ビル・ゲイツ
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ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ三世 KBE(William Henry GATES III、1955年10月28日 - )は、実業家でマイクロソフト社の共同創業者であるアメリカ人。称号はイギリス女王より名誉騎士(名誉大英勲章ナイト・コマンダー)、早稲田大学及び立教大学より名誉博士を贈られている。左利き。
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[編集] プロフィール
アメリカ合衆国ワシントン州のシアトル生まれ。ハーバード大学を中退するも2007年名誉学位号を授与され、形式的には卒業となった。 立教大学から名誉博士号を授与されたとき、「大学を出ていない私が、大学から、このような学位を得れて嬉しい」と語った。
正確には四世である(先祖に同名の人物が父親含めて3人いる)が、父親が従軍した際、自分が三世だと貴族みたいで笑われるという事で“二世”と書いてしまい、(アメリカでは二世はsecondといわずにJr.という)それをそのまま忘れ、子供の名前を届け出る際誤って“三世”と書いてしまった。ビジネス上の書類などでは三世と自署している事はこれらのエピソードに由来する。よって本名は William Henry Gates 3rdである。
ナポレオンの研究家でもある。世界で唯一の、個人の「レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿」の保有者。ピンボールが好きで、自宅にも何台か設置されている.
テキサス州ダラス市生まれの旧姓メリンダ・フレンチと1994年1月1日に結婚し、3人の子供とともにシアトル地区、マダイナに在住(2005年7月現在)。世界中を飛び回っているが、飛行機に乗る時には必ずエコノミークラスを使用している。 ポルシェ 959やレクサス、他多数を所有。
[編集] 経歴
- 詳細については、「マイクロソフト」を参照のこと。
ゲイツは、1955年10月にシアトルでウィリアム・ヘンリー・ゲイツ・シニア(1925年 - )とマリー・マクスウェル・ゲイツとの間に生まれた(姉にクリスティ、妹にリビーがいる)。ゲイツ家は裕福な家庭で、父は法律家、母は銀行役員の秘書として働いていた。彼は小学校を優秀な成績で卒業し、特に算数と理科が得意だった。その後、シアトルの私立レイクサイド中学・高校に入学した。レイクサイド校は、1967年当時シアトルで授業料が最も高い学校だった。レイクサイド校ではDEC社のPDP-10を生徒に貸しており、そこでコンピュータに興味を持つようになった。高校生のとき、友人のポール・アレンとともにトラフォデータ社を創業し、州政府に交通量計測システムを納入したり、オレゴン州ポートランドの会社の、COBOLでの給与計算システムの作成を手伝ったりしていた。1973年に、ゲイツはハーバード大学に入学(コンピュータ科学専攻)、そこでスティーブ・バルマーと知り合った。
1975年、ポピュラー・エレクトロニクス誌にアルテア8800のデモが載っていたのを読んだゲイツは、アルテア8800を販売していたハードメーカーMITSに電話をかけ、実際には未だ何も作成していないBASICインタプリタについて「私は作成に成功した。購入してくれないか?」と鎌をかけた。その結果、返事が返ってきたため、同社がBASICの販売に関心があると見抜き、それから開発を開始した。このときはレイクサイド高校の寄宿舎をトラフォデータ社の電話番号としていた為、リダイヤルしたエド・ロバーツは悪戯だと思い込んだ。しかし八週間後、ゲイツとポールの寝食を忘れたプログラミングの結果BASICは完成する。 いざ完成してMITSの本社のあるニューメキシコのアルバカーキに運ぶ際、アレンがBASICのブートローダの開発を忘れていたことに気がつき、移動中の飛行機中で完成させた(このときゲイツはシアトルでアレンの帰りを待っていた為同席はしていない)。そしてゲイツはハーバード大学を中退し、アルバカーキに引っ越してアレンと共にマイクロソフト社(当時はMicro-Softと綴った)を創業した。
1980年、IBMよりOSの開発を要請された際に、Seattle Computer Products 社から$56,000と破格の条件で(タダ同然の価格でだまし討ちであったと言われ、後に100万ドル支払っている)手に入れたCP/M互換OS、86-DOS(QDOS)をPC-DOS(MS-DOS)という名前で納入し、現在の基礎を作った。
しかし、パロアルト研究所でAltoを見ていずれMS-DOSでは将来的に通用しなくなる事も理解していたため、Windowsの開発に乗り出した。断られたりはしたが、MacのOSをライセンス契約をしようとしたり、Macの最初のサードパーティとしてMacintosh用のWordやExcelの制作も、そういった動きの一環だと見る向きもある。そして、Macintoshの発表前に、アジア圏を中心にWindowsを発表。結果的にApple社を出し抜いた形になったため、ここからスティーブ・ジョブズと彼との、または、Macを愛用するものとWindowsを使用する者との確執は始まったとも言われているが間違いである。当時の、タイリングしか出来ないDOSのシェルであったWindows 1.0は初期のMacに比べても非常に貧弱でソフトもほとんどなく、Windows 3.0が出るまではライバルと成り得なかった。AppleとMicrosoftの訴訟合戦はジョブズがAppleを去った後のことであり、ジョブズが1997年にAppleに戻ってから和解している。同社の開発したオペレーティングシステムのMicrosoft Windowsは1990年代後半には世界1位の市場占有率となり、彼の名は世界に知れ渡った。
現在はマイクロソフト社の会長。アメリカの雑誌フォーブスの2006年世界長者番付によると、個人資産は推定530億ドル(日本円で約6兆2000億円)で13年連続の世界一となっている。大半は同社株の売却益や含み益で、現在も同社株を約10億株(発行済株式数の約9%)を保有している。
2006年6月15日、2年後の2008年7月に第一線から身を退き(会長職には留まる予定)、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団での活動を重視し、同日、CSA(Chief Software Architect、主席ソフトウェア設計者)職をレイ・オジーに移譲すると発表があった。
[編集] ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団
ビル・ゲイツが彼の妻メリンダ・ゲイツ、父親のウィリアム(ビル)・ゲイツ・シニアとともに作った慈善団体。2005年には国際団体ワクチンと予防接種のための世界同盟に、民間としては最大規模の7億5000万ドルの寄付を発表した。
財産管理は主にメリンダが行っており、寄付をする際の検査は、厳格に調査していると公表している。
なお、2006年6月15日の記者会見にて、2008年7月にマイクロソフト社の経営とソフト開発の第一線から退き、「ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金」の活動に専念すると発表した。早期に引退し慈善活動に携わることが成功者の美徳とされるアメリカの慣習に法った決断と言える。
2006年12月1日までに、財団の資産を夫妻の死後50年以内に全額寄付し、活動を終えると発表した。 同基金は「我々が取り組んでいる問題を今世紀中にめざましく進展させるため」と、存続期間を限定した理由を説明している。 同基金は、途上国のエイズ、マラリア、結核の根絶や教育水準の改善などに尽力しており、今後は寄付を拡大する方針も明らかにもしている。
[編集] トリビア
[編集] 外部リンク
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