ジェフユナイテッド市原・千葉
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ジェフユナイテッド市原・千葉 | |
原語表記 | ジェフユナイテッド市原・千葉 |
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愛称 | ジェフユナイテッド、ジェフ |
クラブカラー | 黄、緑、赤 |
創設年 | 1946年 |
所属リーグ | Jリーグ |
所属ディビジョン | ディビジョン1 |
ホームタウン | 市原市・千葉市 |
ホームスタジアム | フクダ電子アリーナ |
収容人数 | 19,781 |
代表者 | 淀川隆博 |
監督 | アマル・オシム |
ジェフユナイテッド市原・千葉(ジェフユナイテッドいちはら・ちば、JEF UNITED ICHIHARA CHIBA)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。略称「ジェフユナイテッド千葉」、または「ジェフ千葉」。
2005年2月1日より、それまでのチーム名を「ジェフユナイテッド市原」から現在の名前に改称した。
目次 |
[編集] 概要
1993年の開幕時からJリーグに参加。ホームタウンは千葉県市原市、2003年シーズンから千葉市が加わった。ホームスタジアムはフクダ電子アリーナと市原臨海競技場である。練習場は2000年から市原市のフットパーク・あねさき(姉崎公園サッカー場)を使用。
クラブの運営会社は東日本ジェイアール古河サッカークラブ。クラブ名のJEFはJR East Furukawaの略称。UNITEDはクラブ・ホームタウンの結びつき、結束力を示す。1991年に公募により決定される。 マスコットは秋田犬の兄弟。背番号2を付けているのがジェフィ(兄)、背番号9を付けているのがユニティ(弟)である。
スクール及びジュニアユースチームは市原市の辰巳台地区と習志野市の茜浜地区にある。千葉県外ではこの他に、栃木県宇都宮市、青森県八戸市にサッカースクールを所有している。又宮城県名取市の東北電力名取スポーツパーク(NASPA)と提携してNASPAスクールの運営も行っている。これはジェフがJリーグ発足当初、市原市を中心としたJR東日本沿線地域(東北、関東、甲信越)の各地域を広域的にネットワークする構想を持っていたことの名残りである(実際秋田、仙台、山形、新潟と、古河電工の事業所がある福井でホームゲームを開催した実績がある)。又スクールのデリバリー版として「サッカーおとどけ隊」が主に市原市、千葉市内の保育園・幼稚園・小学校・中学校くらいまでを範囲として訪問している。又千葉大学と提携して指導者向けの講習も行っている。
ジェフに特有の下部・関連組織としてアマチュアチームとなる「ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズ」がある。このアマチュアチームは市原市民が1995年に立ち上げ、元々人材交流のあったアマチュアクラブチームの「市原スポーツ・クラブ」を2000年よりジェフユナイテッド市原の普及部付けとして改組したもので2003年から「ジェフユナイテッド市原アマチュア」(当時)を名乗っている。こうした下部チームの形態はヨーロッパでは珍しくはない。アマチュアチームの立ち上げ以降日本フットボールリーグへの参加を目指し、2005年に関東社会人リーグ1部で準優勝、さらに全国地域リーグ決勝大会では準優勝を果たし、日本フットボールリーグへの昇格を果たした。
女子チームとしてジェフユナイテッド市原・千葉レディースがある。こちらは現在なでしこリーグ2部に在籍している。レディースチームは当初(1992年)からジェフの下部組織として運営されている。廃部される例が少なくない日本の女子サッカーチームとしては、かなり息の長い存在となっている。
[編集] 歴史
[編集] 1993年まで
前身は1946年に設立された古河電気工業サッカー部。1965年の日本サッカーリーグにスタート時から参加。日本リーグ、Jリーグを通じて一度も下部(日本リーグ2部、旧JFL、J2)リーグに降格したことのない唯一のクラブチームである。日本リーグ時代は三菱重工(現:浦和レッドダイヤモンズ)や日立(現:柏レイソル)とともに丸の内御三家と言われていた。日本サッカーリーグ2回、天皇杯全日本サッカー選手権大会4回、JSLカップ3回優勝の名門。また1986年/1987年にはアジアクラブ選手権大会で日本のクラブチームとしては初めてとなるアジアタイトルを獲得した。
