ウランバートル
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ウランバートル(Улаанбаатар ラテン文字転写:Ulaanbaatar)は、モンゴル国の首都。同国中部、トーラ川沿岸の標高約1,300mの場所に位置する都市。人口は約100万人(2004年統計)で、同国の人口のおよそ半数近くが集中する極端な一極集中となっている。名実ともにモンゴルの政治・経済の中心地で、中国からロシアに至る鉄道の通過点。主産業は食肉加工、製粉、製乳。
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[編集] 歴史
ウランバートルの位置するトーラ川流域は、古くからモンゴル高原を支配する遊牧民の政権が置かれた地域のひとつである。この地域は16世紀に現在のモンゴル国の大多数を占めるモンゴルのハルハ諸部が支配するようになり、17世紀にハルハの人々が尊崇するチベット仏教の活仏、ジェブツンダンパ・ホトクトの支配地になった。
ジェブツンダンパ・ホトクトは当初ゲル(帳幕)の寺院に住み、弟子や領民と一緒に季節移動を行う遊牧生活を送っており、ホトクトのゲルが置かれている場所はイフ・フレーと呼ばれる移動する町になった。後にはホトクトは移動生活をやめて現在のウランバートルの場所に寺院を設け、定住するようになったので、周辺に弟子の寺院や巡礼者が集まって門前町が形成され、外モンゴル(現在のモンゴル国)でほとんど唯一の都市に発展した。
モンゴル高原を支配する清朝はフレーを漢字に写してこの町を「庫倫(クーロン)」と呼び、庫倫辦事大臣を置いて外モンゴルのハルハ諸部を統制する出先機関とした。19世紀には庫倫辦事大臣の周囲に漢民族の商人も住み着き、またロシア人も訪れるようになって外モンゴルの政治、経済、交通の中心地となる。
1911年に清で辛亥革命が起こると外モンゴルのハルハ諸部はジェブツンダンパを皇帝(ボグド・ハーン)に担ぎ上げて独立を宣言し、その所在地であるフレーが首都となった。さらに1924年にモンゴル人民共和国成立した後、都市名はフレーからモンゴル語で「赤い英雄」を意味するウランバートル(モンゴル語の発音は『オラーンバータル』に近いが、日本の地理用語としては『ウランバートル』が定着)に改められ現在に至っている。
[編集] 地理
人口だけ見ると100万都市ではあるが、土地や道路がやたらと広いことや高層ビルがひとつもないことから、いわゆる「都会」というイメージはほとんど感じられない。行政的には「首都特別区」と呼ばれ、県と同等の地位を与えられている。特別区はさらに、ナライハ区・バガノール区・バガハンガイ区という3つの郊外区を含む9つの区に分けられている。郊外区は、行政的には都心と陸続きではあるが、そこへ行くためには何もない草原地帯を通過するため、実質的には飛び地のようなイメージである。
[編集] 気候
気候は典型的な大陸性であり、ケッペンの気候区分でいうステップ気候である。最近は暖かくなったと言うが、1月の気温は零下20度前後まで下がる。かつては零下40度も珍しくなく、カナダのオタワと1、2を争う「世界で最も寒い首都」として知られていた。他方、夏はナーダム前後をピークにきわめて暑く、場合によっては40度近くに上がることもある。この時期は異常ともいえる乾燥ともあいまって熱中症、脱水症状、心筋梗塞、腎臓結石等の被害が多発する。特に事情に疎い外国人が発症しやすい。こまめに水を飲む、発汗により失われる塩分の補充等で予防に心がけるべきである。市民は市内を流れる川で泳いだりして短い夏を満喫するが、早い年では8月下旬に早くも初雪を観測し、朝晩は息が白くなる。なお、ソ連(ロシア人)の風習を真似て、市民は夏でも冬でも1日1回は戸外に出て散歩をする。
[編集] 街並み
都市計画は、政府・党関係の公共機関とソビエト式アパート、広い道路などが計画的に配置された完全なソ連式だが、中心部の道路は上空から見ると、差し込む太陽の光とゲルをデザインしたユニークな構成となっている。ソ連式都市計画の特徴として、いわゆる繁華街というものが存在しない構造になっているが、市場経済以降後は土地の占有権(最近は郊外にかぎり所有権も)が解禁されたこともあり、建物の1階部分を改造しての商業化が行われている。建築は、機能的なソビエト・スタイルとパステルカラーのロシア古典様式が中心だが、中ソ対立以前に建てられた現代中国様式や、ソビエト・スタイルにモンゴル独自の意匠を組み合わせた特異なデザインのものも見られる。首都建設の初期には、スターリンとの密約によってシベリアから移送された日本人抑留者が活躍した。日本人により建てられた多くの建築は現在でも現役で使用されている。地震がほとんどないため、工法はレンガを積んだりパネルを組み合わせたりするだけで鉄筋が入っていないケースが多い。
