ツービート
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ツービート (TWO BEAT) はビートたけし(本名:北野武)とビートきよし(現・ビートキヨシ、本名:兼子二郎)の二人が組んでいた漫才コンビ。
1974年に結成。
1998年の一時期、弟子の浅草キッドが二代目を名乗っていたことがある。
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[編集] 経歴
二人は東京浅草の通称「公園六区」にあったストリップ劇場でたけしは浅草フランス座(現在は演芸場の浅草東洋館)で深見千三郎門下のコメディアンとしてコントの下積み修行を、兼子二郎(ビートきよし)はロック座で劇場進行の修行をしていた。たけしは当初同じフランス座の同僚とコンビを組み活動をしていたが相棒が神経性の病気から入院をしてしまい、自然と解散へ。そこへきよしから声がかかり新たにコンビを組んだ。ビートたけし作詞作曲の名曲浅草キッドに登場する相棒はきよしではなく、この最初の忘れ得ぬ相棒の事である。TVドラマ浅草キッドではこのあたりはストーリーを簡潔にするために、脚本では相棒ははじめからきよしである事になっている。
しかし当初はきよしがネタを作りボケ、たけしが突っ込むスタイルのコンビは全く評価されない状況が続いた。そこできよしの「やはり有名な師匠の所に居ないとだめだよ」との発案で松鶴家千代若・千代菊門下に入門し、松鶴家二郎・次郎を名乗って活動を行い、その後も空たかし・きよしのコンビ名に変えるも相変わらず状況は変わらなかった。このようないきさつから意図的に門下を経る行動があったので結果的に師匠が複数人存在するが、たけしが“師匠”と一意に語り自己の原点として、また最も影響があったと語るのは深見千三郎のみである。また世話になったレベルで言えば次は東八郎辺りである。
この八方塞がりの状況で北野が兼子に代わって主導権を握る事となり、コンビ名をツービートと改名。余りの受けなさに舞台でポコチンを出したり、客に毒舌でいじるなどの追いつめられて行った行動が徐々にスタイルになり、ツービートの原型となった。しかし決定的だったのは大阪の新進漫才師B&Bとの出会いである。後に紳助・竜介も倣うシンプルで間を減らしたテンポの速い“16ビートの漫才”を見て衝撃を受け、ツービートもこれを取り入れ、たけしがひたすら猛烈な勢いでしゃべり倒し、アトランダムにきよしが突っ込む高速漫才へ変貌した所から評価が上がり出す。
1970年代後半から状況は様々に変化を見せ、立川談志や漫画家の高信太郎等がツービートを評価し出し、所属事務所も太田プロへ移籍。大阪で興ったB&Bに加えてTV放送『ヤングおー!おー!』出演のお笑い若手達が組みだしたコンビとツービートなど、以前とはスタイルの違う新世代の漫才師を一つのムーブメントとして過去の“漫才”から一線を画する意味で“マンザイ”、“MANZAI”としてフジテレビで『THE MANZAI』(全11回で終了)として番組に構成。これらのメンバーを中心に所謂“マンザイ・ブーム”と呼ばれる社会現象になった。
特徴はボケと突っ込みのコンビ構成である点は変わらないが、服装もツナギ(紳助・竜助)やコンビロゴの入ったスウェットシャツ(B&B)、デザイナーズブランド(ビートたけし)、アイビースタイル(ざ・ぼんち)とバラエティに富み、アイドル性を加味している。ただし後にTV番組『ダウンタウンDX』でゲスト出演の紳助が「実際はB&Bと紳助・竜助、ツービートだけが新しいもので他は既存のものであった」と語る通り、このB&Bに触発された合計3組のコンビが目立っていた。しかしツービートはテンポが速いのみならず、“毒舌”と評される“ジジイ・ババア・ブス”をはじめとした単語を多用し、それまでは穏和で、ある意味媚びたスタンス漫才師が一般的であった背景からコンサバ層(婦人、壮年、高年齢層)には受け容れられず、“THE MANZAI”出演当時も事実、人気は5番目あたり(本人談)に位置し、当時はほぼ完全に若手サラリーマンや大学生と言った新しい刺激やスタイルに直感的に敏感な世代のみに支持されていた。
ちなみにたけしの毒舌スタイルはフランス座で、礼儀を知らない客を舞台から怒鳴りいじり、田舎者をバカにする深見千三郎の「ばかやろう、このやろう」の「心優しい、口悪い」のスタイルと、もともと東京下町では口が悪いが腹は何もないカラッとした毒舌は日常的であった(母北野さきも似た語り口である)。つまり原点が全て出たのがこのスタイルであったと言える。