プロリーグ発足に関しては、古河電工単独でのプロクラブ化は難しかったため、1991年に古河電工と取引関係にあったJR東日本と合弁でクラブチームに移行し「東日本JR古河FC」となった(プロクラブ化に関しての曲折は小倉純二の項目も参照。小倉は古河電工退職直前に当たってジェフユナイテッドの誕生に尽力した人物である)。
当初は当時、古河電工サッカー部が活動本拠地としていた横浜市をホームタウンとすることを企画していたが、早々に横浜フリューゲルス及び横浜マリノス(当時)が横浜市をホームタウンとすることを決定したため、首都圏で尚且つ古河電工が事業所を持つ千葉県にホームタウンを置く事として、新たなホームスタジアム探しが始まった。
千葉県の中では、当初習志野市(ホームスタジアムは秋津公園サッカー場を予定していた)を本拠地にすることを計画していた。そのためホームタウンが決定する以前の1991年からクラブ事務所と練習場は、距離的にも習志野市に近く、古河電工の事業所が置かれていた浦安市舞浜地区に置いていた。ところが秋津サッカー場周辺の住民が騒音の問題などを危惧してホームタウンとすることに反対したため、習志野市議会の同意を得る事が不可能となり、ホームスタジアム探しは振り出しに戻ってしまった。
千葉県下において次の候補地となったのが同じく古河電工の事業所が設置されており、古河電工の社宅など関連施設が多く存在していた市原市である。市原市議会からの賛同を得て、正式にホームタウンとしてJリーグに登録できたのは1992年5月で、これは当月に設定されていたJリーグ加盟正式申請の締め切り直前であった。ホームスタジアムはそれまで市営の陸上競技場としてこじんまりと使用されていた市原臨海競技場を突貫工事で改修して使用された。
[編集] 1993年-2001年
Jリーグが開幕した1993年から1995年までの3年間は営業面におけるクラブの絶頂期であった。特に1993年は観客動員においてヴェルディ川崎(当時)に続く2位。1994年はヴェルディとガンバ大阪に続く3位であった。又この2年間は平均観客動員が2万人を超えていた(ただしこれは、国立霞ヶ丘競技場を多用していたのが一因であり、地元・市原臨海競技場でのホームゲーム開催数は低く抑えられていた)。しかし1996年以降は観客動員の減少が始まり、1997年には総観客動員、平均観客動員がJリーグで最低になるまで落ち込み、以降この位置が常態化した。1997年以降2005年に至るまで毎年、年間観客動員がJ1リーグの中で最低を記録し続けている。
クラブと市原市もこの期間少しずつではあるが、地域に密着して行こうとする努力を始めた。当時クラブ事務所と練習場は、ホームタウンを市原市に変更して以降も浦安市に置かれていたが、地理的にかなりの距離があった事からクラブの中枢機能とホームタウンである市原市の連絡体制が不十分であった。又練習場と試合会場が離れていたため、選手、スタッフの殆どが浦安市周辺に住んでおり、試合をするためだけに「市原市に来ていた」状態が続いていた。この状態を改善するため2000年からはホームタウンである市原市のフットパーク・あねさき(姉崎公園サッカー場)にクラブ中枢機能及び練習場を移し、名実ともに市原市のクラブとしての機能を高めるようになった。
1998年から2000年までチームは毎年残留争いに加わり、観客動員も低迷した。2000年のシーズン終了直前の12月7日にはサポーターが監督のズデンコ・ベルデニックとチーム統括部長の祖母井秀隆の辞任を求め臨海競技場に立て篭もる騒ぎとなった。クラブはチームの成績向上を模索してサポーターと話し合いの場を設ける事に同意し、後日姉崎公園サッカー場のクラブハウス前で執り行われたサポーターミーティングが行われる事になった。これが後のサポーター・コミュニケーション・デーの元となった。
2001年シーズンには、1stステージで2位となり、下馬評を大きく覆して見せた上に、この年から始まった試合結果が反映されるtotoと共に、大きな注目を集めた。しかしそれでも観客動員は大きな回復を見せなかったため、クラブ首脳部も驚きを隠せず、これが翌年から始まる抜本的な改革の契機となった。
[編集] 2002年-
