玉川上水
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玉川上水(たまがわ じょうすい)は多摩川を水源とし東京都羽村市から新宿区四谷までを流れる用水路(上水)である。
多摩川水系は現在でも東京の水源の1/3ほどを占めている。かつては多くが新宿区の淀橋浄水場まで送られ取水されていたが、淀橋浄水場が廃止されてからは大半が羽村第3堰で取水し鉄管で東村山浄水場に送られている。
それでも玉川上水も現役であり西武拝島線と多摩都市モノレールの玉川上水駅前(南口)に架かる清願院橋の300mほど下流にある小平監視所で東村山浄水場と野火止用水にパイプで通水しており、これより下流は公園や暗渠化されて遊歩道として整備されている。また、笹塚付近から都心部にかけては一部が京王線の地下化用に転用されている。
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[編集] 沿革
江戸時代~明治維新まで
江戸時代に、玉川兄弟(玉川庄右衛門・清右衛門)が江戸の水源を確保するために私財を投じて工事を行い、1653年(承応2年)4月4日開削工事開始、同年11月15日開削工事完了。翌年1654年(承応3年)より江戸市中への通水が開始された。
羽村(現在の東京都羽村市)から四谷大木戸(現在の東京都新宿区四谷)までの43kmが露天掘りで、四谷水番所からは木樋や石樋などで地下水道となっていた。 江戸の飲料水の貴重な水源であったが、1722年(享保7年)以降の新田開発によって多くの分水が開削され武蔵野の農地へも水を供給し農業生産にも大いに貢献した。(代表例、野火止用水、千川上水)
1870年(明治3年)4月15日より玉川上水は船の通行が許可され、多摩地区からの農産物を東京市街へ運搬していた、しかし東京市街の飲料水としても利用される玉川上水は船運による汚染(特に船員が上水に糞尿したこと)が問題となり1872年(明治5年)4月15日、許可後2年間で禁止された。
明治維新後
- 多摩川上流でコレラ患者の汚物を流したと言う話が東京に流れる。下記の三多摩地区編入のきっかけとなった。
- 原水は玉川上水を利用し、杉並区代田橋から淀橋浄水場まで新水路を建設する。
- 給水地は神田・日本橋地区
- 1899年1月 - 東京市全域に給水開始。
- 1923年9月 - 関東大震災により新水路の一部が破損。復旧まで旧水路を使用する。
- 1937年現在の和泉給水所付近より淀橋浄水場まで甲州街道直下に導水管を新設し、新水路を廃止する。跡地は代田橋駅付近を除いてほとんどが水道道路と都営住宅となる。
- 1948年6月 - 作家・太宰治が入水自殺。(東京都三鷹市)
- 1965年3月 - 淀橋浄水場廃止(機能は東村山浄水場へ移転)。
- 以降、小平監視所以東、空堀化
- 1986年8月 - 東京都の「清流復活事業」により、小平監視所以東に下水処理水を使用して水流復活。
- 2003年8月 - 開削350年。文化財保護法に基づく国の史跡に指定。
- 2005年7月 - 「玉川上水保存管理計画策定に関する委員会」を東京都水道局内に設置。
[編集] 流域市町村
羽村市 - 福生市 - 昭島市 - 立川市 - 小平市 - 小金井市 - 武蔵野市 - 三鷹市 - 杉並区 - 世田谷区 - 渋谷区 - 新宿区
[編集] 玉川上水からの分水
『上水記』によれば、玉川上水からは飲料および灌漑目的で33の分水がつくられ、武蔵新田の開発などが行われる。明治3年には、複数の分水口をまとめる分水口改正が行われ、取水箇所の整理が行われた。一方、明治期に新たに開設された分水も存在する。
主な分水口は以下のとおり。
- 福生分水口、熊川分水口、殿ヶ谷分水口、拝島分水口、立川分水口、野火止用水、千川分水口、品川分水口、牟礼分水口、烏山分水口、幡ヶ谷分水口、三田分水口、砂川分水口
[編集] 工事
言い伝え等では、資金として6000両を幕府から受け取り、工事を始めたが、羽村から四谷までの標高差は約100mだったため、難工事となった。最初に途中まで工事した後、試しに水門を開けたら、浸透性の高い関東ローム層の土に水は吸い込まれた(水喰土)ために、コース変更。2度目は岩盤にあたり失敗した。その影響で幕府からの資金が底をついた。ついには家を売り、それで資金をつくり、約半年で工事を終え、江戸(四谷)まで水を引いた。玉川兄弟では完成させることが出来ず、その後松平信綱が完成させ、野火止用水建設の許可をもらったという話がある。