開城
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- 開城(かいじょう)は、敵に攻められた城が降伏して城門を開くこと。
- 開城(ケソン)は、朝鮮民主主義人民共和国にある都市。本稿で記述する。
開城 | |
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開城の位置 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 개성 |
漢字: | 開城 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
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片仮名: (現地語読み仮名): |
ケソン |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
英語: | Gaeseong |
世界 > アジア > 東アジア > 朝鮮民主主義人民共和国 > 開城直轄市, 開城工業地区, 開城
開城(ケソン、かいじょう)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)にある都市のひとつ。古くから高麗の王都として栄え、朝鮮八道では京畿道(キョンギド)に属す。今日の北朝鮮の行政区画では、行政区画としての道には属さない「開城工業地区」となっている。朝鮮半島の主要都市の中では、もっとも板門店に近い位置にある。
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[編集] 概要
黄海北道、黄海南道と接し、市域の東はそのまま軍事境界線になっている。開城市街地から、板門店までの距離は8km。南には漢江および臨津江の河口部があり、川を挟んで韓国領の江華島がある。市の総面積は1,309 平方km。
典型的な城郭都市であり、歴史的に商都として知られていた。市内には高麗時代の遺跡が多く残っている。市街地周囲は松岳山(海抜 489m )、子男山など松の多い山に囲まれているので松都と呼ばれる事がある。軽工業が盛んで、工業団地の建設も進み韓国企業も多く進出している。
朝鮮人参(高麗人参)の産地として有名で、人参酒は北朝鮮の主要な輸出品となっている。
儒学の最高教育機関であった「成均館」が残るほか、仏教寺院・観音寺、高麗王宮の宮殿の基壇跡である満月台、開城南大門、旧市街に架かる石橋であり、高麗に忠誠を尽くした学者・政治家、鄭夢周が李成桂側の人物に殺された場所である善竹橋、王建王陵などがこの街の歴史的な見所である。
[編集] 歴史
百済がこの周辺まで支配していた時代は「冬比忽(동비홀、トンビボル)城」と呼ばれており、高句麗時代を経て統一新羅の景徳王の16年に地名を「開城郡」と中国風の漢字2文字に改めた。新羅末期の後三国時代、挙兵した弓裔(クンイェ)は901年に開城に移り、後高句麗を建国した。開城を本拠としていた王建は弓裔に投降し、開城を明け渡してその部下となっていたが、弓裔の暴虐が激しさを増すと反乱を起こし彼を殺した。王建は918年に首都を後高句麗後期の鉄円(現在の江原道鉄原)から開城に遷し、開州と名を改め、高麗を建国した。開州には王のいる寿昌宮ほか仁徳宮、寿徳宮などの宮殿があった。1015年に宋に遣わされた郭元は、三五千を下らぬ民がいると語っており、この頃の人口は30万人と推計されている。
その後高麗が滅亡し、李氏朝鮮を建国した李成桂が都を現在のソウルに遷した。李氏朝鮮の時代も開城は朝鮮の重要都市であり続けた。特に商業が盛んな都市で、「松房」または「松商」と呼ばれる開城商人は朝鮮半島各地で活躍した。南北朝鮮では、世界初の複式簿記による帳簿は開城商人が発明したと主張している。
1945年の日本敗戦で、朝鮮半島における日本統治は終焉したが、代わって第二次世界大戦の連合国による統治が始まり、北緯38度線上を境に北はソ連が、南はアメリカが統治した。分割統治は当初、一時的なものであったはずだった。しかし、ほどなく米ソ間で冷戦が始まったことや、連合国による分割統治中に南北それぞれで政権が立ち上がったことから、南北はどんどん分断されていく。
1950年に朝鮮戦争が起きるまでは、南北の境界は北緯38度線上に引かれていたため、この時点では、北緯38度以南にある開城の中心部は、韓国側の統治圏内だった。また当時、人々の南北間の往来も、盛んではなかったものの可能ではあった。
朝鮮戦争が始まると、開城は真っ先に北側の朝鮮人民軍の手に渡った。その後米軍が南側へ応戦したことで一時は開城全域が南側のものとなった時期もあったが、北側にも中国から義勇軍が応戦したことで開城は再び北側のものへ。その後、南北の軍の最前線は開城のすぐ南で膠着した。
