淀橋浄水場
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淀橋浄水場(よどばしじょうすいじょう英称 Yodobashi Purification Plant)は、現在の東京都新宿区西新宿にあった東京都水道局の浄水場。廃止当時の正式部署名は東京都水道局東村山浄水管理事務所淀橋浄水場であった。
1898年(明治31年)12月1日竣工。原水は玉川上水から引き入れた。 1965年(昭和40年)にその機能を東村山浄水場に移し閉鎖された。跡地の再開発計画として新宿副都心計画がスタートし、1960年代後半から京王プラザホテルを皮切りに東京都庁など、次々と超高層ビルの建築が進んだ。現在は新宿中央公園の一角に淀橋給水所がひっそりと寂しく佇むのみである。
淀橋とは、浄水場が設置された、当時の東京府豊多摩郡淀橋町(現在の西新宿、北新宿一帯)のことで、東京市が35区の時は区名にもなった。現在はヨドバシカメラや東京都中央卸売市場淀橋市場、幼稚園、小学校などに名前を残すのみである。
目次 |
[編集] 概要
事業所名 | 淀橋浄水場 Yodobashi Purification Plant |
所在地 | 東京都新宿区角筈3丁目1番地 |
通水 | 1898年12月1日 |
廃止 | 1965年3月31日 |
処理方式 | 緩速ろ過 |
用地面積 | 341,743.88m²(103,558.75坪) |
給水区域 | 新宿区の大部分、千代田区、中央区、港区、文京区、台東区、渋谷区、中野区、北区、荒川各区の一部 |
標高 | 沈澱池満水面+42.195m、ろ過池満水面+37.953m、ろ過池底面+35.832m、配水池満水面+36.590m、地盤高導水渠付近+42.805m |
[編集] 淀橋浄水場誕生の経緯
[編集] 東京誕生
明治維新以前の江戸の水道は玉川上水と神田上水を水源とした7つの分水組合によるものであったが、東京府が設置されて前述の分水組合が解散した以降もこれら2系統による給水が続いた。しかし当時の水道の所管官庁は維新初期の政変の中で度重なる官制変更により再三に渡って変更を余儀なくされ、水道料金(上水賦金)の収納では暫く混乱が続いていた。
[編集] 旧水道の水質悪化
維新後の東京では上水の水質悪化が問題になり始めた。導水路では生活汚水や塵芥、動物の死体や糞尿等が流入したり、降雨時には混濁が激しかった。特に玉川上水は、後に太宰治の入水心中で有名になるように自殺の名所であり、水死体も流れていた。また配水管である木樋は継目から容易に汚染物質が混入でき、また高圧で送水されていなかったことから腐食した木樋が水に溶解する等、衛生上喫緊の問題になっていた。そこで1878年(明治11年)東京警視廳及び東京府は神田玉川両上水水源取締仮規則及び飲料水注意法を制定し、上水井戸の管理を厳しく定めた。一方、玉川上水では浚渫や土手の構築を行い、神田上水では一部を暗渠化して対応した。それもそのはず、1879年(明治12年)に東京大学理学部准教授久原躬弦らが行った上水井戸や堀井の調査では「希薄の尿液」と厳しく指摘した程、飲料水が汚染されていた。
[編集] 近代水道の機運高まる
1874年(明治7年)、旧水道の実態調査で上水汚染を目の当たりにした東京警視廳係官奥村陟は上水導水路の汚染実態と水道改良について訴え、また奥村の上司である東京警視廳少警視桧垣直枝も西洋の水道政策を日本警察の父である東京警視廳大警視川路利良に上申している。この上申は内務卿(内務大臣)伊藤博文にも提出され、東京府は上水清潔事業を開始した。東京府が申請した上水清潔事業を審査した内務省土木寮石井省一郎も前述の奥村が訴えたように水道の鉄管化の必要性を説いた。
玉川神田両上水や上水井戸の水質悪化は政府にとって懸案となった。帝都の首都機能を維持する為の衛生上の問題だけでなく近代国家としての体面にかかわる問題であると痛感した為である。政府は水道の抜本的な改良による近代化が必要であるとして調査を命じた内務省土木寮雇オランダ国工士ファン・ドールンから1874年(明治7年)に『東京水道改良意見書』を提出させ、翌年には『東京水道改良設計書』を提出させた。これを受けて1876年(明治9年)に政府は東京府に水道改正委員を設置して上水の改良方法や建設費用等を調査検討した報告書『府下水道改設之概略』を提出させている。1880年(明治13年)には『東京府水道改正設計書』を立案した。
[編集] コレラ大流行
そして1877年(明治10年)から1882年(明治15年)にかけて日本全国でコレラが蔓延して社会不安を起こし、1886年(明治19年)には東京で1858年(安政5年)に約10~20万人が死亡した安政コレラ以来28年ぶりにコレラが大流行した。同年8月7日付の東京日日新聞(現在の毎日新聞)は「清潔法の骨髄は、飲料水の改良と下水の改良にある」と報じ、上水改良と下水道網の整備を切々と訴えている。東京に於けるコレラ大流行は近代水道の必要性を一般国民に広く認識させ、政府は水道改良事業計画の策定を急いだ。
[編集] 淀橋浄水工場着工
