永島昭浩
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永島 昭浩(ながしま あきひろ、1964年4月9日 - )は元サッカー選手で、サッカー解説者、スポーツキャスター。
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[編集] 来歴
小学4年からサッカーを始め、御影工業高校時代は1年からインターハイ出場、1、2年時には全国高校選手権出場。3年では兵庫県選抜入りし、島根国体で優勝。 高校卒業後の1983年、松下電器産業サッカー部(1992年からガンバ大阪)に入団。4年目からポジションを奪い、1991年元旦には天皇杯獲得。その頃から彫りの深いエキゾチックな顔立ちやFWとしてのプレーぶりが注目されるようになり、日本代表にも選ばれた。国際Aマッチには4試合出場。
1993年の6月5日、神戸ユニバー記念競技場で行われた名古屋グランパスエイト戦にてハットトリックを達成、これがJリーグ日本人選手のハットトリック第1号となった(Jリーグのハットトリック第1号はジーコ)。
阪神・淡路大震災が起こった1995年シーズン途中、「神戸を勇気づけたい」と当時JFL所属でJリーグ準会員のヴィッセル神戸に移籍。Jリーグの強豪クラブのエースが、下部リーグに移籍したことで当時話題になった。1996年はチームのJリーグ昇格に貢献する活躍を見せ、「ミスター神戸」としてチームを牽引した。
1997年には、ジェフユナイテッド市原戦で自身2回目となるハットトリックを達成する。
2000年末、現役を退き、ヴィッセル神戸の技術アドバイザー、日本サッカー協会のJFAアンバサダーとして後進の指導に当たる傍ら、スポーツコメンテーターとしてフジテレビ系列、CS放送J SPORTSの解説や毎日放送(MBSラジオ)のパーソナリティー、読売テレビ「雨スポ」などに出演している。
「FNNスーパーニュース」ではスポーツキャスターをつとめているが、たびたびセリフを噛むことで有名。アテネオリンピックなどでも現地リポーターとして派遣されるが、日本チームが勝たないジンクスがつき、「逆長坂」と言われたことも。
2004年まで「すぽると!」では毎週木曜日にtotoを予想するコーナーをやっていたものの、その的中率は芳しくなかった。
また、2001年からはアシックスのスポーツアドバイザーとしても活動している。
[編集] 所属クラブ
- 千歳小学校 1974-1976
- 太田中学校 1977-1979
- 御影工業高校 1980-1982
- 松下電器・ガンバ大阪 1983-1993
- 清水エスパルス 1994-1995
- ヴィッセル神戸 1995.6-2000
[編集] 通算成績
- 日本リーグ通算 - 107試合43得点
- Jリーグ通算 - 165試合61得点
- カップ戦通算 - 25試合15得点
- 天皇杯通算 - 10試合8得点
[編集] 個人成績
年度 | チーム | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||
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出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1993年 | G大阪 | J | - | 32 | 12 | ||||
1994年 | 清水 | J | - | 28 | 8 | ||||
1995年 | 清水 | J | - | 10 | 1 | - | |||
1997年 | 神戸 | J | 13 | 32 | 22 | ||||
1998年 | 神戸 | J | 13 | 28 | 10 | ||||
1999年 | 神戸 | J1 | 13 | 26 | 7 | ||||
2000年 | 神戸 | J1 | 13 | 9 | 1 | ||||
通算 | 165 | 61 |
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 4試合 0得点(1990-1991)
- 国際Cマッチ 2試合 0得点(1991)
年度 | 国際Aマッチ | 国際Bマッチ | 国際Cマッチ | |||
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出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |
1990年 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1991年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
通算 | 4 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
[編集] 個人タイトル
- 1997年 - Jリーグ フェアプレイ個人賞
[編集] 外部リンク
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