日本青年館
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日本青年館(にほんせいねんかん)は、宿泊、レストラン、宴会場、会議場、ホールなどの設備を備えた東京都新宿区霞ヶ丘町7番1号に位置する複合施設で、宿泊、食事、結婚披露宴、各種会議、コンサート、講演会、研修などに使用されている。財団法人日本青年館が運営している。同法人の寄付行為の目的に謳われるように、青年団のための施設として設立され、青年団と密接な関係を持つ。現施設は1979年(昭和54年)に竣工した二代目である。
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[編集] 立地
JR信濃町駅、JR千駄ケ谷駅から徒歩約9分、東京メトロ外苑前駅、都営地下鉄国立競技場駅から徒歩約7分の距離にある。近傍には神宮球場、国立競技場、明治公園、秩父宮ラグビー場、聖徳記念絵画館、神宮外苑、東京体育館、新宿御苑などがある。
[編集] 沿革
- 1921年(大正10年) 財団法人日本青年館が文部省(当時)より認可。初代理事長は近衛文麿。
- 1924年(大正13年) 青年団の募金により初代日本青年館建設。
- 1945年(昭和20年) 米軍により接収(1953年(昭和28年)まで)。
- 1964年(昭和39年) 東京オリンピックでプレスセンターとして使用される。
- 1969年(昭和44年) 不慮の火災により五階部分を消失するも、同年再建。
- 1972年(昭和47年) 「日本青年館新館建設委員会」が結成。
- 1977年(昭和52年) 旧館取り壊し、日本青年団協議会の事務局が神宮球場第二球場の敷地内に移転。
- 1979年(昭和54年) 二代目日本青年館竣工。
[編集] 初代日本青年館
明治神宮の造営に勤労奉仕をした青年団が皇太子から功績をたたえられたことを記念して青年団員の募金活動により1924年(大正13年)に建設された。青年団において、1人1円を合い言葉に、募金活動などが展開され、162万円の工費により地上四階(のち五階建て)地下一階の初代日本青年館が建設された。概要は約500名収容可能の宿泊施設のほか、2000名収容の講堂、図書室、新聞雑誌縦覧室、資料陳列室、談話室等を備えたものだった。
また、別館として都内小金井市に「浴恩館」を建設し、そこに青年団指導者養成所を開設した。さらに千葉県大栄町に修練場を開設し、農業指導などに活用した。
[編集] 二代目日本青年館
昭和40年代に入ると、施設の老朽化が指摘されるようになり、年ごとに高まる顧客のニーズに応えられず経営は赤字に転落した。
1971年(昭和46年)、日本青年館評議員会内に「館建設構想特別委員会」が発足、翌年1972年(昭和47年)にはその発展形である「日本青年館新館建設委員会」が発足され、具体的な新館建設に向けての動きがスタートした。
一方、日本青年団協議会(日青協)でも「日本青年館は全国青年団運動の拠点である」という認識の下、その動きに呼応して同年「新館建設日青協特別委員会」を設け、1974年(昭和49年)、新館建設のために1975年(昭和50年)末までに各道府県青年団1,100万円、計5億円の募金を集める等の新館建設運動方針を決定した。
しかし、募金達成時期である1975年末になっても半数以上の道府県団が達成に至っていなかった。このため、1976年(昭和51年)の日青協定期大会において執行部は、達成年度を1978年(昭和53年)まで延長し、何が何でも総額5億円の募金を達成すべしという強い姿勢を打ち出した。議論は紛糾したものの、結局この方針は各道府県団に受け入れられ、全国で精力的な募金活動が展開される事となる。各道府県団、及びその加盟団である郡市青年団による地域への全戸訪問、美化作業や物品販売、映画「同胞」の上映会などの取り組みによって、ついに1982年(昭和57年)4月、新館竣工後ではあったものの募金は目標の5億円に達した。募金活動は平成に入っても一部で続き、最終的には神奈川県、山梨県を除く44道府県で目標額に達し、募金総額も5億2千500万円あまりに及んだ。
日本青年館の募金運動の時期は、20近い府県で再建を含めた地元の青年会館建設運動が起こる時期と重なっており、金銭的負担が各府県団の重荷に過ぎたため当初の計画通り募金運動が進まなかったという見方がある一方、日本青年館の募金運動を成し得た事が地元の青年会館建設運動の大きな自信につながったという見方もある。
かくして青年団による募金に加え、所有財産であった「浴恩館」「千葉修練場」の売却益、年金福祉事業団からの特別融資、日本船舶振興会や日本自転車振興会からの助成金、さらに文部省や全国都道府県など行政からの補助金などにより建設資金は着実に集まっていった。特に文部省からは調査研究費も含め総額7億2千300万円の補助金が交付されており、国が民間の施設にこれだけ大型の補助を出したのは史上初めてであった。
そして1979年(昭和54年)2月1日、常陸宮正仁親王臨席のもと竣工式が執り行われ、総工費54億円、地上9階地下3階の2代目の日本青年館が誕生した。
[編集] 宿泊設備の間取りの特長等
同館の宿泊用の客室としては、細長く畳敷きで3~4人用の10畳程度の和室といった間取りの小部屋が多く、和洋大小81室の宿泊室を持つ。これは、青年団行事において青年問題研究集会が開催されるため、分科会型式の座談会用小部屋を多数確保するためである。これはビジネスホテルなどの営利企業の宿泊施設ではなく、青年団のための施設として建設されたためである。また、青少年の指導・育成という建設趣旨から、青年団をはじめとする各種青少年層の団体や、修学旅行などの利用が比較的多い。
[編集] 用途、存在意義
東京近郊在住者にとって、特に1,360名収容の大ホールはコンサートホールとしてなじみが深い。かつては8時だョ!全員集合などの公開放送が行われ、現在も宝塚歌劇団の公演やクラシックやアーティストのコンサートなどに使用されている。
しかし、東京に所在する公演施設としての役割もさることながら、建設の経緯からもわかるとおり、全国の青年団関係者にとっては80年以上にわたる青年団運動の総本山として位置づけられる重要な施設である。館内には日青協の事務局が入居し、日青協主催行事が同館で開催されることが多い。また、特に終戦前後の青年団全国組織の空白期には、日本青年館が全国の青年団を結ぶ役割を果たすなど、施設面だけでなく、青年団を助長する財団としての活動も重要である。現在も全国青年大会などの日青協との共催事業を始め、職員の雇用や青年問題研究所の活動など、日青協との関わりは深い。
また、社団法人中央青少年団体連絡協議会など各種青少年団体事務局が入居しているほか、青少年の育成に関する事業を展開しており、公営社会教育施設ではないが、社会教育活動である青少年活動に与えた貢献からは、社会教育施設と同じ役割を果たしているといえる。
[編集] 全国青年会館協議会
日本青年館を含む全国30館の道府県青年会館で、全国青年会館協議会が構成されている。これらの青年会館は、青年団等が募金活動などを行って建設されたものであり、青年団等の事務局が置かれ、活動拠点として活用されるほか、宿泊、研修などの施設として機能している。
[編集] 今後の懸念
過去の初代、2代目の建設時とも、青年団の為の会館を青年団が主体的に建設するという理念をもって青年団による募金活動等の運動が行われてきた。しかし、その建設母体である青年団が衰退化しつつあり、次回の立て替え時にはどのような取り組みが出来るのかが懸念される。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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