2002年のシーズン開幕の直前、クラブは千葉市蘇我地区の旧川崎製鉄工場跡地に建設される千葉市総合スポーツ公園球技場(現在のフクダ電子アリーナ)を完成後市原臨海競技場と併用してホームスタジアムとして使用する方針である旨発表した。これには蘇我地区の目玉となる施設を建設したいが、それを継続して使用してくれる団体を求めていた千葉市と、スタジアム環境の改善を図って観客増を狙いたいジェフユナイテッド市原との間の利害の一致があった。
以下については千葉市蘇我球技場(フクダ電子アリーナ)、市原臨海競技場、市原スポレクパークの項目も合わせて参照されたい。
多くのサポーターは概ねこの発表に対して好意的に受け止めた。理由として臨海競技場の実情が、
- アクセスが非常に不便であり、JR内房線五井駅から徒歩30分かかる。試合日にはシャトルバスを運行しているが、帰りなどは渋滞に巻き込まれるとバスに乗る列に並び始めてから駅に着くまで40分以上もかかってしまう。又内房線の電車の本数も少ない。
- メインスタンド以外が鉄骨製であり、またバックスタンド後方に民家があるため大きなスタンドを作れない上に防音壁を立て、その分陸上用のアンツーカーの一部を立見席にした急ごしらえのスタンドで対応した事で、施設として大変貧弱であった。
- 上記2つの理由が観客動員の低迷に大きく関与していると思われていた。
であったのに対して蘇我に「移転」した場合
- 建設予定位置が駅から非常に近く、バスを使わなくても徒歩で移動できる。又京葉線、外房線、内房線のターミナル駅となっており、電車の本数も大幅に増加する。又サポーターの分布が実情としてより人口の多い総武線、京葉線、京成千葉線にシフトしており大多数のサポーターにとって市原臨海よりもより近くにスタジアムが位置することになる。
- 蘇我に建設予定のスタジアムは球技専用であり、陸上競技場であった市原臨海よりも臨場感が増す。又新規にスタジアムを建設するため、スタジアムの環境も改善される。
- 駅から近いサッカー専用のスタジアムと言う事で観客増が大いに期待される。
ためであった。又サポーターの中にはクラブの言うホームエリアの「拡大」では無く千葉市への事実上の「移転」であると捉える向きも出始めた。
2002年の秋からは、スタジアムの概要をサポーターやクラブ、プレーヤー、県及び市協会、Jリーグからヒアリングするイレブン懇談会が始まり、千葉市へ向けられる、期待は益々大きくなる事になった。更にこの年、千葉市もホームタウンへ加える広域化が承認され翌年からは市原市に加えて正式に千葉市もホームタウンに加わる事になった。
さらにクラブは2003年から「千葉」を加えた新チーム名のあり方の検討を始めた。この年にサポーターを対象としたアンケートを実施し、その結果、2004年に次のシーズンから新チーム名を「ジェフユナイテッド市原・千葉」、呼称を「ジェフユナイテッド千葉」とするリリースを発表した。
一方、クラブの新名称が検討されるのに前後して、市原市はホームタウンの軸足が完全に千葉市にシフトされる事を懸念し始めた。市原市も2003年の春頃から市原臨海競技場のサイドスタンド及びバックスタンドの改修工事を検討し始め、そのプランも発表されたが、後にこのプランはバックスタンドのみに縮小された。市原臨海競技場の改修工事は2003年シーズンの終了直前から始められ、2004年シーズンの1stステージ中盤まで続けられた。しかしこのシーズンの開幕直前に新チーム名を「ジェフユナイテッド市原・千葉」、呼称を「ジェフユナイテッド千葉」に改称するリリースが発表されると、市原市では態度の硬化がはじまり呼称も「ジェフユナイテッド市原・千葉」にするように求めて2万人の署名が集められた。これに対してサポーターの評価は概ね低く「2万人分の署名が集められるなら、なぜ臨海がいつも満員にならないのか?」や「そもそも『千葉(県)』に市原市も含まれるのだから、市原を入れる必要はない。名称を市原・千葉にしたのは最大限の譲歩だ」とする意見も聞かれた。一方で「今までホームタウンとして努めてきた市原市に対して誠意が無いのではないか?」とする意見も聞かれた。
結局、呼称問題についてはJリーグ側からの留保期間が設けられたものの、2004年5月18日に最終的にJリーグ理事会から承認され、新チーム名と呼称については2005年2月1日より使用が開始される事になった。改称後、マスコミ等による呼称に関しては市原市が危惧した通り、専ら「千葉」のみが使われる傾向にある。サポーターが唄う応援ソングの中にも「千葉」とコールするものがある。ホームタウンを構成する市原市と千葉市でもそれぞれで呼称の使い方が異なり、広報資料などでも市原市は「ジェフユナイテッド市原・千葉」の表記で統一しているのに対し、千葉市では「ジェフユナイテッド千葉」で統一している。
