竹中平蔵
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竹中 平蔵(たけなか へいぞう、昭和26年(1951年)3月3日 ‐ )は、日本の経済学者(経済学博士)。慶應義塾大学教授。同大学グローバルセキュリティ研究所所長。
元参議院議員(1期)。元内閣府特命担当大臣(金融担当、経済財政政策担当)、郵政民営化担当大臣、総務大臣(第6代)等を歴任。
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[編集] 経歴
1951年和歌山県和歌山市にある商店街の靴屋の次男として生まれる。1969年和歌山県立桐蔭高等学校卒業後、一橋大学経済学部に入学。1973年同卒業(山澤逸平ゼミナール)。大学時代はマンドリンクラブに所属しており、節子夫人(津田塾大学卒業)とは同サークルで知り合い結婚した。
1973年日本開発銀行(現日本政策投資銀行)に入行。1977年同設備投資研究所勤務、1981年ハーバード大学、ペンシルバニア大学客員研究員。ハーバード大学留学中は設備投資に関する合理的期待の実証研究を行ったが、博士候補者試験に合格することができず、学位取得を断念し、帰国。その後、留学中の研究成果(『開発研究と設備投資の経済学』)にて、1984年にサントリー学芸賞を受賞。
1982年大蔵省財政金融研究室(現財務省財政金融研究所)に出向し、主任研究官となる。当初2年の予定だったが、5年間研究官を務める。同研究所での上司には長富祐一郎や吉田和男などがいる。
1987年大阪大学経済学部助教授に就任。以降研究者としての道を歩む。しかし、一橋大学に前述した論文『開発研究と設備投資の経済学』を提出し博士号(論文・経済学)の取得を試みたものの、教授会での審査に不合格。一橋大学での博士号取得を断念する。後年、本間正明の後押しもあり、大阪大学にて博士号(論文・経済学)を取得。
1989年日本開発銀行を退職し渡米、ハーバード大学客員准教授及び国際経済研究所客員フェローに就任。1990年に経済学者の加藤寛に誘われ、慶應義塾大学総合政策学部助教授に就任。1996年同大学教授就任。1997年東京財団理事、1998年同常務理事、1999年同理事長。
2001年小泉内閣において、民間人として経済財政政策担当大臣、2002年金融担当(金融庁)大臣・経済財政政策担当大臣、2003年内閣府特命担当大臣(金融、経済財政政策)を歴任。2004年第20回参議院議員通常選挙に自民党比例代表で立候補し、トップ当選。参議院議員として内閣府特命担当大臣(経済財政政策)・郵政民営化担当に就任。小泉内閣の経済閣僚として、日本経済の「聖域なき構造改革」の断行を標榜する。2005年10月、総務大臣・郵政民営化担当大臣。
NHK民営化にも乗り出したが、小泉首相が民営化に否定的な見解を示した為、頓挫する。2006年9月15日政界引退を表明。9月28日、参議院本会議で辞職許可。竹中の議員辞職に伴ない神取忍が繰上げ当選となった。11月1日、自民党党紀委員会において9月29日に提出していた離党届が了承された。さらに11月1日、慶應義塾大学に復帰することが明らかにされた。
政界引退後の現在は、慶應義塾大学教授の他、日本経済研究センター特別顧問、アカデミーヒルズ理事長、人材派遣会社パソナ特別顧問・アドバイザリーボードを務めている。
[編集] 受賞歴
- 『研究開発と設備投資の経済学』でサントリー学芸賞受賞。
- 『対外不均衡のマクロ分析』でエコノミスト賞受賞。
[編集] 関連項目
- アルフレッド・マーシャル:イギリスの経済学者。「経済学者は冷静な頭脳と暖かい心をもたねばならない」この言葉が、竹中が経済学者を志したきっかけとなったという。
- 金融再生プログラム(通称竹中プラン)
- 郵政民営化
- 小泉内閣
- 新自由主義
- B層
- 通信・放送の在り方に関する懇談会
- タウンミーティング 小泉内閣の国民対話
- 本間正明
- 大田弘子
- パソナ
[編集] 外部リンク
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