テレサ・テン
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テレサ・テン 鄧麗君 |
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プロフィール | |
出生 | 1953年1月29日 |
死去 | 1995年5月8日 |
出身地 | 台湾台北市 |
職業 | 歌手 |
各種表記 | |
簡体字 | 邓丽君 |
繁体字 | 鄧麗君 |
ピン音 | Dèng Lìjūn |
発音転記 | テン リーチュン |
ラテン字 | Teng Li-chün |
英語名 | Teresa Teng |
テレサ・テン(中国語芸名:鄧麗君、本名:鄧麗筠[デン・リーユン]、1953年1月29日‐1995年5月8日 )は、1960年代から1990年代にかけて主に中華圏アジアと日本を中心に活躍した台湾人歌手。日本や台湾をはじめとする東アジアの国々で絶大な人気を誇っていることから、「アジアの歌姫」と呼ばれている。中華民国(台湾)を代表する歌手の一人。
英語名のテレサ(Teresa)は、彼女自身が尊敬するマザー・テレサに因んでつけたものと言われてきたが、実際は彼女の洗礼名を転用したことが明らかにされている。テンは本名の姓『鄧』の中国語音を英語表記し、ローマ字読みしたものである。
※テレサ・テンの肖像についてはウィキペディア英語版もしくは中文版のページ参照。
目次 |
[編集] 経歴
1953年中華民国・台湾雲林県で生まれた外省人。両親は共に中国大陸山東省出身の外省人で、父親は元国民党軍(国府軍)の職業軍人だった。彼女自身生前軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、台湾では「軍人の恋人」というニックネームでも有名。日本ではどちらかというと演歌歌手のイメージがある様だが、実際はかなり幅広いジャンルの歌を歌っており、台湾や香港などで出されたアルバムには、演歌に加えて台湾民謡や英語のポップス、日本語ポップスのカバー曲なども多数含まれている。言葉にも堪能であり、北京語に加えて台湾語、広東語、日本語、英語、フランス語などの言葉が話せた。日本でリリースされた曲は約260曲ほどであるが、中国語でリリースした曲は1000曲を越す。
1974年から日本での活動を開始、「ユニバーサルミュージック」(当時は「日本ポリドール」)と契約し、アイドル歌謡曲路線の『今夜かしら明日かしら』でデビュー。だが、売れ行きが思わしくなかったため、演歌・歌謡曲路線に変えたところ、日本でのデビュー2作目となる『空港』が大ヒット、レコード大賞新人賞など多くの賞を獲得する。しかし、1979年、日本入国の際に友人の勧めでインドネシアの偽造パスポートを使用したことが発覚し、国外退去処分となる。その後再来日を果たすまでは、香港を活動の拠点にしていた。1983年の香港公演は中華圏では今でもDVDがどのCD屋でも売られている。
1984年再来日。レコード会社を「トーラスレコード」に移籍、日本でリリースした『つぐない』、『愛人』がそれぞれ150万枚、『時の流れに身をまかせ』が200万枚を売る大ヒットとなる。1984年から1986年にかけ、日本有線大賞及び全日本有線放送大賞の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞した。
1980年代後半からは主に活動の拠点を香港に移し、1990年以降はパリに居住。天安門事件によるショックで表舞台での活動を減らした1990年代に日本をはじめとするアジア各国で二回ほど彼女の死亡説が流れたりもした(一度目は1990年5~6月に父親の葬儀への欠席をきっかけに病死説が、二度目は翌1991年4~5月に病死説・暗殺説が流れている。死亡説に対してはそれを否定する本人のコメントが新聞記事などに取り上げられた)。1980年代後半以降のテレサは演歌・歌謡曲というよりもJ-POP寄りで、飛鳥涼やZARDの坂井泉水らの曲も歌っているため、必ずしも演歌歌手とはいえない部分が多い。日本での最後のテレビ出演は、1994年11月に放送されたNHK『歌謡チャリティーコンサート』(仙台市にて公開録画)だった。
1995年5月8日、タイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。42歳の若さだった。同月28日に台湾・台北で国葬級の葬儀が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は台湾・中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。墓所は台北市の北東に位置する台北県金山郷の金宝山にあり、小さな公園のように整備され、本名の一字を取って「筠園」と呼ばれている。墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。死去10年目に当たる2005年5月8日には、日本をはじめとするアジア各国からファン300人ほどが墓所に詰めかけ、追悼集会を開いて生前のテレサ・テンを偲んだ。台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されずに土葬された。