蘇我に建設されたフクダ電子アリーナについてであるが、当初クラブ側は市原臨海競技場とフクダ電子アリーナの双方を2005年からホームスタジアムとして併用していくとし、2005年のフクダ電子アリーナでのホームゲームの開催はスタジアムが完成し、芝の養生が終わった後の6試合程度にとどまるため、2005年シーズンに関して言えば実質的には市原臨海競技場がメインとなった。 クラブとしては2006年シーズン以後については、観客動員、収支などを検討した上で、どちらをメインのスタジアムにしていくか検討していくとして、2006年シーズンについては、市原臨海競技場改修のため、全試合をフクダ電子アリーナにて開催し、その後、市原臨海競技場は予定していた改修工事を行う予定であった。 しかし、当初の計画していた改修工事に関し、日本サッカー協会より今までより厳しい改修工事の条件を提示された。 その条件とは、
- 観客席を2万人以上収容出来るようにし、席を全て一つずつに分けること(メインスタンド以外の席は、別れていない長いすのため)
- 客席の2/3以上覆える屋根を設置すること。
- 総座席数に対し、毎試合、観客席の8割以上の観客を動員すること
これに対し、市原市は「これ以上の財政支出は、市民の了解を得られない。」との結論に達し、これから行う予定であったスタジアムの改修工事を断念。それに伴い、今後ジェフ千葉の試合は一切行われないこととなり、全ての試合をフクダ電子アリーナにて行なうこととなった。今後市原臨海競技場は、現在の仮設の観客席を撤去し芝生席に改修を行った後、今後は、主にサッカー、陸上等の予選大会等を行っていくとの方針で決定した。
一方ソフト面における改革も徐々に始められ、2000年にクラブハウス、練習場が市原市へ移転した後も浦安市ではジュニアユースチーム(ジェフユナイテッド・ジュニアユース舞浜)及び舞浜スクールが活動を続けていたが、2005年に舞浜のクラブ機能は全て閉鎖された。舞浜に代って2005年からは習志野市茜浜地区に新たに練習場が確保され、ジュニアユースチーム(ジェフユナイテッド・ジュニアユース習志野)、習志野スクール及びレディースチームが活動している。
[編集] 戦績

クラブ発足当初は古河色を色濃く残しており、監督に古河OBの永井良和を、コーチにこれも古河OBの岡田武史をあてていた。但し、外国人選手にヨーロッパ出身者を当てる伝統は既にこの頃から始まっており、元ドイツ代表ピエール・リトバルスキー、チェコ出身のパベル・ジェハークを迎え彼ら中心のチーム編成を行っていた。
その後、清雲栄純、奥寺康彦と続けて古河OBを監督に当てていたが、ゼネラルマネージャーに祖母井秀隆が就任した1997年シーズンのヤン・フェルシュライエン以降、一貫してヨーロッパの出身の監督を起用する事となった。
1998年-2000年シーズンにはJ1残留争いを展開した。特に残留争い3年目となった2000年のシーズンオフ直前にはサポーターが市原臨海競技場を占拠してクラブを激しく糾弾。当時監督であったズデンコ・ベルデニックとチーム統括部長の祖母井の辞任を求める騒ぎとなった。
2001年シーズン開幕前には現役韓国代表FW崔龍洙が加入し、得点力が大幅にアップした。その結果1stステージで2位となり、下馬評を大きく覆して見せた上に、この年から始まった試合結果が反映されるtotoと共に、大きな注目を集めた。しかしそれでも観客動員は大きな回復を見せなかったため、クラブ首脳部も驚きを隠せず、これが翌年から始まる抜本的な改革の契機となった。 2002年は調子を落としたものの、1stステージは8位、2ndステージは11位で終え、「万年降格争い」と言われた時代から脱却した。
優勝争いを現実のものとするために、祖母井チーム統括部長のコネクションで1990年イタリアW杯でユーゴスラビア代表監督を務めたイビチャ・オシムを監督に招聘。「賢く走る」「危険なサッカー」をキーワードにチーム強化を図っていった。また同時にユース出身で当時21歳の阿部勇樹をキャプテンに指名。改革はチームの意識変化にまで及んだ。就任1年目にいきなり1stステージ3位、2ndステージ2位という結果を残し、優勝争いが現実味を帯びてきた。2003年オフには中西永輔や崔龍洙、2004年オフには茶野隆行や村井慎二というチームのレギュラーが次々退団していったものの、それでも順位を落とすことなく翌シーズンも上位争いに加わっていった。