高木守道
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高木 守道(たかぎ もりみち、1941年7月17日 - )は、プロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。愛知県名古屋市生まれ、岐阜県岐阜市出身。現役時代は中日ドラゴンズで活躍し、引退後はコーチ・監督を歴任した。現在は中部日本放送の解説者。2代目「ミスタードラゴンズ」である。2007年1月より、中日ドラゴンズOB会会長。
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[編集] 来歴・人物
プロフィールなどではよく岐阜生まれとして紹介されているが、実際に彼が生まれたのは名古屋であり、3歳の頃まで住んでいた。後に岐阜へ移り住んだのは第二次世界大戦中の1944年に名古屋市内にあった自宅が火事で焼失(これは火の不始末によるものであり、空襲とは全く関係ない。)してしまったことと、戦局の悪化により大都市への空襲が行われるようになったため、疎開の意味合いも兼ねてのことであった。
県立岐阜商業高校時代に長嶋茂雄(当時立教大学、後に読売ジャイアンツ)にコーチを受けた。肩を痛め遊撃手から二塁手に転向。1960年中日に入団。同年5月7日対大洋ホエールズ戦で初打席初本塁打デビュー。1963年に二塁のレギュラー奪取。この年50盗塁を記録し盗塁王。以後1965年、1973年と3度の盗塁王に輝く俊足に加えて、1969年に24本塁打するなど通算236本塁打とホームランもよく打った。1974年にはチームの20年ぶりの優勝に大きく貢献した。度々好守備を見せ、特に華麗なバックトスはチームの華であった。二塁手でベストナイン7度は史上最多。中登志雄監督が辞任した1980年限りで引退。
近藤貞雄監督が就任した1981年からコーチ。1984年~1985年2軍監督。1986年ヘッドコーチ。山内一弘監督の途中休養を受け、7月6日からシーズン終了まで代理監督を務めた。1987年からCBC野球解説者。星野仙一監督の辞任を受け、1992年就任。初年度は結果的に最下位に沈むも、ペナントレース後半に上位をことごとく叩いて大混戦に導き、最終的に60勝70敗(この年のセントラル・リーグは全球団が60勝台であった)。
1993年は首位ヤクルトスワローズに前半大差をつけられるも、後半猛追し一時は逆転して首位に立つなど、最終的に2位。1994年も、首位巨人に前半大差をつけられるが、後半猛追し同率首位に立ち、ナゴヤ球場にてプロ野球史上に残る10.8決戦を敗戦で終える。1995年も指揮を執るが、成績不振の責任を取ってシーズン途中で辞任。監督としての最後の試合・6月2日の阪神タイガース戦では、友寄正人審判への暴行により退場処分を食らっている(監督辞任直前の試合で退場処分を受けたのは野球界で史上初。現在も全世界で高木1人しかいない)。
このように、1995年の途中辞任の印象は悪いものの、監督としての力量及び評価は非常に高く、2003年オフには中日の監督候補に再び彼の名前が挙がっている。結果的に落合博満が就任したが、高木の采配の下で2年間(1992年~1993年)プレーした落合は、高木の采配を非常に参考にしているといわれる。高木自身も、落合支持派が少ないとされる中日OBにあって、杉下茂、中利夫、権藤博らとともに、落合支持派の1人である。
現在はCBC野球解説者、中日新聞野球評論家。2007年からは中利夫に代わり中日OB会の会長も務める。守備の名手ゆえ、現役選手の守備についての眼も非常に厳しく、他人がファインプレーと認めるものでも、簡単には認めず、「普通です」「もっと楽に処理できます」とよく発言する。CBCテレビ「サンデードラゴンズ」では中日選手の守備の映像を見て普通のプレーかファインプレーかを札を上げて決めてもらうコーナーがあるのだが、高木の「普通です」発言が番組の隠れた名物となっている。
リーグ優勝は現役選手としては巨人のV9時代も重なってか1974年の1度だけだったが、それが巨人のV10を阻んだ優勝であるということはよく知られている。また、コーチとしても1982年に1度経験しており、通算で2度リーグ優勝を経験しているが、日本シリーズはいずれも2勝4敗で敗れており、日本一に王手をかけた経験は一度もない。2006年、野球殿堂入り。また、この年の日本シリーズ第1戦で始球式を務めた。
[編集] エピソード
