餘部橋梁
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餘部橋梁(あまるべきょうりょう)とは、兵庫県美方郡香美町香住区(旧城崎郡香住町)余部、JR西日本・山陰本線の鎧駅~餘部駅間にある鉄橋(単線鉄道橋)である。一般に餘部鉄橋(余部鉄橋)と呼ばれる。
なお、地名で「余部」が用いられている関係もあり、一般的に「餘部」と「余部」が併用されているが、当項目の正式名称は「餘部橋梁」である。
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[編集] 橋脚の概要
1909年(明治42年)12月に着工、1912年(明治45年)3月1日に開通した。長さ310.59m、高さ41.45m、総工費331,535円。11基の橋脚、23連の鉄桁を持つトレッスル橋である。なお、国道178号線がこの鉄橋の下を走っている。
その独特な構造と鮮やかな朱色、また付近の情景とも相まって、鉄道ファンのみならず、山陰地方を訪れる観光客にも人気がある。最寄り駅である餘部駅には、その裏山に展望台が設けられており、絶好の撮影ポイントとなっている。
朝・昼・夕と光の具合でその姿を変えるほか、天候や四季(特に雪)によっても大きく変貌する。夜、列車が通過する様子は、さながら銀河鉄道であり、轟々と響き渡る通過音には趣さえ感じる。鉄道に関する観光地としては、屈指のものといって差し支えないだろう。
[編集] 建設の経緯と経過
兵庫県香住町(現、香美町)から兵庫県浜坂町(現、新温泉町)付近の日本海沿いは厳しい山岳地形であり、当初より線路の敷設については必然的に山間部を通す必要があった。
しかし、余部集落付近については、特に地形の特殊性から、集落を見下ろす形で京都方面、鳥取方面より伸びてきた線路を、集落を跨ぐ形で繋がねばならず、内陸ルート(現在の国道178号)や、土を盛り上げ大築堤する案も挙がったが、最終的には架橋することになり、コンクリート橋にする案もあったものの却下され、当時の鉄道院技師、古川晴一により、アメリカ人技師の意見を取り入れてトレッスル橋と呼ばれる方式にて建設が始まった。橋脚の鋼材は、アメリカンブリッジ社のペンコイド工場より九州の門司港経由にて余部沖に運ばれ、1910年(明治43年)8月に陸揚げされた。また、桁は、石川島造船所(現・石川島播磨重工業・IHI)によって製作され、1911年(明治44年)9月に神戸より陸送された。完成までには33万円を超える巨額と、延べ25万人を超える人員を投入し、また大変危険な工事であったため、作業員には2万円もの保険が掛けられていた。
この橋の建設は山陰本線建設において西隣の桃観トンネル(桃観峠大隧道)に次ぐ難工事であり、この橋と桃観トンネルの完成により京都駅から出雲今市駅(現・出雲市駅)までが全通となった。完成より90年を超えた現在でも、トレッスル橋としては国内最大であり、初期の鉄道建築としても、高い存在意義を有している。過去には豊岡方トンネル手前側に小屋があり、そこに鉄橋守が常駐し、維持管理をしていた時期もあった。現在は小屋は撤去されたものの土台を確認することが出来る。
1911年(明治44年)、「鉄道唱歌」に倣って作成された「山陰鉄道唱歌」(作詞:岩田勝市、作曲:田村虎蔵)では、「山より山にかけ渡し み空の虹か桟(かけはし)か 百有余尺の中空に 雲をつらぬく鉄の橋」と歌われた。
1927年3月7日の北丹後地震では橋桁が落下し、山陰本線が一時不通となっている。
[編集] 山陰線余部鉄橋列車転落事故
1986年(昭和61年)12月28日午後1時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中のお座敷列車「みやび」が日本海からの突風にあおられて鉄橋中央部付近より機関車と客車の台車の一部を残して7両が転落した。転落した客車は橋の真下にあった水産加工工場を直撃し、従業員であった主婦5名と乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の従業員1名とカニ加工場の従業員5名の計6名が重傷を負った。
この鉄橋からの列車の転落は橋の完成以来初めての惨事であり、原因としては風速25m/s以上を示す警報装置が作動していたにもかかわらず列車を停止させなかった人為的ミスと見られている。
この事故後、当時の国鉄は運行基準を見直し、風速20m/s以上で香住駅~浜坂駅間の列車運行を停止し、バス代行(全但バスが担当)とするよう規制を強化することとなった。また、1988年(昭和63年)10月23日、事故現場に慰霊碑が建立され、毎年12月28日には法要が営まれている。
[編集] 橋脚塗り替え工事
潮風が吹きつける橋脚には防錆処理をするため、数年おきに橋脚部にネットを張り塗り替えが行われる。鉄橋架け替えが行われるため、2005年7月に行われた塗り替え工事が最後の塗り替え工事となった。
