落合英二
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落合 英二(おちあい えいじ、1969年7月25日 - )は、元プロ野球選手(投手)である。優れたコントロールと投球術で長らく中日ドラゴンズの中継ぎエースとして君臨し続けた右腕投手。
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[編集] 来歴・人物
高校3年の夏は石井忠徳(横浜大洋ホエールズに入団)率いる足利工業に敗れ、ベスト4に終わった。石井から三塁打を放つも、牽制で刺されてしまい、今でも石井にはにやにやされている。当時の栃木県にはその後、プロ野球に進んだ選手が多く、同期には法政大学から近鉄バファローズに進み、新人王を獲得した宇都宮南の高村祐などがいる。
日本大学在籍時は、150㎞超のストレートを武器にドラフトの目玉候補と目されていたが、大学4年の時に右肘を骨折する重傷を負う。その為一時は野球生命も危惧されたが、回復すると判断した中日が1991年のドラフトで1位指名をして入団。
1年目の1992年にはサファイアを埋め込む大手術を行った。2年目の1993年以降に主に先発として一軍の登板機会を得るが、先発としては大きな実績を残せない時期が続いた。
1998年に当時の星野監督により、中継ぎとして固定された事で大きな転機を迎え、当時クローザーを務めていた宣銅烈に繋ぐ仕事を確実にこなし続けることで、まだ馴染みの薄かったセットアッパーの地位を高めていった。この年55試合に登板して、防御率2.82、4勝5敗5セーブの成績を挙げ最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得する。
2002年、山田久志が監督となったあとも結果を残すが、山田監督を疎んじ、原辰徳監督率いる巨人へのFA移籍を検討していたともいうが、あくる日に立浪和義から言われた言葉が中日残留を強したものと思われる。
2004年より落合博満が監督となったあとも岩瀬仁紀らとともに、中日リリーフ陣の柱として活躍を続ける。2005年、落合監督の意向で先発に転向したものの結果が残せず、リリーフに再転向した。2006年はピッチングフォーム等の問題等から開幕は2軍で迎え、その後1軍に上がっても結果は出せておらず、戦力外通告を受けた。球団は2軍投手コーチのポストを用意していると言うが、本人の現役続行希望もあり保留していたが2006年10月28日、現役引退を表明した。
引退後はコーチ転進の話もあったが、評論家になることを表明。2007年からCBCテレビで12:54-13:24に放送されている『サンデードラゴンズ』にコメンテーターとして加わる。 また、自費で韓国・三星ライオンズに短期コーチ留学する予定。ちなみに三星の監督はかつての同僚の宣銅烈。
投手陣のリーダーとしてチーム内からの信頼は高く、特に若手投手陣の面倒見がよくブルペンの雰囲気作りにも長けていた。
霊感に優れているらしく、選手が怪我をする場所が見えたり、テレビ番組等でたまによく分からない予言をしている。そして当たる。試合中に大豊泰昭に1本のバットを差し出して「このバットを使ったら打てる」と予言したところ、大豊がホームランを打ったということもある。
[編集] 略歴
- 身長・体重 178cm、84kg
- 投打 右/右
- 出身地 栃木県下野市(旧・石橋町)
- 血液型 B型
- 球歴・入団経緯 作新学院高等学校-日大-中日ドラゴンズ
- プロ入り年度・ドラフト順位 1991年(ドラフト1位)
[編集] 年度別成績
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗北 | セーブ | 投球回 | 安打 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1993年 | 中日 | 10 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 9.1 | 5 | 1 | 5 | 7 | 2 | 1.93 |
1994年 | 中日 | 27 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 1 | 34 | 35 | 2 | 15 | 23 | 12 | 3.18 |
1995年 | 中日 | 30 | 0 | 0 | 0 | 3 | 9 | 2 | 96.1 | 119 | 11 | 19 | 47 | 51 | 4.76 |
1996年 | 中日 | 24 | 3 | 2 | 1 | 4 | 6 | 1 | 96.1 | 98 | 6 | 31 | 61 | 40 | 3.66 |
1997年 | 中日 | 19 | 2 | 0 | 1 | 4 | 7 | 0 | 66.1 | 66 | 3 | 9 | 52 | 27 | 3.66 |
1998年 | 中日 | 55 | 0 | 0 | 0 | 4 | 6 | 5 | 73.1 | 81 | 3 | 12 | 36 | 23 | 2.82 |
1999年 | 中日 | 56 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 2 | 51.2 | 43 | 8 | 11 | 27 | 16 | 2.79 |
2000年 | 中日 | 21 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 19.2 | 20 | 0 | 7 | 18 | 6 | 2.75 |
2001年 | 中日 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 41.2 | 41 | 1 | 12 | 19 | 8 | 1.73 |
2002年 | 中日 | 37 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 34.1 | 27 | 1 | 10 | 21 | 10 | 2.62 |
2003年 | 中日 | 61 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 1 | 56 | 53 | 4 | 5 | 35 | 11 | 1.77 |
2004年 | 中日 | 42 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 10 | 44 | 46 | 3 | 12 | 17 | 12 | 2.45 |
2005年 | 中日 | 31 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 47.2 | 64 | 6 | 11 | 27 | 25 | 4.72 |
2006年 | 中日 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4.1 | 6 | 1 | 2 | 3 | 4 | 8.31 |
通算成績 | --- | 463 | 5 | 2 | 2 | 37 | 45 | 24 | 675 | 704 | 50 | 161 | 393 | 247 | 3.29 |
[編集] タイトル
[編集] エピソード
- 1球勝利投手、1球セーブ投手、1球ホールド、1球敗戦投手、0球登板(交代を告げられてから、投球練習中に右脇腹に違和感で降板)という珍記録を持っている。一人でこれら全てを記録したのは落合英二が史上初である。
- 2006年にチームがリーグ優勝する際に1軍にはいなかったが、落合をずっと支えてきたトレーナーが監督胴上げの瞬間、落合英二の背番号「26」のプレートを掲げ万歳するシーンが見られた。
- 2007年に中日に入団した堂上直倫とは堂上の父が球団寮の寮長ということもあって以前から付き合いがあり、2006年のファン感謝デーで行われた引退セレモニーでは「成し遂げられなかった日本一の夢をここにいる選手・コーチ、それにこのナゴヤドームのどこかで見ている堂上直倫君に託します」とあいさつ、ちなみに堂上は愛工大名電の野球部の仲間とともに変装して来ていた。また、2007年の沖縄キャンプの休日で堂上が報道陣の写真撮影に応じた際、落合からのもらい物と思われる「EIJI 26」とネームの入った短パンを履いていた。
[編集] 背番号
ただし、1994年のキャンプ初日の写真撮影の際に「12」、キャンプ中は「70」をつけていた。現役選手として同一チームに所属したまま、6つもの背番号を経験したのはプロ野球史上落合ひとりである。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 日本の野球選手 | 日本大学硬式野球部の選手 | 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 | 1969年生 | 栃木県出身の人物