高校の後輩にはシドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子や西武ライオンズ外野手の和田一浩がおり、高木と彼らは母校で“ビッグ3”と呼ばれている。2004年11月23日、地元の岐阜メモリアルセンターでこの3人のトークショーが行われ、このイベントは大盛況のうちに終わった。ただ、“ビッグ3”と言われながらもこの3人が顔を合わすことは滅多になく、3人がトークをするシーンが斬新だったと言う人も多かった。
少年時代、中日スタヂアム火災に巻き込まれたが、危うく事なきを得た。
県立岐阜商業高校時代に立教大学四年ですでに大学球界のスターであった長嶋茂雄がコーチとしてやってきたさいに、長嶋はまだ一年だった高木の才能を見抜き、監督に高木をレギュラーとして使うように薦め、その結果、高木はすぐにレギュラーを取りチームの中核となったという。
ナゴヤドームで野球中継の解説をする日は、中継スタッフ全員分のホットドッグを購入して配るなど、気配りもある。
1974年、巨人のV10を阻止して中日の優勝に貢献。このシーズンの後楽園の巨人×中日最終戦が長嶋茂雄引退試合は大島康徳などの若手・レギュラー級選手のみを出場させ、中日レギュラー選手は同日の中日優勝セレモニーのために欠場するように球団に言い渡された。この通達に高木は「偉大なる選手になんて失礼なことを」と大いに憤慨し、球団にその通達の撤回とそれが無理ならばせめて自分だけでも出場させるように抗議した。しかし、その願いは聞き入れられず、高木は優勝セレモニーで終始ぶ然とした表情をしていたという。高木はのちに長嶋に電話し謝罪したという。
対ロッテオリオンズと行われた日本シリーズでは初戦から大活躍。しかし、第3戦が行われた後楽園球場にて自打球を左足に当て負傷退場。検査の結果、骨折しており、その後の試合に出場できなかった。1番打者で切り込み隊長の高木を欠いた中日はロッテに敗れ日本一を逃す。当時のロッテの監督であった金田正一は後年、「あのとき高木が骨折していなかったら、ロッテは確実に日本一を逃していた。それくらい高木の調子は良く、どこへ投げても抑えられなかった。高木が骨折してくれたおかげで俺達は日本一になれたようなものだ」と語っている。
北海道遠征(札幌市円山球場)で対巨人との試合中、三塁走者だった高木は、俊足を生かしピッチャーゴロで本塁突入を試みるが、そのときの投手だった巨人の関本四十四に三本間で挟まれタッチアウトとなる。しかし、関本がタッチの際に高木の顔面にグラブを当てたことで高木は激高。関本も謝ろうとせず、高木をにらみつけたことで関本に殴りかかり乱闘騒ぎとなる。おとなしい性格の高木が選手時代に乱闘騒ぎを起こしたのは、おそらくこのときが最初で最後である。
10.8決戦が行なわれた1994年は、高木にとって監督としての3年契約の満了の年でもあった。当時の加藤巳一郎オーナーの遺書には、次期監督に早急に就任するように星野仙一が指名されていたことや、10.8決戦で敗れた責任もあり、高木は予定通り辞任するつもりであった。しかしその星野が「こうなった以上、来年も高木さんがやるべきだ」と固辞したことなどもあり、翌年も指揮を執ることになった。高木がナゴヤ球場の介錯役を担い、1997年のナゴヤドーム開場とともに星野が監督に復帰する計画だったといわれている。
[編集] 現役時代の年度別成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率(順位) |
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1960年 | 中日 | 51 | 99 | 7 | 19 | 2 | 1 | 3 | 6 | 2 | 4 | 0 | 6 | 18 | .192 |
1961年 | 中日 | 80 | 222 | 15 | 47 | 8 | 3 | 2 | 11 | 4 | 6 | 0 | 15 | 36 | .212 |
1962年 | 中日 | 96 | 239 | 24 | 67 | 11 | 5 | 1 | 15 | 10 | 12 | 0 | 5 | 28 | .280 |
1963年 | 中日 | 133 | 496 | 72 | 126 | 18 | 6 | 10 | 39 | 50 | 15 | 3 | 29 | 43 | .254(19) |
1964年 | 中日 | 122 | 482 | 59 | 141 | 24 | 6 | 8 | 31 | 42 | 8 | 4 | 28 | 38 | .293(8) |
