田澤義鋪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田澤義鋪(たざわ よしはる 1885年(明治18年)7月20日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、大正期及び昭和初期の政治家、思想家、教育家。佐賀県鹿島市出身。
政治家としての実績よりも、戦前における青年団教育及び青年教育に尽力した活動が知られており、「青年団の父」と称されている。
目次 |
[編集] 経歴
1885年、佐賀県藤津郡鹿島村(現鹿島市)に生まれる。第五高等学校 (旧制)を経て1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月に高等文官試験(高文試験)に合格、内務省に入省する。
1910年(明治43年)8月、25歳の若さで静岡県安倍郡の郡長に任命される。田澤は地域振興という観点から郡内の農村青年に教育・修養の機会を与え、青年を地域を引っ張るリーダーと位置づけ育成した。
1915年(大正4年)、明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮の創建が決まると、内務省明治神宮造営局総務課長に任ぜられる。ここで田澤は全国青年団員の勤労奉仕による明治神宮造営を提案、実施する。現在の明治神宮や外苑の木々(いわゆる「神宮の杜」)は造営当時に全国の青年団員が持ち寄ったものであることはよく知られているが、これは田澤のアイデアによるものである。青年団によるこの活動が1924年(大正13年)の日本青年館の建設運動につながっていく。
1920年(大正9年)、財団法人協調会の常務理事に就任、講習会などを通じ青年労働者の教育に携わるが、1924年(大正13年)には協調会理事を辞任し、同年5月に静岡県第三区より衆議院議員に立候補する。しかし落選し、同年10月に東京市助役に就任した。
その後も青年団に対する活動は続き、1925年(大正14年)に大日本連合青年団並びに日本青年館の常任理事に就任し、1929年(昭和4年)には青年団のOBによる青年団の支援組織・壮年団期生同盟会を創立。1931年(昭和6年)には日本青年館の別館「浴恩館」に青年団指導者養成所を開設し、1933年(昭和8年)には田澤と同郷で親交のあった下村湖人を講習所長に迎えた。また、自らも長期講習会の指導にあたった。1934年(昭和9年)には日本青年館理事長となり、1936年(昭和11年)まで務めた。
1933年(昭和8年)、貴族院議員に勅撰される。1936年(昭和11年)、二・二六事件後の広田弘毅内閣組閣の際、内務大臣として入閣を求められたが固辞したとされる。1944年(昭和19年)、四国善通寺での講演の際病に倒れ、そのまま善通寺にて59歳の生涯を閉じた。
[編集] 思想
[編集] 全一論
田澤の青年教育論の根底にあったのは「全一論(思想)」と呼ばれる人生観であった。すなわち、人の人生は一個の人生でなく、祖先より子孫に相伝される「縦の永遠の命」であり、また家族、職場、地域、ひいては国や民族といった「横の繋がり」の中で相互に影響しあい、ともに営んでいく人生であるという思想である。そして、個々の存在が充分に個性を発揮しつつ、その存在を立派に認められながら渾然たる全体の調和の中に立つとし、個性の充実こそが全体の充実に繋がり、ともに成長発展していくと考えていた。
田澤が安倍郡の郡長となった当時、日本は日露戦争で疲弊しており、地方農村の経済的並びに人的基盤における建て直しが急務であった。このため田澤は地域青年の集団である青年団の教育・修練を通じて郡を発展させようとしていた。ただし、田澤が青年団に着目したのは自身も20代と若い年齢だったいう事もあるだろう。
[編集] 教育論
田澤は青年団を「自然に発生した創立者なき団体」「郷土を同じくする青年の友愛の情を基盤とする共同生活の集団」と定義づけていた。また、青年教育について「画一主義や注入主義を払拭し、自由創造の精神をもって青年には自ら考えさせ、自ら修養させ向上させるべき」という持論があり、自己を磨き自己を成長させるのは、結局は自身による修養しかないという事を愛情を持って気づかせることが教育者の使命であるとした。
戦前、ことに進学率の低かった明治期の青年団に対しては、学校教育の補助教育機関という位置づけのもと、文部省の主導で講習会、映画(当時は活動写真)会、通俗図書の閲覧などによる教育が実施されていた。田澤の考え方はこれらと一線を画すものであり、これは現在における青年団の意義、さらには生涯学習の考え方にも通ずるところがある。
1914年(大正3年)、田澤は安倍郡千代田村(現静岡市沓谷)の蓮永寺において、18歳から26歳の青年団員を対象とした講習会を実施する。この講習会の最大の特徴は参加者と講師におよそ一週間の共同生活を課した点であった。その意図は、寝食をともにする事によって相互友愛の精神が芽生え、相手を尊重しあい、個人の意見を集約し集団の意見を作り上げる。そして集団に寄与し貢献することによって自己の存在の意義を実感し、義務感や責任感を培うところにあった。このような宿泊型研修の考え方は戦後の青年団の事業にも受け継がれており、現在もこの理念に則った青年リーダー養成事業が日本青年館と日本青年団協議会の共催事業として行われている。
[編集] 関連施設・団体
- 田澤の残した業績と思想を伝える事を目的に、財団法人田澤義鋪記念会が1952年(昭和27年)設立された。主な活動としては、優れた活動を行った地域青年団を「田澤義鋪賞」として顕彰している。
- 佐賀県鹿島市の生家跡地には、田澤義鋪記念館が1984年(昭和59年)に開館し、地域の教育環境づくりと田澤精神の発揚を目的に活動を行っている。