興味深いのは『THE MANZAI』では当時関西ばかりにタレントが揃い東京勢が稀少であったにもかかわらず、自らの意志(きよしが漫才をやめたがっていた)で第5回を以て出演を最後にしている。ツービートの漫才が浸透し要望が高まっていた頃には既に『THE MANZAI』から姿を消していたのである。漫才の舞台から姿を消すのと同時期にたけしはソロ活動を開始。LF『オールナイト・ニッポン』では深夜放送のヘヴィユーザーである受験生に絶大な支持を受け、勤労層の若者は録音で愉しみ、テープを回し何度もその早口を聞き取る事を喜びとした。
1981年に『THE MANZAI』のスタッフがそっくり移行しフジテレビでスタートしたバラエティ番組『オレたちひょうきん族』に出演。タケチャンマンを中心として人気を得てゆく。最大の“おばけ番組”としてライバル『8時だョ!全員集合』(元からこの番組に視聴率で勝つのが命題であった)を遂に視聴率で凌いだ辺りで一つの区切りとなり、たけしは独自に当時徐々に膝下に集まってきたたけし軍団を率いたバラエティ番組にチャレンジする。土居勝司会の『TVジョッキー』をパワーアップさせた『スーパージョッキー』や、TBS系の『お笑いサドンデス』、『笑ってポン』、TV東京『気分はパラダイス』等に構成と主演に精力的に取り組む。同年にはANB系『クイズマガジン81'』(82'で終了)をツービート司会でスタートし、TBSでは他に『世界まるごとHOWマッチ』にもレギュラー出演している。
1985年にNTV『天才・たけしの元気が出るTV!!』、『OH!たけし』、ANB『ビートたけしのスポーツ大将』、TBS『風雲たけし城』を新たに自己の企画、構成、出演の番組をスタートさせ、『俺たちひょうきん族』も合わせて民放4局8時ゴールデンタイムの視聴率トップを達成する偉業を成し遂げるなかで、相棒きよしとの出演は『スーパージョッキー』と『OH!たけし』(ゲスト出演)に残る事になるが、たけしは続けたかった漫才を先を考えずにやめたがったきよしに対して仕事の面倒を見る意味でキャスティングした、たけしならではの配慮と思われる。
たけしの番組『北野ファンクラブ』内で一時ツービートを復活させて以来、現在は2人での活動はあまり行われていないが、正式な解散はしていない(最近でも、オフィス北野所属の若手のライブで前説をしたり、北野タレント名鑑の最終回で共演をしたりと、趣味程度の活動をしている)
[編集] 芸風
コンビ名ツービートの由来を本人が好んだジャズからである、Beet=甜菜=天才に掛けている等深読みする向きもあるが本人が語る所「適当」だそうである。
ブラックユーモアを「毒ガス」と称した毒ガス(=毒舌)漫才で漸く人気を勝ち取った。
主に出演していた浅草松竹演芸場では、彼らが高座に上がると地下の楽屋にいた芸人仲間が客席に入り、身内をも味方に付けた高座は常に爆笑に包まれた。
主なネタは「ブスいじめ」「田舎者いじめ」「老人いじめ」等、いわゆる「いじめネタ」が多かったが、「赤信号、みんなで渡れば恐くない!」といったフレーズ等、人間の本質を抉ったブラックユーモアが漫才ブームでは受けた。
関西で爆発的人気を得ていたB&Bが同じブラックユーモアの「岡山いじめ」をツービートより先に演じていた。漫才ブームが去ってからの北野はついに漫才ではB&Bに勝てなかったと各場所で発言している。
コンビ結成当初はきよしがネタを考えていたが、受けなかったため、やがてたけしが自分から要望し「一回でいいから俺にやらせて」と。初めてから以後ネタを担当するようになった。 たけしが一人で攻撃的なギャグを喋りまくり、横のきよしがたまに「よしなさい」と諌めるという、漫才というよりは、むしろ漫談、スタンダップコミックに近いスタイルを取った。これはB&B、紳助・竜助と共通する新世代漫才の特徴でもあった。
NHKの漫才コンクールには1976年から3回連続出場したが、優勝は逃した。昭和のいる・こいる、星セント・ルイス、東京二、京太がその時の優勝者である。
二人での漫才の練習はほとんどなく、仕事を離れればプライベートのつきあいもなかったが、仲が悪いというわけではなく、プライベートでは別々だったことがコンビが続いた理由だとたけしは回想している。
[編集] テレビ出演
- 笑点(日本テレビ)
- 三波伸介の凸凹大学校(東京12チャンネル)
- THE MANZAI(フジテレビ)
- 笑ってる場合ですよ!(フジテレビ)
- ツービート笑ってゴマかせ!(TBS)
- オレたちひょうきん族(フジテレビ)
- クイズ!!マガジン(テレビ朝日)
- やじうま寄席(日本テレビ)
[編集] 映画出演
[編集] 関連項目
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