1965年 | 中日 | 132 | 483 | 75 | 146 | 19 | 1 | 11 | 48 | 44 | 21 | 2 | 32 | 49 | .302(4) |
1966年 | 中日 | 113 | 457 | 82 | 140 | 18 | 5 | 17 | 59 | 20 | 7 | 4 | 23 | 37 | .306(6) |
1967年 | 中日 | 118 | 455 | 59 | 133 | 25 | 1 | 19 | 66 | 9 | 2 | 7 | 27 | 60 | .292(8) |
1968年 | 中日 | 83 | 318 | 50 | 76 | 15 | 3 | 10 | 33 | 11 | 3 | 4 | 31 | 45 | .239 |
1969年 | 中日 | 130 | 513 | 78 | 129 | 20 | 3 | 24 | 66 | 20 | 11 | 3 | 35 | 69 | .251(18) |
1970年 | 中日 | 118 | 449 | 41 | 116 | 15 | 4 | 10 | 51 | 18 | 12 | 5 | 17 | 51 | .258(16) |
1971年 | 中日 | 120 | 436 | 58 | 104 | 18 | 1 | 8 | 22 | 28 | 10 | 1 | 35 | 42 | .239(22) |
1972年 | 中日 | 118 | 459 | 42 | 115 | 13 | 2 | 10 | 42 | 19 | 10 | 2 | 21 | 38 | .251(23) |
1973年 | 中日 | 122 | 480 | 68 | 131 | 20 | 3 | 5 | 31 | 28 | 7 | 5 | 35 | 21 | .273(10) |
1974年 | 中日 | 121 | 456 | 71 | 126 | 22 | 2 | 15 | 47 | 14 | 10 | 4 | 31 | 42 | .276(16) |
1975年 | 中日 | 116 | 463 | 60 | 138 | 20 | 2 | 17 | 51 | 16 | 8 | 2 | 22 | 31 | .298(4) |
1976年 | 中日 | 98 | 392 | 50 | 104 | 14 | 1 | 17 | 44 | 7 | 8 | 3 | 14 | 35 | .265(27) |
1977年 | 中日 | 121 | 468 | 74 | 136 | 18 | 3 | 20 | 52 | 10 | 11 | 2 | 23 | 49 | .291(21) |
1978年 | 中日 | 89 | 314 | 41 | 89 | 15 | 2 | 13 | 37 | 3 | 11 | 1 | 12 | 20 | .283 |
1979年 | 中日 | 120 | 467 | 74 | 140 | 25 | 1 | 11 | 48 | 11 | 18 | 1 | 32 | 45 | .300(12) |
1980年 | 中日 | 80 | 219 | 20 | 51 | 6 | 0 | 5 | 14 | 3 | 6 | 0 | 17 | 22 | .233 |
通算成績 | --- | 2282 | 8367 | 1120 | 2274 | 346 | 55 | 236 | 813 | 369 | 200 | 53 | 494 | 819 | .272 |
[編集] タイトル・表彰・記録
- 盗塁王 3回(1963年、1965年、1973年)
- ベストナイン 7回(二塁手 1963-1967年、1974年、1977年)
- ゴールデングラブ賞 3回(二塁手 1974年、1977年、1979年)
- 4打数連続本塁打(1977年6月12日~6月14日)
- 初打席本塁打(1960年5月7日)
- 1試合5盗塁(1964年8月5日)
- オールスター出場 4回(1966年、1967年、1973年、1979年)
[編集] 監督通算成績
- 499試合 244勝 249敗 6分 勝率.495
- ※1992年から1996年までは130試合制
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
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- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 1986年は7月6日からシーズン終了まで指揮。
- ※3 1995年は6月2日まで指揮。