サッカーユーゴスラビア代表
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サッカーユーゴスラビア代表はユーゴスラビアサッカー協会により編成されたサッカーのナショナルチームである。
本項目では、セルビア、クロアチア、スロベニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアおよびコソボにより構成されていたユーゴスラビアを代表するナショナルチームについて扱う。即ちその扱いはサッカーユーゴスラビア代表が崩壊する1992年までとし、以降2003年まで、ユーゴスラビアを名乗った、現在のセルビア・モンテネグロの枠組みでの「サッカーユーゴスラビア代表」(1992年-2003年)についてはサッカーセルビア・モンテネグロ代表に譲る。
目次 |
[編集] 概要
サッカーユーゴスラビア代表は、1920年から1939年まではユーゴスラビア王国サッカー代表として、1945年から1992年まではユーゴスラビア連邦サッカー代表として存在した。ただし、ユーゴスラビア連邦は国名が何度か変更されている。
[編集] 基本的なデータ
最多失点での敗北は3度あり、1度目は、ユーゴスラビア代表の国際ゲームデビュー戦となった、アントワープオリンピックでのチェコスロバキア戦、2度目もオリンピックで1924年のパリオリンピックのサッカー競技でのウルグアイ戦、3度目が翌1925年のチェコスロバキア戦である。
最多得点での勝利は2度。1952のヘルシンキオリンピックでのサッカー競技でインドに10-1で、1974年のワールドカップ西ドイツ大会で、ザイール代表に10-1で勝利している。
ユーゴスラビア代表の最初のインターナショナルマッチは1920年8月28日に行われたアントワープオリンピックにおけるサッカー競技、アントワープで行われた試合で、チェコスロバキア代表に0-7で敗北している。
最後の試合は、1992年のサッカー欧州選手権に向けたテストマッチで、同年3月25日にオランダのアムステルダムで行われたオランダ代表との試合に0-2で敗北している。東ドイツ、ソ連、チェコスロバキアとは異なり、この最後は選手、スタッフ、協会関係者及びサポーターにとって最後の試合になると予期しえぬものであった。
[編集] ユーゴスラビア代表を後継するチーム
1991年から1993年にかけて国家としてのユーゴスラビアが崩壊すると同時にサッカーユーゴスラビア代表も崩壊した。以降旧ユーゴスラビア構成諸国家によりナショナルチームが編成される事になった。1991年から1993年にかけて以下のナショナルチームに分裂している
- サッカーユーゴスラビア代表→2003年からはサッカーセルビア・モンテネグロ代表
- サッカークロアチア代表
- サッカースロベニア代表
- サッカーボスニア・ヘルツェゴビナ代表
- サッカーマケドニア共和国代表
以上5つのナショナルチームである。
さらに、国際サッカー連盟(FIFA)、欧州サッカー連盟(UEFA)に承認されていないナショナルチームとして以下のチームが存在する。
- サッカーコソボ代表
コソボは事実上、セルビア・モンテネグロ、セルビアの統治下から切り離されているが、欧州連合(EU)は、コソボの独立が地域の不安定化をもたらすと考えており、コソボの独立に積極的ではない。このためFIFAおよびUEFAはコソボ協会とナショナルチームの参加を認めていない。
2006年のサッカー・ワールドカップ以降の大会、即ちEURO2008予選からはセルビア・モンテネグロ代表も分裂して以下の2チームに分かれて予選を戦う予定である。
これにより1991年まで存続したユーゴスラビアはこれを構成していた6つの共和国に完全に分離し、これに合わせてサッカーのナショナルチームも6つのチームに完全に分離したことになる。
[編集] 歴史
[編集] ヨーロッパの強豪
ユーゴスラビア代表は、ヨーロッパにおいてもサッカーの強豪国の1つとして知られていた。
ワールドカップへの出場は8回。内、1930年の第1回大会では、3位決定戦を行わなかったため、同じく準決勝で敗れたアメリカ代表と共に3位を分け合ったのをはじめ、1962年大会で4位に入っている。
欧州選手権では本大会に4回出場し、1960年と1968年の大会で準優勝、1972年の大会で4位になっている。
ユーゴスラビアはステート・アマを採用していたので、オリンピックにもA代表が出場していたが、1988年のソウルオリンピックまで10回出場し、金メダル1回(1960年)、銀メダル3回(1948年、1952年、1956年)、銅メダル1回(1984年)、4位1回(1980年)と言う成績を残している。
[編集] ユーゴスラビア代表の崩壊
多くの栄光を手にしたサッカーユーゴスラビア代表であったが、国家としてのユーゴスラビアが崩壊すると同時に代表も崩壊してしまった。
