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牧野成貞(まきの なりさだ、寛永11年(1634年) - 正徳4年6月5日(1712年7月8日))は江戸時代の大名。館林藩家老、5代将軍徳川綱吉の側用人、下総国関宿藩主。名は成恒とも。通称は蔵人、兵部、大夢。
越後長岡藩主、牧野氏の支族。
[編集] 年譜
- 寛永11年(1634年)幕府旗本、書院番頭・牧野儀成(成儀とも)の次男として生まれる。母は朝倉在重の娘。父の牧野儀成は、越後国長岡藩主牧野忠成の弟で、上野国大胡藩主牧野康成の庶子であった。
- 万治3年(1660年)に3代征夷大将軍の徳川家光の庶子徳川綱吉の側衆となり、神田館に出仕。翌年に綱吉は上野国館林藩主に分家すると奏者番として仕えた。
- 寛文7年(1667年)長女松子誕生、
- 寛文9年(1669年)次女安誕生。
- 寛文10年(1670年)12月に家老(3000石)に抜擢される。
- 寛文11年(1671年)三女亀誕生。
- 綱吉が、将軍世継ぎとして、呼び戻されると、成貞もこれ従い側衆となる。
- 延宝8年(1680年)、4代将軍徳川家綱の死後、常陸国内1万3千石の大名(城主)となる(後に2万石加増)。
- 天和元年(1681年)、江戸幕府で初めての側用人に任命され、以後綱吉の最側近として初期の綱吉政権を支える。
- 天和3年(1683年)、下総国関宿藩に移封され、下総国(葛飾、相馬、猿嶋、岡田郡)、武蔵国、常陸国あわせて2万石加増し5万3千石を領する。官位も従四位下備後守・侍従に昇る。
- 貞享元年(1684年)、大老・堀田正俊が暗殺されたのを機に老中の御用部屋が将軍の居所から遠ざけられたため、将軍と老中の仲介役として側用人の成貞が大きな力を持つようになる。
- 元禄元年(1688年)、和泉、下総、常陸、下野の計7万3千石に封ぜられた。
- 貞享5年(1688年)4月21日から牧野邸へ綱吉が赴くこと多し(のべ32回、うち桂昌院同伴13回、また桂昌院単独は別に3回)。
- 元禄8年(1695年)隠居し牧野成春に家督を譲る。家督を相続してまもない成春に、綱吉は特別な功労がないにもかかわらず7000石を加増して、三河吉田藩に転封を命じた。隠居後の成貞に対する加増とみることができる。成貞の次の側用人は柳沢吉保。
- 正徳4年6月5日(1712年7月8日)に死去、享年78。戒名、長威虎雪東光院。墓所は東京都墨田区千歳の要津寺。
[編集] 苦悩
- 異例の出世を遂げた成貞であったが、妻の阿久里と娘の安は徳川綱吉のお手つきにされたとする説がある。
- 徳川綱吉の傍若無人に耐えかね、「牧野家は自分一代限りにしたい」と漏らしたとする説がある。
- 徳川綱吉の寵愛が柳沢吉保に移りつつあった頃は、苦悩を深めたとする説がある。
[編集] 家族
- 妻
- 息子
- 娘
- 長女 松子:寛文7年(1667年)-貞享4年(1687年)5月3日。永井貞清(永井十郎左衛門)と結婚。玉心院。墓所は全勝寺。また、元禄4年(1691年)9月に阿久里の建てた石碑がある。
- 養子
- 長男 牧野成時:寛文3年(1663年)-貞享4年(1687年)。信濃守の黒田用綱の次男。母は都築為次の娘。幼名は直逵、惣右衛門、兵部。天和元年(1681年)12月に、成貞の次女の安と結婚。天和2年(1682年)12月14日従五位下、同年に美濃守になる。安が大奥に入った夜に切腹したとも、貞享4年(1687年)9月27日に食傷で死亡した(戸田茂睡「御当代記」)ともいわれる。
- 次男 牧野成春:天和2年(1682年)-宝永4年(1707年)。家臣の大戸吉房(阿久里の父の兄)の息子。母は大戸吉勝の娘。幼名は秀寿丸、式部。元禄6年(1693年)4月18日に徳川綱吉の指示で養子となる。
- 初姫:瑞春院の妹婿の白須政安(白須才丘衛)の娘で、遠藤數馬(遠藤数馬)の妹。戸田氏成と結婚。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク