本場所
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本場所(ほんばしょ)とは財団法人日本相撲協会によって定期的に行われる大相撲の興行である。
力士の場合、技量審査の性質があり、勝ち越し、負け越しの星数、および勝敗の結果により番付の昇降を伴う。
2007年現在、1年に6回行われており、東京(1月、5月、9月)は両国国技館で3回、大阪(3月)は大阪府立体育会館、名古屋(7月)は愛知県体育館、福岡(11月)は福岡国際センターで各1回行われている。
1場所は15日間連続で行われ、1日目は「初日(しょにち)」、8日目は「中日(なかび)」、最終日にあたる15日目は「千秋楽(せんしゅうらく)」と呼ばれる。
初日は1場所15日制になってから、1989年1月に行われた一月場所(昭和天皇の崩御に伴い1日延期)を除き、日曜日に設定されている。また、以前は夏巡業の期間を保障するために、七月場所の初日が6月末に設定されていたこともあったが、現在は月の前半の日曜日が初日とされ、当該場所開催期間の15日間が月をまたぐ事は無い。
各力士、行司の序列を定めた本場所の番付は、各場所初日の約半月前(1970年頃に、年末年始を挟む一月場所を除いては初日の13日前の月曜日と定められた。ほかのスポーツ行事の少ない曜日を選んだということである)に日本相撲協会より発表される。
本場所の土俵進行(土俵入りや力士呼び出しの順序)は、奇数日目が東方から、偶数日目が西方からとなっている。
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[編集] 本割
本場所における正規の取組を本割(ほんわり)と呼び、本割は番付・成績などを加味して審判部により決められる。幕内は昼過ぎ(初日のみ前々日、千秋楽は前日17時ごろ)、十両は17時ごろ、幕下以下は18時以降に翌日の取組が発表される。嘗ては東西対抗戦、一門系統別総当たり制等で行われていたが、現在は部屋別総当たり制[1]で行われる。
十両以上は期間中毎日取組があるが、幕下以下の各段力士の取組は、1場所のうち7番取組があり[2]1番相撲(初日か2日目のどちらか片方に割が組まれる)は最も番付が近い力士同士の対戦となり、以降の取組は原則成績が同じ者の中で最も番付が近い力士同士の対戦となる[3]。12日目までに6番目の相撲を取り終え、7番目の相撲に関しては、全勝力士の取組[4]は必ず13日目に行われる[5]。従って、幕下以下の各段優勝は同点者が無い限り、概ね13日目に決まることになる。同点者が複数居る場合は千秋楽の中入り時に優勝決定戦が行われる[6]。
- ^ 優勝決定戦を除いて、同じ部屋に所属する力士同士の対戦は組まれない。他にも不文律として同じ部屋に所属していなくても兄弟等の血縁者同士の取組は組まれない。つまり北桜 - 豊桜、露鵬 - 白露山の取組は本割では組まれないのである。
- ^ 1番相撲…初日か2日目、2番相撲…3日目か4日目、3番相撲…5日目か6日目、4番相撲…7日目か中日、5番相撲…9日目か10日目、6番相撲…11日目か12日目、7番相撲…13日目か14日目か千秋楽-となっているが、休場力士が出た場合(特に十両以上で)は幕下上位(若しくは序ノ口下位)では番数が1番前倒しになる(例・2日目に2番相撲、6日目に4番相撲)。全勝力士は全勝同士の割が優先となる為に、幕下上位の力士を十両の土俵に番数を繰り上げて取らせる際には既に1敗以上している力士が選ばれる場合が多い(勿論、1番相撲の場合を除く)。
又、場所終盤で十両-幕下の入れ替え戦が組まれる際にも、幕下上位で割の前倒しが見られる(例・11日目迄に6番を取り終え3勝3敗、7番相撲は12日目に十両力士との入れ替え戦でその場所の全取組が終了)。 - ^ スイス式トーナメントを参照。
- ^ 但し、
① 三段目(東西各100枚)や序二段(同120枚程度)より枚数が遥かに少ない幕下(同60枚)や序ノ口(同35枚程度)では、偶に6戦全勝の力士が2人残らず1人だけになる