ユーゴスラビア代表最後の代表監督はイビチャ・オシムであったが、彼が代表監督を引き受けた1986年頃には、ユーゴスラビアと言う国は末期的状況を呈していたといわれている。1980年にユーゴスラビア統一の象徴であった、ヨシップ・ブロズ・チトーが死去すると、それまで抑えられていた、各共和国のナショナリズムの勃興が始まった。セルビアではセルビア民族主義を掲げるソロボダン・ミロシェビッチが台頭。経済的に豊かなスロベニアでは「経済主権」を掲げて、ユーゴスラビアからの脱退を主張し始め、セルビア民族主義に反発したクロアチアでも、反ユーゴ、反セルビアの動きが加速していった。
それはサッカーでも同じだった。1980年代末になると、各共和国の民族主義者からは「自分たちの共和国は祖国であるが、ユーゴスラビアは祖国ではない」と言う考え方の下、自らの共和国出身の選手に対して、ユーゴスラビア代表に加わらないように政治的、物理的圧力がかけられるようになった。又ユーゴスラビア国内で行われる国際試合では、スタンドの観客が、ホームチーム、ユーゴスラビア代表ではなく、アウェイのチームを応援することが常態化していた。1988年にベオグラードで、ユーゴスラビア代表と対戦したフランス代表のミシェル・プラティニはなぜユーゴスラビアの観客がフランスを応援するのか理解できなかったと言う。
こうした状況の中では代表チームを編成すること自体が困難になってきていた。各共和国のメディアは他の共和国の選手(特にセルビア)の選手を指して、「なぜあいつを使うのか?それよりも自分たちの共和国の選手の方が素晴らしい」と書きたてて、代表、監督を批判した。セルビア系のメディアでは自国内の対立を持ち込むものまでいた。時にはこうしたメディアがベンチの横にまで入ってきて、文句を吐きかけられたとオシムは証言する。中には文句をまくし立てる横でドラガン・ストイコビッチ(セルビア人)がゴールを決めると、オシムに向かって「結果が間違っている」と叫び、翌日は「このゴールは明らかなオフサイド」と書きたてる記者もいたほどに、凄まじい環境であった。宿舎に極右関係者(レッドスター・ベオグラードのファンとして有名だった)が出入りし、オシムを見つけると微笑みかける、といったことすら稀事ではなかったのである。
しかしオシムは毅然とした態度で、時には記者たちをあしらい、あるときは怒りを爆発させて個人への取材を禁止するなどし、自らが選んだ選手たちの結束を守り(ストイコビッチが述べるように、彼らの友情はその後も壊れることはなく今も続いている)、ユーゴスラビア代表はワールドカップ予選を通過。本大会に進出する。そしてこれが、ユーゴスラビア代表最後の輝きであった。
[編集] ワールドカップ90年大会
イタリアで開催された1990 FIFAワールドカップに臨んだユーゴスラビア代表はミルコ・ヨジッチ(クロアチア)、スレチコ・カタネッツ(スロベニア)、ドラガン・ストイコビッチ(セルビア)等を擁していた。初戦の西ドイツ戦で、デヤン・サビチェビッチ(モンテネグロ)を入れたチームで機能しないことが分かると(イビチャ・オシムはこの試合をわざと負けたと公言して憚らない)サビチェビッチを外して、以降、グループリーグのコロンビア代表、UAE代表を撃破。決勝トーナメント1回戦のスペイン代表もストイコビッチの2得点で下し、ベスト8準々決勝まで勝ち上がった。ここでユーゴスラビア代表を待っていたのがディエゴ・マラドーナ率いるアルゼンチン代表であった。
1990年6月30日、フィレンツェで行われた試合は、数あるサッカーの試合の中でも最も記憶に残る試合の一つとなった。ユーゴスラビア代表はここまでの道程で、中盤の守備の要となるカタネッチを怪我で失っていた。しかもこの試合の途中で、右サイドのレフィク・サバナゾビッチが退場。ユーゴスラビアは長時間10人でアルゼンチンを押さえ込むことを余儀なくされた。それでもこの試合は延長前後半を含めて0-0のスコアレスドローに終わり、準決勝に進むチームの決定はPK戦にゆだねられた。
オシムの証言によると、このときPKを蹴ることを申し出たのはたったの2人。失敗して帰国した際に民族主義者により生命に危険を来たすのを恐れたためと言う。結局ユーゴは5人中オシムが選んだ3人がPKを外して90年のワールドカップを後にした。
[編集] ユーロ92に向けて
ワールドカップをベスト8で終えたユーゴスラビア代表であったが、それでもこのチームの評価は低くなく、92年のサッカー欧州選手権(ユーロ)92では優勝候補の一つとして数えられていた。
しかしユーゴスラビア国内に目を向けると確実に連邦崩壊の危機が迫っており、ユーロ92の予選は、ユーゴスラビア崩壊と足並みをそろえつつ進行されていった。連邦を構成する共和国の内、最も早く連邦離脱を決めたのは1991年6月に独立を宣言したスロベニアとクロアチアであったが、それ以前にこれらの共和国出身の選手は、選手自身の意思とは関係なく、ユーゴスラビア代表への参加を拒まれる状況が出始め、5月16日の対フェロー諸島を最後にユーロの予選はスロベニア、クロアチアの選手抜きで行われた。それでも、デンマーク、オーストリア、北アイルランド、フェロー諸島のグループをわずか1敗で通過した。