(テレサ・テンの活動年次は、「平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』晶文社」に基づく)
[編集] 死についての謎
テレサ・テンの死については謎が多く、「喘息の発作説」が有力であるが、「反戦運動をしていたことから暗殺され、その後うやむやにされた」などの説もある。
[編集] テレサ・テンと有線放送
テレサ・テンと有線放送は切っても切れない関係にある。1985年に大ヒットした『愛人』は、有線放送のリクエストチャートで14週連続1位を記録。また、全日本有線放送大賞では1984年の『つぐない』、1985年の『愛人』、1986年の『時の流れに身をまかせ』で3連覇を達成して、浜崎あゆみが2003年に4連覇を達成するまでは誰も破ることが出来なかった。また、日本有線大賞でもやはり1984年の『つぐない』、1985年の『愛人』、1986年の『時の流れに身をまかせ』で3連覇を達成しているが、東西有線大賞3年連続同時大賞・グランプリ達成という記録は2007年現在誰にも破られていない。
[編集] テレサ・テンと中国大陸
テレサ・テンの歌は、1974年頃から音楽テープによって中国に入り始めた。中国大陸では抗日歌として人気があったため、台湾の中国国民党政権は中国大陸に隣接する金門島から彼女の歌声を大音量で大陸に向けて流し、大陸の反日を反共にシフトさせる宣伝の道具として彼女の歌をよく利用した。そのため中国大陸の当局は、しばしば彼女の歌を不健全な「黄色歌曲」(ピンク歌曲)と位置づけて音楽テープの販売・所持等を禁止したが、中国大陸で彼女の歌が禁止されていた時期でも実際には海賊版の音楽テープなどがかなり流布しており、それらを通して彼女の歌声を聞いていた人も多かった。1987年に台湾の商品を中国で販売できるようになったことから、オリジナルの音楽テープが入るようになった。
中国大陸での彼女の人気の高さを物語るエピソードとして、当時、中国の民衆の間で「昼は老鄧(鄧小平)のいうことを聞き、夜は小鄧(鄧麗君:テレサ・テン)を聴く」、「中国大陸は二人の鄧(鄧小平と鄧麗君)に支配されている」といったようなジョークが流行っていたことなどを挙げることができる。
1989年6月4日に発生した天安門事件の際には、香港で行われた民主化デモ弾圧に対する抗議集会に参加、民衆の前で歌を披露し、自ら中国大陸の民主化実現を訴えた。中国軍政府を否定したテレサは、1997年7月1日にイギリスから中国に返還されることが決まっていた香港を発ち、フランスのパリへ移住した。生前、彼女は中国大陸でのコンサートを熱望していたものの、天安門事件で中国に失望し、実際にそれが実現することはなかった。天安門事件以降、テレサは台湾も独立した方がいいと仄めかすようになっていた。
[編集] 代表曲
[編集] 日本で発表した主な楽曲
- 空港(1974年7月1日)
- つぐない(1984年1月21日)
- 愛人(1985年2月21日)
- 時の流れに身をまかせ(1986年2月21日)
- スキャンダル(1986年11月21日)
- 別れの予感(1987年6月21日)
- 恋人たちの神話(1988年1月25日)
- 香港~Hong Kong~(1989年3月8日)
[編集] 北京語の主な楽曲
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※1983年に、中国の古典詩に曲を付けて歌ったアルバム『淡淡幽情』が香港から発売され、香港の『アルバム・オヴ・ザ・イヤー』を受賞。収録曲に『独上西楼』『但願人長久』など。
[編集] 広東語の主な楽曲
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[編集] 台湾語(閩南語)の楽曲
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[編集] 日本語歌謡曲の中国語カバー曲 ※( )内は原曲の名称
- 愛人(愛人)
- 償還(つぐない)
- 我只在乎你(時の流れに身をまかせ)
- 夏日聖誕(MERRY X'MAS IN SUMMER)
- 漫歩人生路(ひとり上手)
- 襟裳岬(襟裳岬)
- 再來一杯(二人でお酒を)
- 再見我的愛人(グッバイ・マイ・ラブ)
- 誰來愛我(港町ブルース)
- 北國之春(北国の春)
- 四個願望(四つのお願い)
- 愛的理想(あなた)
※日本語歌謡曲のカバー曲は他にも多数存在する。詳細については外部リンク参照。
[編集] 関連文献
- 平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』晶文社、1996年、ISBN 4794962525
- 宇崎真・渡辺也寸志著『テレサ・テンの真実』徳間書店、1996年、ISBN 4198604134
- 篠崎弘著『カセット・ショップへ行けばアジアが見えてくる』朝日新聞社、1988年、ISBN 4022558660
- 上村幸治著『台湾 アジアの夢の物語』新潮社、1994年、ISBN 4104016012