ダライ・ラマ14世
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ダライ・ラマ14世 | |
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1935年7月6日 - | |
尊称 | クンドゥン ギャルワ・リンポチェ |
生地 | チベット |
宗派 | チベット仏教ゲルグ派 |
基本教義 |
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縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
インドの仏教、日本の仏教 |
韓国の仏教 |
経典 |
聖地 |
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ウィキポータル |
ダライ・ラマ14世(1935年7月6日(チベット暦5月6日)- 、在位1940年 - )は、第14代のダライ・ラマで、法名をテンジン・ギャツォ (チベット文字: བསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ་; ワイリー方式: Bstan-'dzin Rgya-mtsho )といい、チベット仏教のゲルク派の最高位の仏教博士号(ゲシェ・ラランパ)を持つ僧侶であるが、チベット仏教の全宗派の伝統の教えを継承し研鑚を積んでおり、教え・実践両面のすべての領域における最高の権威者(チューキ・ギャルポ;法王)として広く認められている、チベット亡命政府の指導者である。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] ダライ・ラマ
幼名ラモ・ドンドゥプ(ལྷ་མོ་ཌོན་འགྲུབ་ Lha-mo Don-'grub)といいアムドのタクツェル(青海省海東地区平安県祁家川)の土族の農家に生まれた。2才の時に第13世ダライ・ラマ、トゥプテン・ギャツォの転生と認定され、ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ(聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられた。
[編集] チベット亡命政府
1949年に中国の人民解放軍がチベットへ侵攻。1956年に勃発した「チベット動乱」を経て、1959年3月17日に隣国のインドへ政治亡命した。
現在、インドにチベット亡命政府を樹立し、チベットの高度な自治権を主張している。度々、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国を始めとする世界各地を、世界平和とチベット国家の平和的樹立に関する講演や運動のために訪れている。しかし、訪問の度に中華人民共和国からこれらの国へ対して外交ルートを通じて様々な横やりや妨害が入り、外交問題になるケースが絶えない。
[編集] ノーベル平和賞受賞
然し、中華人民共和国と国交を結んでいる各国の指導層や著名人の中にも支持者は多く、1989年には世界平和やチベット国家の平和的な樹立に対する運動が高く評価され、ノーベル平和賞を受賞することになった。なお、「ダライ・ラマ14世」は、中華人民共和国政府によるネット検閲に掛っている禁止ワードであり、ノーベル平和賞の受賞に対しても完全無視を決め込んだだけでなく、関連図書の持込さえも禁止されている。 チベット人たちは、中華人民共和国政府によるネット検閲に利得優先で加担したアメリカ企業であるGoogleを批判している。
[編集] 自著
- 『ダライ・ラマ自伝』 ISBN 4163457208 ISBN 4167651092
- 『チベットわが祖国―ダライ・ラマ自叙伝』中央公論新社 2001年改版 ISBN 412203938X
[編集] オウム真理教による権威の利用
数々の宗教テロを実行したオウム真理教に、ダライ・ラマの権威を利用され、教団の実情を知ってか知らずか音響機器や光学製品を寄贈され受け取ってしまったことがある。この時、教祖の麻原彰晃とツーショット写真を撮った為、それを教団の宣伝に使われてしまった。
1995年3月、来日の際、成田空港で記者達よりそのことについて質問ぜめにあってしまった。
[編集] 映画
- 「クンドゥン」(1997)(アメリカ)名匠マーティン・スコセッシが、映画史上初めてダライ・ラマ14世の半生を描いた作品。ダライ・ラマ14世の転生者である少年を発見し、彼がチベットを脱出してインドへ亡命するまでの22年間を、歴史的事実に即して描いてゆく。
- 1997年に、若き日のダライ・ラマ14世と登山家ハインリヒ・ハラーとの交流を描いたアメリカ映画、セブンイヤーズ・イン・チベットが製作され世界中でヒットした。
[編集] その他
日本に入国する際は、中国政府に気を使って政治活動をしないなどの条件がある。
2007年4月7日、インドのマスコミの取材に対し「チベットは、中国からひどい統治を受けているものの、中国の一部である」と表明した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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