予選通過を決めた1991年10月16日の時点で、既にスロベニア、クロアチアは独立を宣言。スロベニアの十日間戦争は早期に終結したものの、クロアチア紛争は泥沼化の様相を呈はじめ、ボスニア・ヘルツェゴビナのクロアチア人、ボスニア人も独立を宣言していた。
こうした状況の中で、ユーゴスラビア代表の運命を決定付ける事件が1992年4月6日に起こる。ユーゴスラビア連邦軍がサラエボを包囲したのである。この事件は2つの意味でユーゴスラビア代表の運命を大きく揺さぶった。
- サラエボは監督のイビチャ・オシムの生まれ故郷だった。この問題はオシムがユーゴ代表監督を辞任する5月22日まで、ユーゴサッカー協会の大きな問題点の一つとなった。オシム自身も、自らの故郷を砲撃している国の監督(彼はパルチザン・ベオグラードの監督も兼務していたが、皮肉にもここは元々ユーゴスラビア人民軍のクラブだった)を務めているというジレンマと戦い続けなけなかれならなくなった。
- ユーゴスラビア人民軍が50万以上もの民間人(その中にはオシムの妻と娘もいた)を内包したままのサラエボを包囲し、市民多数を襲撃した事によってユーゴスラビア、特にその中心を占めるセルビアの悪玉論が国際世論の中で主流を占めるようになったことである。このことはユーゴスラビア代表を国際試合の舞台から引き摺り下ろすことになった。
[編集] 黄昏
1992年春の時点で、スロベニア、クロアチアの選手だけでなく、ボスニア・ヘルツェゴビナのクロアチア人、ボスニア人、更にはマケドニアの選手もユーゴスラビア代表に加わることを拒否しており、実質的にセルビアとモンテネグロによりユーゴスラビア代表が構成されていた。
そしてユーロ92出場に向けてスウェーデンに出発する直前の1992年5月22日、前日にユーゴカップをパルチザンの監督として制し、直後にその職を辞任した代表監督イビチャ・オシムは、代表の監督も辞任した。会見で彼が挙げた辞任理由は「サラエボのために唯一自分が出来る事」という物であった。そしてオシムの辞任を受けて、まだユーゴ代表としてプレーしつづけていたマケドニア人FWダルコ・パンチェフも去った。セルビアとモンテネグロの選手の中にもこのような事態になってしまったことを抗議する意味で辞退しようとする動きが出たが、これはオシムの説得で止められた。
1992年5月28日、オシムの見送りを受けたユーゴスラビア代表はスウェーデンに向かったが、ストックホルムに着いた時点で、以下の内容を通達された。
- 国際サッカー連盟及び欧州サッカー連盟は国際連合のユーゴスラビア(実質的にはセルビアとモンテネグロ)への制裁を受け入れ、全ての国際試合からユーゴスラビア代表を締め出す。
- ユーゴスラビア代表はユーロ92への出場資格がないので、直ちにスウェーデンから出国する事。これは強制措置である。
- スウェーデン政府は、人道目的による措置を除き、ユーゴスラビア代表スタッフ・選手その他関係者一切の入国を許可しない。
五輪メダル5個獲得、ワールドカップトーナメント進出4回、ユーロ準優勝2回。栄光のユーゴスラビア代表最後の瞬間は、アーランダ国際空港通関ロビーの片隅で訪れた。
ユーロ92にはユーゴスラビアの代わりに予選2位であったデンマークが出場した。慢性的に守備能力不足が問題であり、かつ急造のチームであったが、強豪であるフランス・イングランドを蹴落としグループリーグを2位で通過。トーナメントでは、名だたるタレント達を擁し連覇を確信するビッグチームオランダや、同じく優勝候補ドイツを攻略、ついに悲願のタイトルを手に入れた。
ストイコビッチはベローナでこのニュースを聞いたとき、オシムの言葉を思い出したという。「サッカーはわからない」。
[編集] ワールドカップの成績
- 1930 - 3位
- 1934 - 予選敗退
- 1938 - 予選敗退
- 1950 - 1次リーグ敗退
- 1954 - ベスト8
- 1958 - ベスト8
- 1962 - 4位
- 1966 - 予選敗退
- 1970 - 予選敗退
- 1974 - 2次リーグ敗退
- 1978 - 予選敗退
- 1982 - グループリーグ敗退
- 1986 - 予選敗退
- 1990 - ベスト8
[編集] 欧州選手権の成績
- 1960 - 準優勝
- 1964 - 予選敗退
- 1968 - 準優勝
- 1972 - 予選敗退
- 1976 - 4位
- 1980 - 予選敗退
- 1984 - グループリーグ敗退
- 1988 - 予選敗退
- 1992 - 出場資格取り消し
[編集] 関連書籍
- 木村元彦『オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える』2005 集英社インターナショナル ISBN 4797671084
- Ivica Osim,Gerald Enzinger,Tom Hofer『Das Spiel des Lebens』Deuticke ISBN 3216305945
[編集] 外部リンク
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