1888年(明治21年)には内務省に市区改正委員会が設置されて水道改良の実施を決議し、調査検討の結果、1890年(明治23年)7月1日に『東京水道改良設計書』が内閣総理大臣の認可を得た。同年9月には東京市会本会議に於いて全会一致で水道改良費650万円及び道路河濠橋梁公園改正費350万円の合計1,000万円の市区改良費が認められた。東京市民にとっては税負担が重くなる事を意味するもので、水道改良中止を求める反対運動まで起きたが、暫くして運動は下火となった。1891年(明治24年)11月1日には東京府庁内に水道改良事務所が設置された。前述の東京水道改良計画書は後に内務技師・東京市水道技師である工学博士中島鋭治の「淀橋に浄水工場(浄水場)を築造し芝と本郷に給水工場(給水所)を築造、淀橋以西に新水路を築造する」という意見が盛り込まれ、同年12月1日の市区改正委員会に於いて議決され、設計変更された。1892年(明治25年)6月から翌年4月にかけて東京市は淀橋浄水工場予定地の地権者との厳しい用地買収交渉の末、用地買収を完了した。全ての用地買収が完了していない1892年(明治25年)9月21日には先行して淀橋浄水工場仮事務所建築の盛土工事を着工、同年12月には新水路工事が着工され、1893年(明治26年)10月22日に淀橋浄水工場に於いて改良水道起工式が挙行された。
[編集] 日本鋳鉄疑獄
浄水工場築造中はスキャンダルが相次いだ。1894年(明治27年)5月29日、東京市会は日本鋳鉄会社による鉄管の納期遅延問題で、同社と締結した鉄管購買契約を同社による契約不履行を理由に解除、処分した上で新たに同社と契約する事を議決した。しかし1895年(明治28年)10月30日には日本鋳鉄会社による鉄管の納期遅延問題や検査不合格品の鉄管を合格品と偽装して不正納入した事件が発覚した。東京市は直ちに同社社長を刑事告訴、11月5日に東京市会は日本鋳鉄株式会社外5名に対して旧刑事訴訟法第4条による附帯私訴を可決した。さらに東京市会は日本鋳鉄株式会社の契約保証金全額没収を議決、12月9日に鉄管納入不正事件により東京府知事三浦安の不信任を議決した。この事件は政界を巻き込むスキャンダルに発展し、東京市参事会員の辞表提出や12月10日の内務大臣野村靖による東京市会解散命令、翌1896年(明治29年)3月12日に東京市会は再度東京府知事に対して不信任を議決、再び内務大臣野村靖による東京市会解散命令、3月14日には東京府知事三浦安の辞職等、東京市政は第二次伊藤内閣を巻き込む形で大混乱に陥った。東京市会は当該鉄管事件を契機として特別市政撤廃を目指し、1898年(明治31年)10月1日に特別市政が廃止されて一般市制が施行され、東京府麹町区有楽町の東京府庁内に東京市役所が開庁、10月6日に新たな東京市長松田秀雄が就任した。
[編集] 淀橋浄水工場通水
前述のような反対運動や土地収用やスキャンダルといった数々の紆余曲折に大いに悩まされつつも、かくて1898年(明治31年)12月1日に竣工を迎え、明治維新以来31年目にしてコレラ大流行といった未曾有の悲劇を乗り越えて遂に市民悲願の近代水道が東京に誕生した。淀橋浄水工場は直ちに神田・日本橋方面に通水したのであった。晴れて新年を迎えた翌1899年(明治32年)1月からは各戸の給水工事に取り掛かって2月からろ過処理された浄水を給水開始。その後も給水区域を着々と拡大し、新世紀を迎えた1901年(明治34年)には東京市内の旧上水を廃止した。
[編集] 災害や伝染病を一挙に駆逐
給水開始当時の水道は現在の一般家庭各戸に給水されるスタイルではなく、街路に設置された共用水栓を利用するものであったが、上水井戸の時代とはうって変わって雨天時の混濁がなく、多大な労力を要する事も無く蛇口をひねればいつでも清潔でおいしい浄水を大量に得る事が出来た。これは水に苦労した東京市民を非常に喜ばせた。特に有史以来炊事・洗濯・掃除といった家事に追われる主婦にとっては天佑とも言える家事の革命で大変歓迎され、家事の負担を著しく軽減した。
また鉄管で密閉・圧送された浄水は清潔なだけではなく、消防用水としての大きな効果を期待出来るものであった。これは江戸時代以来市民を苦しめ続けてきた大火を未然に防止する有効な手段と能力を得る事になった。本格的な給水開始以降の東京に於ける伝染病や火災の発生数は激減し、近代水道の絶大な威力をまざまざと見せつけた画期的な一大事業であったと言えよう。
その後、東京市では水道需要が急激に伸びた為、1911年(明治44年)3月まで淀橋浄水場の施設能力を二期にわたって増強した。
[編集] 淀橋町への供給
淀橋浄水場は東京市外の豊多摩郡淀橋町に造られたが、あくまで東京市水道のために淀橋町は浄水場の水は使わせてもらえなかった。淀橋町内の井戸水の水質は悪く、町では東京市に陳情し水道水の供給を受けられるよう働きかけた。当初は小学校にだけ供給が認められたが、1924年(大正13年)に淀橋町の負担で、東京市水道に工事を委託し水道配水管を引く工事が行なわれ、分水を受けた淀橋町の水道による給水が開始された。1927年(昭和2年)には給水区域を淀橋町全域に拡大したが、1931年(昭和6年)に東京市水道に統合され、翌年、淀橋町も東京市に編入し、周辺3村と合わせて東京市淀橋区となった。
[編集] 水源
淀橋浄水場は玉川上水から水をひいた浄水場であった。玉川上水は多摩川から水をひいていたため、多摩川水系である。今は、東村山浄水場に機能を移して閉鎖されたが、東村山浄水場へは鉄パイプで送水されている。