② 全勝力士の地位が離れ過ぎている(三段目最下位の6戦全勝-序二段最上位の6戦全勝の力士同士、若しくは序二段最下位の6戦全勝-序ノ口唯一の6戦全勝の力士同士の地位を比較した場合等)
③ 全勝力士の数が合わない(奇数になる)
等のケースがあり、これらを理由に星違い(全勝-1敗)の対戦もしばしば見られる。 - ^ 全勝力士の割が13日目に組まれずに14日目若しくは千秋楽に組まれた前例も稀に存在するが、千秋楽の中入りの時間に行われる表彰式の段取りを整える為に、基本的には13日目に組まれることになっている。
- ^ 但し、十両力士の同点対象者が幕内力士との取組が組まれた場合は体力の消耗等を考慮し、幕内の取組が数番取られた後に優勝決定戦が行われる。
[編集] 本場所の名称
本場所の名称は、1月場所、5月場所などのように開催月を付けて呼ぶのが正式で1958年に規定された。日本相撲協会の番付・取組・星取表には「○月場所」と表記されており、季節や地名を用いた呼び名も新聞やテレビなどではよく使われる。これは通称であるが、現在ではこの名称で呼ばれることが多い。
開催月 | 正式名称 | 通 称 | 開催場所 | 初 日 |
---|---|---|---|---|
1月 | 1月場所 | 初場所 | 両国国技館 | 1月の第1または第2日曜日 |
3月 | 3月場所 | 春場所(大阪場所) | 大阪府立体育会館 | 3月の第2日曜日 |
5月 | 5月場所 | 夏場所 | 両国国技館 | 5月の第2日曜日 |
7月 | 7月場所 | 名古屋場所 | 愛知県体育館 | 7月の第1または第2日曜日 |
9月 | 9月場所 | 秋場所 | 両国国技館 | 9月の第2日曜日 |
11月 | 11月場所 | 九州場所 | 福岡国際センター | 11月の第2日曜日 |
[編集] 本場所の進行
本場所は毎日連続で15日間開催されるが、日によって進行時間は多少異なったりする。前相撲に関しては、3月場所では人数が多い為2日目から開始されるが他の場所では3日目から開始され、前相撲終了後に序ノ口取組が開始される。幕下の取組を残り5番を残して十両の土俵入りが行われるのは、昭和40年代末のオイルショックの際に光熱費節減の為、其れ迄在った幕下-十両間の休憩時間が省かれるようになったからである。十両力士は幕下上位五番の取組中の時間を利用して、化粧廻しから取り廻し(締め込み)に締め換える。
時間 | 内 容 |
---|---|
8:00 | 寄せ太鼓 |
8:30 | 序ノ口取組 |
序二段取組 | |
三段目取組 | |
幕下取組(幕下上位五番を除く) | |
14:40 | 十両土俵入り |
幕下取組(幕下上位五番) | |
十両取組 | |
協会御挨拶(初日と千秋楽のみ) | |
十両取組(残り3番) | |
15:50 | 中入り |
幕内土俵入り | |
横綱土俵入り | |
顔触れ言上(ごんじょう) | |
幕内取組 | |
17:55 | 弓取式 |
18:00 | 打ち出し(撥ね太鼓) |
[編集] かつて使われていた会場
- 東京 - 蔵前国技館(1984年まで)
- 大阪 - 大阪市中央体育館(旧): 1986年に大阪府立体育会館の全面改修工事のために1度だけ開催された。
- 名古屋 - 名古屋市金山体育館: (1958年~1964年)、会場は飛行機の格納庫を改造して建設されたが、空調がなかったため室内でも猛暑の中で開かれ、支度部屋には氷柱がおかれ、中入りの時には場内に酸素の放出が行われたと記録にある。
- 福岡 - 福岡スポーツセンター(1957年~1973年)、九州電力記念体育館(1974年~1980年)
戦前は、戦時戦後の一時期を除き旧両国国技館が使われ、昭和2年から7年までの地方本場所は、大阪市・京都市・福岡市・広島市で開催の実績がある。
[編集] 場所ごとの逸話など
[編集] 初場所
- 古くは1月場所は「春場所」と呼ばれた。昭和28年(1953年)に大阪場所が出来て年4場所制となった時には、1月場所は「初場所」か「春場所」かで協会発表に混乱があり、騒動になった。後で当時責任者だった年寄楯山(元幡瀬川)の明かしたところでは、マスコミを利用した話題づくりだった。