1953年、板門店での休戦協定締結により、朝鮮戦争はついに停戦となる。それ以来現在にいたるまで、人々の南北間の往来は絶望的となっている。さらに、軍事境界線は北緯38度線からややずれていたことから、戦争前は南側の韓国の統治圏内だった開城は、戦争後は北側の朝鮮民主主義人民共和国の統治圏内になった。開城の人々は、戦争の際、南に逃れた人もいれば、開城にとどまった人もいた。この結果、南北間の離散家族は、開城の出身者がもっとも多い。
また、韓国政府統治範囲で首都圏を形成している京畿道のなかではただ開城だけが例外的に、軍事境界線よりも北に位置している。このことや、軍事境界線に最も近い主要都市であることから、開城は、朝鮮民主主義人民共和国において、どの道にも属さない「開城直轄市」として行政がなされてきた。
2002年までの開城直轄市の行政区分は以下のとおりであり、いずれも南北分断前は京畿道に属していた。
- 開城市(ケソンシ、개성시)
- 長豊郡(チャンプングン、장풍군)
- 開豊郡(ケプングン、개풍군)
- 板門郡(パンムングン、판문군)
2003年、開城市の一部と板門郡が開城直轄市から分離され、開城工業地区として再編された。残りの部分は黄海北道へ併合された。
[編集] 開城工業地区
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2000年8月、朝鮮労働党総書記金正日と現代グループ会長鄭夢憲との合意のもと、北側が土地と労働力を、南側が技術と資本を提供して、開城に一大工業団地を作ることが決まった。2002年11月には、朝鮮民主主義人民共和国で開城工業地区法を制定。2003年6月、3.285km2を造成する第1期工事が起工され、2007年の完成に向けて工事が進行中である。
開城工業地区は第1段階100万坪(3.285km2)のうち、まず28,000坪について、15の企業を入居させるパイロットプラン(モデル団地)を実施中だ。15の企業のうち、現在11の企業が操業を開始している。第1段階の建設費用は2,205億ウォン(約250億円)、そのうちインフラ施設1,095億ウォン(半分弱)となっている。
資金の拠出、設計、分譲は韓国土地公社(韓国の国営工業団地デベロッパー)が行い、施工は現代峨山(現代自動車などと同じ現代グループであったが、現在、系列関係は弱い)が行っている。
非武装地帯の北方限界線からわずか1キロほどの最前線に工業団地が建設されている。北朝鮮が主権を放棄したわけではないので、この工業地区は、北朝鮮の法律が適用され、かつ実質的な工業団地の運営は韓国側が行うというユニークな運営形態を持つ。ここでは、すでに約5,000名の北朝鮮の労働者と約500名の韓国の労働者、技術者が同じ職場で働いている。金剛山観光事業でも韓国側と北朝鮮側が共に働いている場面が増えてきており、韓国と北朝鮮の人々が共同で事業に取り組む開城工業地区と金剛山観光地区の発展は、南北の融和を目指す太陽政策の大きな成果として評価されている。
その一方、開城工業地区で働く北朝鮮側の労働者は、韓国側から月あたり57.5ドルの給料が支払われているが、給料は労働者に直接渡されることはなく北朝鮮側の当局を通して渡される決まりになっている。北朝鮮が労働者にいったいいくら月給を払っているのかは明らかにされていないが、そのほとんどが北朝鮮当局の懐に入っているものと推測されている。この点について最近、アメリカから非難が寄せられている。
2006年7月の北朝鮮ミサイル問題、および同年10月の核実験の影響で、北朝鮮の収入源となっている開城工業地区事業について改めてアメリカ側から問題提起がなされるなど、北朝鮮情勢の緊迫化に伴い事業の先行き不透明感が増している。
敷地造成作業は2006年1月10日現在、69%が完了し、2006年末に完工予定である。また、インフラ設備のうち、廃水処理場、用水施設(上水道)、廃棄物処理場は2005年に着工し、2006年末に完工予定である。
モデル団地に続いて、第1段階の5万坪に対する分譲が行われつつある。2005年9月には一般工業用地17件、コンソーシアムで6社が加入する協同化事業団地2件、アパート型工業団地1件の企業、機関の選定が行われた。現在、14の企業、機関が統一部(省に相当)の事業承認を受けている。
今後、第1段階100万坪の分譲に向けて、韓国からの10万キロワットの高圧送電線建設(現在は1.5万キロワットを配電)や移動通信、インターネット用の設備(韓国と今後接続予定。電話は200回線ほどが現在供用中)、浄水場、汚水処理場、廃棄物処理施設(工業地区外に1.5万坪を北朝鮮側が提供)などの建設が進行中である。
また高麗の古都である開城はソウル特別市からも近くて観光地としても有望な場所で、2005年8月にソウルからの日帰り試験観光が実施されたが、その後北朝鮮側に支払う観光料などの条件面で折り合いがつかず、今もって韓国側からの観光は開始されていない。
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[編集] 教育施設
- 松都政治経済大学