2005年には念願のナビスコ杯で優勝し、Jリーグ創設からチーム初のタイトルを手中にした。2006年には巻誠一郎が日本代表選手として、ドイツW杯出場を果たす。また、そのドイツW杯終了後に現役監督であったイビチャ・オシムが日本代表監督に引き抜かれるという事態にまで発展した。その後、息子であるアマル・オシムが後任監督となり見事ナビスコ杯を連覇する。羽生直剛、佐藤勇人、山岸智ら「オシムチルドレン」が代表に選ばれ、(恩師オシムが監督とは言え)それぞれ代表デビューも飾った。しかしアマルが就任してからはナビスコ優勝が嘘のようにリーグ戦では成績がパッとせず、シーズンを11位で終了。さらには天皇杯でJ2の札幌に緒戦で敗れる失態も見せる。10月には祖母井部長がフランス2部・グルノーブルへ引き抜かれ、シーズン終了後には、チームの顔である主将の阿部勇樹が浦和に移籍し、選手会長の坂本將貴も新潟へ移籍した。フロントは祖母井の後任統括本部長の選任にも後手を踏み、唐井直の就任が発表されたのは、契約更改交渉がスタートした後だった。その結果、2007年1月に入っても巻・佐藤・山岸がチームの今季の方針説明契約を理由に契約を保留するなど大荒れの1年となった。
[編集] 成績の一覧
年 | リーグ順位 | 勝点 | 勝 | 負 | 分 | 得点 | 失点 | ナビスコ杯成績 | 天皇杯成績 | 監督 |
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92 | なし | なし | なし | なし | なし | なし | なし | グループリーグ敗退 | 準々決勝敗退 | 永井良和 |
93 | S-5位 N-9位 |
- | S-9 N-5 |
S-9 N-13 |
- | S-28 N-25 |
S-28 N-44 |
グループリーグ敗退 | 準々決勝敗退 | 永井良和 |
94 | S-6位 N-9位 |
- | S-10 N-9 |
S-12 N-13 |
- | S-34 N-35 |
S-43 N-52 |
2回戦敗退 | 2回戦敗退 | 清雲栄純 |
95 | S-6位 N-7位 |
S-45 N-43 |
S-14 N-14 |
S-12 N-12 |
- | S-48 N-49 |
S-40 N-51 |
なし | 初戦敗退 | 清雲栄純 |
96 | 9位 | 40 | 13 | 17 | - | 45 | 47 | グループリーグ敗退 | 3回戦敗退 | 奥寺康彦 |
97 | 1-15位 2-14位 |
1-15 2-15 |
1-5 2-6 |
1-11 2-10 |
- | 1-21 2-22 |
1-34 2-35 |
準々決勝敗退 | 4回戦敗退 | ヤン・フェルシュライエン |
98 | 1-11位 2-18位 |
1-21 2-4 |
1-7 2-2 |
1-10 2-15 |
- | 1-31 2-18 |
1-31 2-44 |
準優勝 | 3回戦敗退 | ヤン・フェルシュライエン |
99 | 1-15位 2-11位 |
1-12 2-16 |
1-4 1-6 |
1-9 2-9 |
1-2 2-0 |
1-19 2-22 |
1-34 2-22 |
2回戦敗退 | 3回戦敗退 | 1st:ゲルト・エンゲルス 2nd:ニコラエ・ザムフィール |
00 | 1-11位 2-16位 |
1-19 2-9 |
1-6 2-3 |
1-8 2-11 |
1-1 2-1 |
1-22 2-15 |
1-22 2-27 |
2回戦敗退 | 準々決勝敗退 | -2・8:ニコラエ・ザムフィール 2・9,10:神戸清雄 2・11-:ズデンコ・ベルデニック |
01 | 1-2位 2-5位 |
1-27 2-23 |
1-10 2-7 |
1-5 2-6 |
1-0 2-2 |
1-35 2-25 |
1-26 2-28 |
準々決勝敗退 | 準々決勝敗退 | ズデンコ・ベルデニック 天皇杯:神戸清雄 |
02 | 1-8位 2-11位 |
1-23 2-18 |
1-7 2-6 |
1-5 2-9 |
1-3 2-0 |
1-22 2-16 |
1-23 2-19 |
準々決勝敗退 | 準決勝敗退 | ジョゼフ・ベングロシュ |
03 | 1-3位 2-2位 |
1-27 2-26 |
1-8 2-7 |
1-4 2-3 |
1-3 2-5 |
1-34 2-24 |
1-17 2-18 |
グループリーグ敗退 | 準々決勝敗退 | イビチャ・オシム |