[編集] 鉄橋架け替え
[編集] 架け替えの議論
列車転落事故により運行基準を強化した結果、冬の観光シーズンを中心に運休や遅れが続出し、定時運行が困難となった事を契機に、現鉄橋の南側にPC橋(コンクリート橋)を新たに設置する計画が浮上した。PC橋では風速30m/sまで運行可能な設計とされており、また保守も容易なことや、自治体が建設費の8割を負担することから、JR西日本では出来る限り早い着工を目指しており、2007年春から架け替え工事が行われる予定である。
一方で、観光客からは現在の鉄橋が無くなる事を惜しむ声が後を絶たず、新しいPC橋が観光資源となり得るかについては疑問の声が多い。2006年から2007年にかけて、工事前の鉄橋を一目見ようと、連日、多くの人が詰め掛けているが、私有地への無断立ち入りや、地元への迷惑行為が、日に日にエスカレートしている。「想い出のあまるべ号」運転時には、撮影に来た鉄道ファンが、鉄橋近くにある墓の墓石を倒してしまうと言う事件も起きている。そのため、駅周辺には警察官も配備されている。逆に地元住民は、鉄橋を観光資源として保存することについては、否定的な見解が多数派であり、旧鉄橋そのものの撤去を求めている。また、昨今の観光客のマナー事情や、列車転落事故の記憶から、誰もが観光資源化を望んでいるわけではなく、逆に「静かにしておいてほしい」という声があるのも事実である。
鳥取県議会は寝台特急「出雲」号の廃止に関連して、鉄橋架け替えへの資金提供をやめる可能性を表明している。
[編集] 架け替えの実施関連年表
- 2001年11月 新橋設置方針決定
- 2003年10月 PCラーメン橋へ基本方針決定
- 2004年5月1日 観光列車「あまるべロマン」(キハ65形の元「エーデル鳥取」車または「シュプール&リゾート」車で組成された2~5両)を運転開始。春休み、ゴールデンウィーク、夏休みなど観光シーズンを中心に運転。一旦、2006年8月27日が最終運行と報道されたが、観光客が多いため2007年5月3~6日も運転される予定。運転区間は豊岡/城崎温泉・香住~浜坂(2007年GWは城崎温泉始発)。
- 2005年3月 エクストラドーズドPCラーメン橋採用決定
- 2006年3月 兵庫県、鳥取県などの沿線自治体とJR西日本とで、架け替えに関する基本協定が結ばれる
- 2006年10月21日 架け替えを記念してJR西日本は「急行あまるべ」(キハ58系4両)を姫路~浜坂間で運転。同日香住町で「全国鉄橋サミット」開催。
- 2007年3月24日~4月1日 イベント列車「想い出のあまるべ」(DD51+12系4両)を豊岡~浜坂で運転。
- 2007年3月29日 新橋架替工事着手(※新聞報道による)総事業費は30億円。新橋はコンクリート製。構造はエクストラドーズド橋、5径間連続PC箱形けた。土台は橋脚4基と橋台2基。防風壁も整備し、今の鉄橋よりも約7m南側に架設、これにともない餘部駅ホームも北側に移設される。工事は橋梁下の準備工事から着手、2007年夏から本格的に橋脚、橋台の工事に取りかかる。2009年度からけたの工事にはいる。今の鉄橋は産業遺産としての価値があることから、兵庫県などの自治体が一部保存を検討している。
- 2010年 架替工事完了予定
[編集] 位置情報
[編集] アクセス
- 飛行機
- 東京から
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- (1)羽田→伊丹(日本航空)(2)伊丹→コウノトリ但馬(日本エアコミューター)コウノトリ但馬行きは日本航空東京便と連絡。コウノトリ但馬空港からは空港連絡バスで豊岡駅下車→山陰本線浜坂行きに乗車約54分で餘部駅下車
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- (1)羽田→鳥取(全日空)空港アクセスバスで鳥取駅→浜坂駅→山陰本線豊岡・城崎行きに乗車で餘部駅下車
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- 大阪、京都、神戸から
- 特急北近畿(新大阪駅、大阪駅より)、特急きのさき(京都駅より)にて約2時間40分で城崎温泉下車→山陰本線浜坂行き乗車
- 特急はまかぜ(大阪駅、三宮駅より)は餘部駅を経由するが、餘部には停車しないので、香住駅で普通浜坂行き乗り継ぎ
[編集] 外部リンク
- 香美町余部鉄橋のご案内
- カフェレストAMARUBE&民宿旅館 川戸屋
- 【写真集】 ありがとう「余部鉄橋」
- JR西日本 「急行あまるべ」運転
- JR西日本 「想い出のあまるぺ」運転
- 土木貴重写真コレクション 橋梁工事(余部鉄橋ほか)
- 但馬情報特急
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