歌」、「祇園の姉妹」での好演により、第一線女優としての地位を確立する。 その後東宝へ移籍してからは、「鶴八鶴次郎」、「婦系図」、「蛇姫様」など、長谷川一夫との共演作に数多く出演した。
1952年、「現代人」、「箱根風雲録」の演技が評価され、ブルーリボン賞主演女優賞、毎日映画コンクール女優主演賞を受賞する。1955年には「たけくらべ」でブルーリボン賞助演女優賞を受賞。また、翌1956年には、「母子像」等で2度目となるブルーリボン賞主演女優賞、毎日映画コンクール女優主演賞、「流れる」等でキネマ旬報女優賞を受賞する。1957年、「蜘蛛巣城」、「どん底」、「下町」で2度目のキネマ旬報女優賞を受賞。名実ともに、映画界を代表する大女優となる。
1963年に東宝演劇部の専属となる。これ以降、NHK大河ドラマ「赤穂浪士」(1964年)や、朝日放送「必殺からくり人」(1976年)といったテレビ時代劇にも出演し、好評を博した。
また、1959年の新劇合同公演「関漢卿」への出演、歌舞伎役者の中村歌右衛門 (6代目)や尾上松緑 (2代目)との共演を機に、舞台への出演も積極的に行っている。1963年、「香華」「丼池」「明智光秀」でテアトロン賞を受賞し、1974年、「たぬき」で芸術祭大賞、毎日芸術賞を受賞した。1977年に「愛染め高尾」、1983年には「太夫さん」で芸術祭大賞を受賞している。1993年、文化功労者表彰、さらに2000年、女優としては初めて文化勲章を受章。
「安全が保障されて居る上、お手伝いさんも要らない」という理由から、近年は京都の自宅を引き払い、帝国ホテルの一室で生活を送っていた。80歳をこえても舞台を中心に盛んに活躍していたが、2002年に数度に渡って体調を崩し、舞台の休演・降板が相次いだ。この年を最後に、公の場には姿を見せていない。
女優だった瑳峨三智子は、俳優・月田一郎との間の一人娘である。が、瑳峨は自分を棄てた山田を憎み、撮影所で会ったときも母のことを「山田さん」と呼んでいたとされる。そのわだかまりは、瑳峨が山田より先に死を迎えるその日までついに消えなかった。
[編集] 受賞・受章歴
- 1955年:ブルーリボン賞・助演女優賞 『たけくらべ』
- 1956年:ブルーリボン賞・主演女優賞 『母子像』
- 1956年:毎日映画コンクール・主演女優賞 『母子像』
- 1956年:キネマ旬報女優賞 『流れる』
- 1957年:キネマ旬報女優賞 『どん底』『蜘蛛巣城』『下町』
- 1963年:テアトロン賞 『香華』『丼池』『明智光秀』
- 1974年:芸術祭大賞 『たぬき』
- 1977年:芸術祭大賞 『愛染め高尾』
- 1983年:芸術祭大賞 『太夫さん』
- 1993年:文化功労者
- 2000年:文化勲章
[編集] 出演作品
[編集] 映画
- マリアのお雪(1935年)
- 祇園の姉妹(1936年)
- 鶴八鶴次郎(1938年)
- 母子像(1956年)
- 流れる(1956年)
- 蜘蛛巣城(1957年)
- 大忠臣蔵(1957年)
- どん底(1957年)
- 東京暮色(1957年)
- ぼんち(1960年)
- 用心棒(1961年)
- 柳生一族の陰謀(1978年)
- 疑惑(1982年)
- 必殺! THE HISSATSU(1984年)
- 必殺! ブラウン館の怪物たち(1985年)
[編集] テレビドラマ
- 赤穂浪士(NHK大河ドラマ・1963年)
- 源義経(NHK大河ドラマ・1966年)
- 必殺からくり人(朝日放送・1976年)
- 新・必殺からくり人(朝日放送・1977年)
- 必殺からくり人・富嶽百景殺し旅(朝日放送・1978年)
- 必殺仕事人(朝日放送・1979年)
- 新・必殺仕事人(朝日放送・1981年)
- 必殺仕事人III(朝日放送・1982年)
- 必殺仕事人IV(朝日放送・1983年)
- 必殺仕事人V(朝日放送・1985年)
- 怒る男・笑う女(NHK・1999年)
- 葵徳川三代(NHK大河ドラマ・2000年)
- マッチポイント!(NHKドラマ家族模様・2000年。 共演:大林素子、初音映莉子)
[編集] バラエティー番組
[編集] 舞台
- たぬき
- 淀どの日記