04 | 1-7位 2-2位 |
1-22 2-28 |
1-5 2-8 |
1-3 2-3 |
1-7 2-4 |
1-28 2-27 |
1-23 2-22 |
グループリーグ敗退 | 4回戦敗退 | イビチャ・オシム |
05 | 4位 | 59 | 16 | 7 | 11 | 56 | 42 | 優勝 | 5回戦敗退 | イビチャ・オシム |
06 | 11位 | 44 | 13 | 16 | 5 | 57 | 58 | 優勝 | 4回戦敗退 | -12節:イビチャ・オシム 13節-:アマル・オシム |
[編集] 獲得タイトル
- 2005年 - ヤマザキナビスコカップ
- 2006年 - ヤマザキナビスコカップ
[編集] 獲得タイトル(個人タイトル)
- 1994年 - フランク・オルデネビッツ
- 2005年 - イリアン・ストヤノフ、阿部勇樹
- 2006年 - 阿部勇樹
- 2006年 - 山岸智
[編集] ユニフォーム
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[編集] チームカラー
- チームカラーは黄色、緑色、赤色の3色(ラスタカラー)
- 黄色は千葉県の県花である菜の花、緑色はJR東日本の、赤は古河電工のコーポレートカラーからきている。
- 2005年シーズンからユニフォームには新たに紺色を使用。
- 紺色については「千葉市、市原市が面している海(東京湾)の色」「市原市の旗の色が群青色」「千葉市のコミュニケーションマークのカラーが青」ということで採用した。
[編集] ユニホームスポンサー
[編集] 過去のユニホームスポンサー
- セガ・エンタープライゼス(現・セガ)(胸 1993-1996年)
- 日本テレコム(現・ソフトバンクテレコム)(袖 1993-1994年)
- JR東日本・びゅう(袖 1995年)
- J-PHONE・東京デジタルホン(現・ソフトバンクモバイル)(胸 1997年)
- 古河電工不動産(袖 1998-1999年ごろ)
- オートウェーブ (胸 2002年-2006年)
[編集] ユニホームサプライの遍歴
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
ジェフユナイテッド市原・千葉 - 2007 |
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1 立石智紀 | 3 斎藤大輔 | 4 水本裕貴 | 5 ストヤノフ | 6 下村東美 | 7 佐藤勇人 | 8 水野晃樹 | 9 黒部光昭 | 11 新居辰基 | 13 市原充喜 | 14 池田昇平 | 15 中島浩司 | 16 山岸智 | 18 巻誠一郎 | 19 伊藤淳嗣 | 20 工藤浩平 | 21 中牧大輔 | 22 羽生直剛 | 23 楽山孝志 | 24 結城耕造 | 25 加藤韻 | 26 金沢亮 | 27 熊谷智哉 | 28 堀川恭平 | 29 青木孝太 | 30 岡本昌弘 | 31 米倉恒貴 | 32 金東秀 | 33 山中誠晃 | 34 中原浩介 | 35 安里光司 | 36 竹田忠嗣 | 37 朴宗真 | 38 川上典洋 | 39 松本憲 | 40 ジョルジェビッチ | 監督 アマル・オシム | クラブ | |
Jリーグ 2007 | |
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J1 | |
鹿島アントラーズ | 浦和レッドダイヤモンズ | 大宮アルディージャ | ジェフユナイテッド市原・千葉 | 柏レイソル | FC東京 | 川崎フロンターレ | 横浜F・マリノス | 横浜FC | ヴァンフォーレ甲府 | アルビレックス新潟 | 清水エスパルス | ジュビロ磐田 | 名古屋グランパスエイト | ガンバ大阪 | ヴィッセル神戸 | サンフレッチェ広島 | 大分トリニータ |
|
J2 | |
コンサドーレ札幌 | ベガルタ仙台 | モンテディオ山形 | 水戸ホーリーホック | ザスパ草津 | 東京ヴェルディ1969 | 湘南ベルマーレ | 京都サンガF.C. | セレッソ大阪 | 徳島ヴォルティス | 愛媛FC | アビスパ福岡 | サガン鳥栖 |
|
過去に存在したクラブ | |
横浜フリューゲルス | |
ナビスコ杯 | オールスターサッカー | チャンピオンシップ | 入れ替え戦 | アウォーズ |