- この場所で、大関や横綱への昇進を果たした力士は多く、「祝儀場所」の異名もある。
- 中日8日目は天覧相撲になることが多い。
- 平成元年(1989年)の初場所(=平成最初の場所)は1月8日(日曜日)に初日の予定であったが、昭和天皇の崩御の関係で翌日の1月9日(月曜日)に変更。初日が日曜日以外の曜日に行われたのは15日制施行後初めてのことであった。
- 名勝負
- 昭和56年(1981年)千秋楽千代の富士 - 北の湖(優勝決定戦)
- ウルフフィーバーの巻き起こった場所。14連勝の千代の富士を1敗で追う北の湖が吊り出しに破って決定戦に持ち込んだが、この時北の湖の膝が悪いのを見破った千代の富士が上手出し投げで決定戦を制し初優勝。大関昇進も果たす。
[編集] 春場所
- 呼称については初場所も参照。
- 多い年では200人前後の新弟子が初土俵を踏み、「就職場所」の異名がある。
- 「荒れる春場所」と呼ばれ、番付上位が負けるいわゆる波乱の結果が多いとされる。
- もともと大阪には大坂相撲の歴史があって相撲人気の根強い土地であり、毎年大いに盛り上がる場所である。
- 朝潮太郎 (3代)がこの場所で強く、昭和31年(1956年)から3連覇するなど通算5回の優勝のうち4回を大阪で達成、「大阪太郎」と呼ばれた。他に北勝海が通算8回優勝のうち4回が大阪での優勝。
- 横綱が負けた時に起こる「座布団の舞」、この場所では他場所に比べてより多くの座布団が舞う。
- 名勝負
- 昭和35年(1960年)千秋楽若乃花-栃錦
- 史上初めて、全勝力士同士が千秋楽結びの一番で優勝を争う形になった。栃錦が無理にまわしをきりにいったところを若乃花が一気に寄り、自身初の全勝優勝。栃若最後の一番にもなった。
- 昭和50年(1975年)千秋楽貴ノ花-北の湖(優勝決定戦)
- 国民的人気を背負った貴ノ花の初優勝。両差しから北の湖を寄り切って優勝が決まった瞬間には、負けた北の湖が「天井が見えなかった」と後に語ったほどの座布団が舞った。
[編集] 夏場所
- 名勝負
80年代、昭和最後の大横綱千代の富士と後に貴乃花として平成の名横綱になる貴花田の初顔合わせの一番。この一番で、千代の富士は寄り切られて完敗。貴花田は初金星を獲得。一方、千代の富士は2日後に現役引退。力士の世代交代の時を世間に知らしめた一番となった。
[編集] 名古屋場所
- 本場所となったのは昭和33年(1958年)で、6場所の中では一番後である。
- 「荒れる名古屋」で知られる。夏場の開催となって、体調管理が難しいことから調子を落とす上位力士も多いのが、その要因と言われている。生涯ただ一度の優勝をこの場所で果たした力士も多い。
- かっては6月下旬から始まったこともあった。
- 大正12年(1923年)の関東大震災による東京の国技館焼失のため、翌年の一月場所が名古屋市内の仮設国技館で行われた。
- 昭和47年(1972年)に高見山大五郎が外国人力士として初めての優勝を遂げた。
- 名勝負
- 平成5年(1993年)千秋楽曙-貴ノ花-若ノ花(優勝決定戦)
- 昭和63年(1988年)春初土俵の同期生3人による巴戦。横綱昇進のかかる大関貴ノ花が結びの一番に勝って決定戦に持ち込んだが、曙が連勝、横綱初優勝を決めた。場所後若ノ花は大関昇進。優勝-優勝同点の貴ノ花の昇進は見送られた。
[編集] 秋場所
- 名勝負
[編集] 九州場所
- 地方で行われる本場所の中でも、最も地元出身力士への声援が大きい。毎年、初日の前日に前夜祭が開かれ、九州出身力士が紹介される。とりわけ2007年初場所現在大関である魁皇には、福岡県出身ということもあって大きな声援が飛び、相撲の観客からは珍しい「魁皇コール」が場内から起こるほどである。これは相手力士には相当なプレッシャーであり、魁皇はこの場所だと好調である。(しかし、本場所での幕内最高優勝はない)
- ここ数年の福岡場所では、横綱が勝っても座布団が舞うことがある。さらには2006年の千秋楽では、君が代斉唱時にも座布団が投げられた。これは完全なマナー違反である。
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