かつては自動車もほとんど走っておらず整然とした美しい街並みであったが、市場経済化以降は違法建築や看板の乱立、自動車の増加によってその面影はない。最近では、中国・内蒙古自治区出身のモンゴル系中国人や韓国人が商店や食堂を経営するケースが多く、場所によっては漢字やハングルばかりの街並みも珍しくない。なお、国際ホテルの存在しない唯一の首都と言われており、香港系のシャングリラ・ホテルの進出(当初2007年稼動開始予定)が期待されていたが、計画は頓挫してしまった。なお、ロシアや韓国、日本の企業により、新興ビジネスマン(モンゴル版オルガリヒ)や外国人、海外出稼ぎでの成功者などを対象とした高級マンション(完全警備のコンパウンド式)が建設され、不動産投資ブームが起こっている。日系では、スルガコーポレーション(本社・横浜市)が日本式マンション主体の高級コンパウンド「フォーシーズンズ・ガーデンズ」を建設中である。
郊外には地方の牧畜業崩壊で首都に流れてきた元牧民が無許可でゲルを建てスプロール化した「ゲル地区」が広がり、そこでの石炭燃焼による大気汚染や不衛生による感染症の拡大、都市景観の破壊など深刻な社会問題を引き起こしている。またストリートチルドレンの増加も大きな問題になっている。
[編集] 交通
市民の足は、社会主義時代は路線バスとトロリー(ゴムタイヤで走る特殊な路面電車)であったが、市場経済化以降はバス車内の治安悪化や渋滞の激化により、タクシーや「ミクロ」と呼ばれる9人乗りのワゴン車などが中心となっている。また、多くの世帯は自家用車を所持し、ちょっとした距離でも自動車で移動する習慣があるため、市内の渋滞はきわめて深刻である。現在、バスに乗るのは学生と老人だけとさえ言われているが、日本政府のODAで供与されたバス99台が故障もなく路線を支えている。なお、右側通行であることや歩行者の交通マナーが悪い(飛び出し等)などから、現地交通事情に慣れていない者は運転手に運転を任せる、あるいは助手席から交通事情をよく観察、把握した上で運転を始める事を勧める。
[編集] 日本からの交通手段
- 航空機
- 直行便:
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- 日本からは、国営のMIATモンゴル航空(MIAT:ミアット)の直行便が就航している。以前は関西国際空港のみの出発だったが、現在は成田国際空港からの便も就航している。ただし、毎日の運行ではないため就航日の確認が必要。搭乗員は日本語ができない場合がある。
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- ソウル経由:
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- ソウル~ウランバートル間は大韓航空ならびにMIATモンゴル航空が毎日就航している。韓国の仁川国際空港で数時間の乗り換え待ちが必要となるが、その日のうちに着ける。
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- 北京経由: 北京出発の時間帯によっては、北京で1泊しなければならない場合がある。
[編集] 生活
かつては電力も水道も供給が不安定で、停電や断水が頻繁に起きていたが、現在では日本のODAの成果もあり、ライフラインはかなり安定している。水道水は日本政府の支援で塩素処理が一応行われているが、慣れていない旅行者は煮沸した水道水や飲用水を買って飲むのが無難である。
社会主義政権崩壊後の経済混乱による家庭崩壊は深刻なものがあり、昼間からの酔っ払い、清掃労働、および物乞いに従事するストリートチルドレンも多い。その為、スリやひったくり、ノックアウト強盗等が年を追うごとに増えており、人込みや日没後の外出は危険とされる。
[編集] 著名な出身者
- 朝青龍明徳(力士。史上初のモンゴル人横綱)
- 白鵬翔(力士)
- 安馬公平(力士)
- 旭鷲山昇(力士。史上初のモンゴル人力士)
- 朝赤龍太郎(力士)
- 鶴竜力三郎(力士)
- ブルー・ウルフ(プロレスラー。朝青龍の実兄)
- オユンナ(シンガーソングライター)